2011年10月4日火曜日

富山東部中5回生の思い出


東中5回生の懇親会、2011


彼岸花が満開


切り絵「晩秋の称名滝」福田温旦


「学研・漢和大字典」


東中5回生の懇親会に出席
922日夜、小幡駿君にさそわれて「東中5回生有志の懇親会」(第一ホテル)に出席しました。正式な同期会ではなく、5回生一部有志の交流会として、毎年1回開催しているとのこと。ことしも昼間のゴルフ会につづき、夜の懇親会がセットされていて、今回はたまたまイズミにも声がかかったということのようです。  

出席者合計22名。内、女性4名。東京・横浜からも参加があり、この日は横浜在住の福田温旦君が開会あいさつをしていました。       

東中5回生といえば、1952年春の卒業。わたしが はじめて中学校教師として東部中学校に赴任し(ブログ:七ころび、八おき東部中学校のころ①)学級を担任し、3年後に卒業を見とどけた生徒たちです。

あれから60年ちかい年月がすぎています。小幡駿君、滋野啓志君、奥野博道君、福井貞夫君や木山順子さん、安原睦子さんなどは、その後もなにがしかの交流があり、むかしの顔がそのまま いまの顔につながります。しかし、町野清君、鍛喜人君、片桐修君、橘明君、三浦博道君、福田温旦君、吉田洋三君、高松正治君となると、ほとんどが卒業以来はじめてのご対面です。「○○です」と名のられて、しばらくしてから、「そうだ、まちがいない」ようやく眼前の顔とむかしの顔が一致してきました。

数日後、滋野君が当日の写真数枚をとどけてくれました。さっそく、集合写真の顔と名簿を、ひとりひとりチェックしてみました。名前と顔が確実に一致したのは半分ほど。あとの半分は、推定は出来ても、自信が持てません。むかしの卒業アルバムの顔ともつきあわせましたが、60年間の空白はどうにも埋めようがありません。ついにお手上げです。

あくる日、いたち川を散歩の途中、月見橋のあたりで滋野君に会いました。「彼岸花が満開ですね」と声をかけられたのです。そのとき、わたしは「集合写真の顔ぶれに、名前を記入してもらえないか」とたのみました。数時間後、滋野君が一覧表をつくって、とどけてくれました。おかげで、出席者全員の顔と名前が一致し、安心しました。
 

それぞれの人生
懇親会は2時間そこそこでしたから、全員と60年間の思いを語りつくす余裕はありません。じっさいに時間をかけて話を聞けたのは、ほんの23人だけでした。それでも、60年ぶりに再会した顔には、まぎれもなく人生のシワが刻みこまれていました。「十人十色。二十人いれば、二十通りの人生がある」と感じさせられました。

吉田君については、毎年の年賀状で、健在ぶりを知っていました。鍛君、三浦君についても、すでに「功成り、名遂げた」状態だと、人づてに聞いていました。

この日、時間をかけて話を聞かせてくれたのは。町田君と高松君です。町田君は、魚屋さんとしてのイキザマを、そして高松君は建具屋としてのイキザマを語ってくれました。それぞれ別々の物語ですが、その背景に「いま、日本の零細企業がかかえている問題…価格競争、後継者問題など」がある点では共通だと思いました。

福田君とは、ゆっくり話をしたかったのに、時間がなくて残念でした。この数年来、年賀状で切り絵作品を見せてもらえるのが楽しみでした。その中から1点「晩秋の称名滝」(2007年賀状)をご紹介させていただきます。滋野君の解説によれば、「前の年、いっしょに登山した。その時の実景スケッチ」だそうです。


紅顔の美少年、いまは後期高齢者
わたしの頭の中では、かれらはいつも、そしていつまでも中学生のままでした。中間の高校生・大学生・社会人としての姿をすっ飛ばして、いきなり老人の姿を見せられたので、まるで玉手箱を開いた浦島太郎の気分になりました。

あのころは紅顔の美少年、美少女たち。いまは(一部は来年)後期高齢者。となると、わたしは「超…?」

そのほかの5回生たち
あのころは1学級57名くらい。7学級で計400名ちかくの生徒数でした。年度ごとに学級編成が変わりますが、教師陣は1年から3年まで持ちあがりです。授業は学年全部の教室に出ます。わたしは、生徒の顔や名前を覚えるのが苦手でしたが、3年間つきあったおかげで、5回生の名前はいまでも あらかた覚えています。姓だけではピンときませんが、下の名前までセットにして聞かせてもらえば、反射的にむかしの記憶が浮かんできます。

