2016年12月11日日曜日

「ファミリー ヒストリー」から『現代日本語音図』まで 


惑星倒し ゲーム 11/28


「ファミリー ヒストリー」の1コマ 12/1  


柳は ミドリ 12/3 


赤い 実 12/3 
赤い 実3



「古事記を 読む 会」忘年会 12/4  




画像に ついて

惑星倒し ゲーム…デイ サービス まちなかでの 所見。前回 ご紹介した 「魚つり ゲーム」と 同類ですが、ブログで 紹介するには いろいろ 制約が あり、絵に するのは むつかしい ですね。それにしても、「○○ゲーム」、「カラオケ」、「書道」など、趣向を 変えて 企画し,準備する スタッフの みなさん。ほんとうに ごくろうさま!

「ファミリー ヒストリー」の1コマ…本文参照。

柳は ミドリ…いたち川 遊歩道の サクラは 紅葉の 時期を 過ぎ、クログロと した 幹や枝を さらけだして いますが、柳は まだ ミドリの葉を 垂れ流して いました。おつかれさま!    

赤い実…この季節,いたち川遊歩道は かなり 殺風景に なりますが、雪見橋 下流左岸まで くると、この 「赤い実」に 目を みはる ことに なります。「千両」とか、「万両」とか 呼ばれて いる ようですが、正式の ナマエも たしかめて いなくて、ごめんなさい!

「古事記を読む会」忘年会…本文参照 



ファミリー ヒストリー、市村正親 編

121(),夜7時半から、NHK TVの「ファミリーヒストリー、市村正親 編」が 放送されました。わたしは 不勉強で、市村正親さんが 俳優さん だとは 知って いましたが、どの 劇団に 所属して、どんな 作品に 出演して こられたか、くわしい ことは 知りません でした。その わたしが、この日 よる、テレビの まえで ファミリー ヒストリーの 放送を まちかまえて いたのは、ちょっとした ワケがあ ります。それは、夏ころ、正親さんの お父さん(信之さん)との 関連で、番組 スタッフから 取材を 受けて いた からです。

 この 番組では、毎回 有名人の 家族史を 紹介して います。市村信行さんが 昭和15年から21年に かけて、華北交通の 北京鉄路局や 済南鉄路局などに 勤務して いた ことから、当時の 様子を 語れる 人物を さがして いた ところ、たまたま わたしの ブログに「華北交通の ころ」の 記事が あった ことで、日本海文化悠学会 代表の 仙石正三さんを 通して、わたしへ 取材して みようと いう ことに なった ようです。

 「当時の 華北交通の 様子を お伺いしたり、写真資料や 名簿などが あれば 拝見させていただき、取材の 参考に したい」との こと でしたが、わたし自身と しては、この 番組の ための 取材を うける 資格が ないと 感じて いました。信之さんが 入社したのは昭和15年夏ごろで、わたしが 入社したのは 昭和16年 春の 定期採用 ですから、時期的には ほぼ 同時期に 在籍して いた ことに なります。しかし、わたしが 手元に もっていた 名簿(会社側発行)に 「市村正親」と いう ナマエは 見あたりません でした。ナゼ名簿に 記載もれと なったのか? おそらく、この 名簿 そのものが、会社 消滅後に 作成された ものであり、十分な 資料が そろわなかった などの 事情に よる ものと 考えられます。市村信行さん 以外にも、よくにた 事例で 相談を 受けた ことが あります。これが 昭和15年 以降の 定期採用組の 場合は、戦後に 自分たちで 「長安会」と いう 組織を つくり、毎年 機関誌「長安」を 発行したりして いましたので、名簿もれは めったに なかったかと 思います。

 こんどNHKの 取材を 受けて、わたしが 証言を ためらった 理由が もう一つ あります。ディレクターの 伊藤さんから「番組の演出上、(放送当日までは) 取材に ついて 公表する ことは さしひかえて いただきたい」と いわれて いましたが、放映から だいぶ 日が たちましたので、ひとこと いわせて いただきます。取材に 当たって、信之さんに かんする 資料として わたしが 伊藤さん から いただいたのは、信之さんが 戦後 発行された新聞「武州新報」第340号、第357号、第360号の コピー だけ でした。

 その 署名記事「空転五〇年」の中で、信之さんは「軍隊生活(3年半で、 一兵卒から 曹長まで 出世)」、「北支の生活(昭和15年夏、現地除隊。青島特務機関入り。華北交通の警務団に所属)」に ついて、かなり 具体的に 報告されて います。たとえば;

○続、軍隊生活

 軍隊の中で兵は馬鹿でクソまじめで、陰日向なく働き、そして要領よく、健康で命をソマツにする者が出世が早い。私はその要点を大体揃えていたので、三年半で除隊する間に軍曹になっていた…

 日課の概要を記すと、起床五時半とすると、三時ごろから便所へ行くふりをして軍服を着てしまい、ハキものを検べ、銃や木銃、銃剣術の用具など、すべてを準備して、帽子を握って、軍服のまままた毛布にもぐりこみ、起床ラッパと同時に飛び出して、整列の順位争いからはじまるのである…

 前に「要領」といったが、上官に認められるには、キリもなく働くことももちろんだが、人と変わったことをしなければならなかった…また、その人なりの特技もフルに出して利用しなければならない。理髪屋は理髪をしてやって点をかせぐし、服屋は上官の服の手入れ、剣道の達者なやつは中隊長のお相手をして、そして器用に程よく負けることだ…

 わたしの秘中の手は、便所掃除であった。大便もそうだが、小便をする容器を寒中でもあら縄を丸めてゴシゴシやるのである…「誰がやったのかな」と幾日も思わせておいて、時たま作業中を露見させるのである。故意に点数稼ぎにやっているのではない、と見せるところがミソなのである。

 とにかく、初年兵のうちはそんな状態だから、寝る時間は二、三時間きりないのである。 昨今。老兵たちが、「軍隊で鍛えた者でなければダメだ」と自負するのを聞いても、わかるような気がするのである。

○続、北支の生活

(現地除隊したあと)「青島特務機関」に入ることにして、「華北交通」の警務団(鉄道の警備及び沿線住民の治安工作を担当)に入団。当初の配属は済南警務局張店警務段の雛県分所…

 当時の北支鉄道の警備は、重要駅を日本軍が警備し、その中間を鉄道の警務団が受持ち…いわゆる軍・官・民の協同警備であった。、

 命しらずの軍隊から中国の社会に出たとはいえ、至るところに鉄道爆破や…八路軍のテロが続発していた.われわれは日本軍隊から解放されただけで、早くも気がゆるみ、適当な日々を過していたのは、今思い出せば、まるで子供であったのである。

 軍隊では二、三十名の兵隊を指揮できる鬼軍曹であっても、中国社会に出ては、四、五名の中国人も掌握できるものではなかった。

 われわれが配置について一カ月も経たぬ間に、鉄路をまもる分所(中国人の)は次々に八路の襲撃を受け、あるいは頭をブチ抜かれ、又は背中から刺され、遂には楊団長までギャク殺されてしまったのである…+

 (昭和十五年の夏、中央鉄路学院の普通科生として、二百名が二カ月の訓練に入った)…私等のように根っからの歩兵の第一線卒業兵では、この学院の訓練など屁みたいなものであり、只少し鉄道用語と鉄道上の戦術を身につければ満点であったが、中国語は興味深く、かなり熱心にやった、そして休日には、前門(チエンメン)の遊郭や「ショートル市場」(泥棒市場)、王府井…天壇、北京城、万里の長城と、遊び場には困らなかった…南方のフィリッピンやスマトラ、ガダルカナル等の戦況から思えば,将に北京は王道楽土の極楽であった…中央鉄路学院の訓練を終り、一度張店警務団に配属になったが、一週間もたたぬ間に,今度は副教官として転勤を命ぜられた…

 長々と 引用させて いただきましたが、信之さんが 模範的な 日本軍兵士 であり、華北交通社員 だった ことが よく 分かると 思います。しかし、こうした 兵士や 鉄道員を かかえた 日本軍・日本帝国が 惨敗した ことも 事実です。

 信之さんは「(当時の 北京は) 王道楽土の 極楽 だった」と 語って いますが、それは信之さん など、一部 日本人の 認識を しめす だけの もので、客客観的な 歴史事実とは いえません。ぎゃくに、中国人に とっては 「日本帝国主義に よって 侵略され、独立を 失い、地獄に 突き落とされた」と いう 感じ だった ことも 推定されます。