先日の会合には見えませんでしたが、島田祐三君は男子・女子の別なく、みんなの人気者でした。その後、第一ホテル・立山国際ホテルの支配人を経て、富山市会議員に当選。市会議長も勤めました。選挙の時には、岸邦弘君、福井貞夫君、石田良平君(故人)、木山順子さん、その他おおぜいの仲間が応援に駈けつけ、演説会場の世話などをしていました。

太田英一君や水野信利君も、5回生です。
太田君は英語が得意で、富山外国語専門学校で英語の常勤講師を勤めています。たいへんな勉強家で、わたしが中国語講師を勤めていたころ、中国語専修コースを受講したりしていました。

水野君は高校生のころから、わたしのところへ出入りしていました。東田重久君、柳耕一君たちといっしょに文芸誌「ちんぐるま」(ブログ:七ころび、八おき東部中学校のころ③)の編集にも参加してくれました。富山大学を卒業したあと国際基督教大学()に進学。やがて「学習研究社」に就職。わたしが「コトダマの世界」(1991)(ブログ:七ころび八おき富山外専のころ①)を発表したあと、「学研・漢和大字典」(藤堂明保編、1978年版)(辞典の話)をプレゼントしてくれました。すべての漢字に上古音・中古音・現代音の解説がついています。日漢英の音韻比較をめざす わたしにとって、もっとも信頼できる辞典の一つです。


負うた子に教えられる
「負うた子に教えられて浅瀬を渡る」というコトワザがありますが、たしかにそのとおりだと思います。わたし自身、これまで中学校・高校・専門学校などで「教えて」きました。しかし、いま考えてみると、わたしが「教える」ことができたものなど、ほとんどゼロだったような気がします。もし、どれだけか成果があったとすれば、それは生徒さん自身の努力によるものです。コトバを学習・習得するのは、生徒さん自身の大脳や視聴覚器官や発声器官であり、教師が代行するわけにはいかないからです。

 わたしが生徒たちに「教えたり、授けたり」できたものはゼロだったかもしれませんが、ぎゃくに わたしは生徒たちから無限大のパワーをもらったと感じています。

東部中学に赴任したころのわたしは、まだ半人前の教師でした。なんべんも失敗をくりかえしながら、なんとか一人前の教師に成長できました。先輩や同僚教師だけでなく、父兄や生徒たちまでふくめて、みんなで「鍛えて」くれたおかげだと思います。

まだあります。「コトダマの世界」(1991)」や「スミ・シム・SMITH」(1995)(ブログ:七ころび、八おき富山外専のころ②を出版した時など、島田君に相談して、5回生のみなさんから組織的なカンパをしていただいたこともあります。あの時は、8回生のみなさんにもお世話になりました。

2011年9月20日火曜日

辞典の話

「時代別、国語大辞典、上代編」(奥付)三省堂、1967


 「学研・漢和大字典」藤堂明保編、学習研究社、1978

 「新華字典」商務印書館、1971


 「A. . . 」第3版、1993


「インド・ヨーロッパ語の語根」(A. . .巻末フロク)



コトバ論議の裏方さん
ふだん会話している場合は、いちいちコトバの定義を考えて話すわけではありません。ふつうは、それでなんの不都合もありません。しかし場合によっては、どれだけ話しあっても、議論がうまくかみあわないことがあります。おんなじ用語を使いながら、年齢層がちがったり、立場がちがったりして、別々の解釈になっているような場合です。
そんなときは、やはり国語辞典にどう解説されているかを基準にすべきでしょう。もちろん、辞典にある解説が絶対に正しいとはかぎりませんが、議論を交わす時の用語の定義が一致していないと、議論がかみあいません。まずは相互に共通理解できているコトバを使うことで、議論の成立・進行が保障されるわけです。そこで、辞典の解説がたよりにされる。つまり、辞典はコトバ論議の裏方さんということになります。
とりわけ、日本語と外国語の音韻を比較しようという場合は、どの辞典をたよりにすればよいか、大問題になります。