信之さんは「鬼軍曹で あっても、中国社会に 出ては、四、五名の 中国人掌握できる ものでは なかった」とも 語って います。これも 正直な 告白だと 思います。この 点に ついては、日本陸軍の 上層部まで ふくめて 認識不足で、「まるで 子供 だった」人たちが 多かったと 考える ほか ありません。

敗戦直前 まで、水面下で 八路軍と 直接交渉して、鉄道輸送を まもって いた 事例(張家口 鉄路局 青龍橋 工務段)を 見てきた わたしと しては、つまるところ、国籍や 民族の ワクを こえた、自由平等の 信頼関係を きずく ことが できるか どうか、それが キー ポイントかと 思います(この項、くわしくは ブログ「七ころび、八おき」の「華北交通のころ④」を参照)

  年よりの クリゴトは さておき、「ファミリー ヒストリー、市村正親 編」の 放送は 好評だった ようで、おめでとう ございます。



古事記を 読む 会」研修会

124() 午前、茶屋町 豊栄稲荷神社で 「古事記を 読む 会」研修会が あり、イズミから、『現代日本語音図』を 資料と して、①「五十音図」を 見直す、②「現代日本語音図」の こころみ、③「8音図(64音図)」、④コトバの流通原理(音声と 意味の 対応関係)、⑤日漢英 音韻比較の あゆみ、⑥「日漢英 共通 64音図」などに ついて、報告・提案させて いただきました。

コトバとは ナニか? 意味とは ナニか? 音声(音形)と 意味の 対応関係を 保証する ものは ナニか?ふだんは なにげなく 使っている 日本語ですが、あらためて 考えて みると、けっこう むずかしい 問題だと 思います。

 日本語は、単純種の 言語か、それとも 複雑種の 言語か? 現代日本語は、ヤマトコトバと 漢語の ほかに、英語など 出身の カタカナ語を ふくめて 構成され、通用して います。この 実態から 見て、現代日本語雑種の 言語(チャンポン語)だと いうことは あきらかです。

 それでも、ヤマトコトバ純粋種の 言語だったと する説も ある ようです。この 問題に ついて 議論するには、まず「ヤマトコトバ」や「純粋種」などの 定義を してかから なければ なりません。ヤマト[倭・大和・日本]は、「もと 大和国の 一部の 地名で あったのが、いまの 奈良県全体の 名称と なり、さらに 日本国全体の 呼び名と なった もの」と されて います(時代別国語大辞典、上代編)。時代の 変化と ともに、ヤマトと 呼ばれる 地域が ひろがり、ヤマトコトバの 流通する 地域が ひろがった ことが 考え られます。同時に また、コトバは 人と人との 交流手段 ですから、交流相手の 人たちの コトバも 大胆に とりいれ、ヤマトコトバの 語彙体系を ゆたかに して いった ことが 考えられます。

 外来語を とりいれる ことに ついては、いろいろ 問題点も あります。たとえば 現代日本語の中の 漢語では、「同音異義」の 問題が そうです。おなじ コウエンと いっても、[公園・講演・公演・後円・後援・好演・口演・高遠]などが あり、ミミで 聞いた だけでは 区別が つきません。もとの 漢語(中国語)では 区別して 発音されて いたものが、日本語の 音韻感覚に あわせて 発音される ことで 同音に なったと いう 事情も ありますから、漢語の 責任とは いえません日本語内部の 問題と して 対策を 考える ほか ありません。たとえば、コウエン[公園]パーク(parkと 呼びかえれば、コウエン[講演・後援]などと まちがわれる ことは なくなります。Pak(公園・駐車場)は、もともと 「ヒトや モノを パクパク・パクル ところ」ですから、日本語の 音韻感覚にも ピッタリ 一致すると 思いますが、いかが でしょうか?
 日本語と 漢語と 英語の 語音を 比較・分析して、音韻感覚の チガイを あきらかに する ことも 大切ですが、国籍や 民族の チガイを こえて、人類の 言語と しての 共通点を さぐる のも たいへん おもしろい ことだと 思います。これらの 作業を とおして、やがて インド・ヨーロッパ語と 日本語・漢語 などとの 関係を 考える上で、なにか ヒントが 浮かんで くる かも しれません。おもしろそうな 語音タイプは、「カツ(カチワル)カツ[割]cut(k-t)、「カブ[頭・株]カフ[]cap(k-p)、「サク[裂・割・咲]・スク[]サク[作・索]ski, science(s-k)、「タム[溜」とタ[湛・潭]dam(t-m)など、山ほど ありあす。

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