音韻面の解説が、辞典えらびの条件
コトバは、生きものです。時代の変化とともに変化し、また場所など環境の変化に応じて変化します。コトバの意味・用法も、そして発音も変化します。おなじ日本語でも、縄文時代・弥生時代から奈良時代・平安時代・江戸時代・現代へと変化。また現代でも、東北弁・関東弁・関西弁・九州弁など、それぞれ方言音に差がみられます。
日本語と漢語と英語の音韻を比較するには、まず各言語の古代音をたしかめ、そのうえで意味・用法を比較するのが基本です。ぎゃくにいえば、それだけ語彙材料がそろった日本語辞典がないと、音韻比較の作業をはじめられないわけです。わたし自身は、各単語に音韻面からの解説がついている辞典をえらぶようにしています。
英語の辞典では、単語の語源や語(音)形変化などについて解説することが、まともな辞典であることの証明みたいになっています。その点で、日本語辞典はまだ国際的な水準に達していないように思われます。

単語家族まるごとで音韻比較
コトバは、孤独な存在ではなく、かならず親や兄弟があり、単語家族の中ではたらいています。したがって日漢英語音を比較する場合でも、単語を個別に比較するよりも、単語家族まるごと比較する方が、効率がよいわけです。この点からも、基本資料となる辞典が単語家族の視点で編集されていると、語彙体系の全体像がつかみやすく、好都合です。

たよりになる辞典
日漢英の音韻比較作業をはじめて、40年ほどになります。もともと音韻論などとは門外漢でしたから、ずっと失敗の連続でした。たまたま、藤堂明保先生の「漢字語源辞典」(学燈社、1965)を手に入れ、「漢語を単語家族の連合集団としてとらえ、個々の漢字に単語家族の整理番号をつける」方式に感嘆。さっそく、その整理番号を手持ちの「新華字典」(1971年版)の漢字に付記したりしました。そのご1990年、水野信利さん(元富山東部中生徒。キリスト教大学院を経て学習研究者勤務)から「学研・漢和大字典」(藤堂明保編)を贈られ、漢語の音韻にかんしては、もっぱらこの辞典をたよりにしています。
以下、わたしが平生利用させていただいている辞典の中から、いくつか紹介します。

①「時代別、国語大辞典、上代編」(奥付)三省堂、1967
日本語の中核になっているヤマトコトバについて解説した辞典。語源・音韻変化・単語家族などにかんする解説も信頼できると思います。
②「学研・漢和大字典」藤堂明保編、学習研究社、1978 
個々の漢字について、上古音から現代音までの変化を付記するとともに、音韻面から同系の語をあげるなど、単語家族の視点に立って編集された辞典。他言語との音韻比較に、安心して利用できます。
③「新華字典」商務印書館、1971                     
中国では、小学生から大人まで、みんなが使っているといわれる辞典です。漢字の発音はローマ字で表記し、全体としてabc順に配列されています。
④「The American Heritage Dictionary of The English Language. Third Edition. 1993
略称「. . . 3版」。1993年に、Ⅴ. H. Mair教授 からすすめられて、この辞典を利用するようになりました。
(ブログ「七ころび、八おき」8/30「富山外專のころ②」参照)                    
⑤「インド・ヨーロッパ語の語根」(A. H. D.巻末フロク)
「インド・ヨーロッパ語の語根およびその派生語」について、40ページにわたり、一覧表式に解説。合理的・科学的で、しかも実用的。専門の学者・研究者はもちろん、日本の高校生でも利用できそうな、わかりやすい記述になっています。これと同じレベルまで、日本語や漢語の単語家族にかんする研究がすすめば、日漢英の音韻比較研究も世界レベルの普遍性・合理性・科学性・実用性をもつことができるだろうと思います。

2011年9月6日火曜日

ナデシコと「五七五」とアバレ川 


ナデシコ


 奥村さんのブログ「五七五」


 イカラシ川増水
asahi.comより借用

アッパレ、ナデシコ ジャパン
717日、「なでしこジャパン」がFIFA女子ワールドカップ決勝でアメリカを破って初優勝。くらいニュースがつづく中で、日本全国民に勇気と感動をあたえました。アッパレです。そしてさっそく、こんどはオリンピックをめざし、アジア最終予選でタイ(9/1)と韓国(9/3)に連勝しました。それにしても、ナデシコとか、ヤマトナデシコとか、よく聞く名前ですが、実物を見た記憶がありません。どんな花か、じぶんの目でたしかめたいと思いました。
それから数日、町内の中島松鶴堂さんまえの花壇で見つけました。かわいい花で、つつましい感じ。ひとめ見るなり「これがナデシコではないか」と直感。すぐさまケイタイのカメラにおさめました。あとで奥さんにたずねましたが、まちがいなし。「花が咲いているのは数日だけ」とのことでした。念のため、ナデシコをネットで検索してみました;
①ナデシコ科の多年草。山野に自生。夏から秋、淡黄色の花を開き、花びらの先は細く裂けている。秋の七草の一。とこなつ、かわらなでしこ、やまとなでしことも。
②襲(かさね)の色目の名。表は紅梅、裏は青。一説に、表裏ともに紅色。夏に用いる。
③紋所の名。ナデシコの花と葉を取り合わせて図案化したもの。
④撫でるようにしている子。愛児。植物のナデシコと「撫でし子」を掛けことばにしていうことが多い。

アッパレ、アワレ、「五七五」
奥村隆信さんのブログについては、このブログでも数回(5/24, 6/21, 7/19)ご紹介しましたが、わたしはずっと毎日奥村さんのブログをのぞいては、一喜一憂しています。とりわけ「五七五」(俳句風作品)を読むのが楽しみです。アッパレで、アワレです。奥村さんの8/28ブログ「五七五」(「癌日記」より)の中からかってに数句えらんでご紹介します。
6/22 大患(たいかん)の身はさりながら蚊のかゆみ
7/22 生きる意味問はるる夏を過ごしをり
   思ひきや 点滴スタンド 夏の供(とも)
   かくなれどもう二夏(ふたなつ)も生きばやな
   夏の花 生老病死(しょうろうびょうし)うつしけり
   生き生きて夏 死に至るは どの季節
7/26 遠花火(とおはなび)がん患者にも届きけり
   葬列のイメージしきり夏深更
8/13 爆と発。HiroshimaNagasakiFukushima
   生きるとは 死ぬとは何か せみしぐれ
   アルプス席 いくたりありや 癌患者

アワレ、アワレ、アバレ川
つぎつぎ災害報道がある中で、いまやっととりあげる失礼を、お許しください。
729日からの記録的な豪雨で、新潟県三条市の五十嵐川や魚沼市の破間川などの堤防決壊が相次ぎ、流域の住民に避難指示が出されたとのこと。被災者のみなさまに、おくればせながら心からお見舞い申しあげます。
実は、テレビで新潟県水害発生のニュースを見ていて、画面に「アブルマ[破間]川」、「イカラシ[五十嵐]川」と表記されているのを見たとたん、「あっ、これは?」と思いました。 
「アブルマ[破間]」も「イカラシ[五十嵐]」も、もともと人間と自然災害との戦いの中で生まれた地名ではなかろうかと気づいたからです。さっそくウェブで調べてみました。

アブルマ[破間]川 新潟県魚沼市を流れる一級河川。信濃川水系魚野川の支流。
アブルマ[破間]川ダム 魚沼市(旧北魚沼郡入広瀬村)、破間川に建設されたダム。高さ93.5メートルの重力式コンクリートダム。洪水調節・不特定利水・水力発電を目的とする。新潟県営。魚野川は急流…古くから水力発電所の建設が進められていたが、治水に関して堤防整備以外は行われておらず水害が頻発。とくに19698月の集中豪雨で深刻な被害…新潟県が多目的ダムを破間川に建設することを計画。1973年に着手、1986年に完成。
イカラシ[五十嵐]川  新潟県三条市を流れる一級河川。信濃川水系。イカラシと発音する。7年前の豪雨でも決壊。死者2人、不明4人。名称の由来:三条市下田地区周辺は、第11代垂仁天皇の第8皇子「イカタラシ[五十日足]彦命」が開拓したと伝えられ、その子孫が「五十嵐」をなのるようになった。「五十嵐」は、豊作をもたらす「五風十雨」を意味する。五十嵐神社の祭神が「五十日足彦命」。神社の立つ丘が「五十日足彦命」の陵墓とされる。また、アイヌ語由来説もある。物見をするような見晴らしの良い場所を「インカルシベ」といい、北海道遠軽町などの地名として現在も残っている。流域の小山「要塞山」が「インカルシベ」だろう。

地名にこめられた意味を考える
こんどの水害は、「破間川」や「五十嵐川」という地名と直接関係がないともいえます。しかし、アブルマ川に[]が当てられ、イカラシ川に[]が当てられていることから、もともと洪水災害との関係をしめす地名だったことも想像できます。
<イズミの解釈> 「アブル」も「イカラシ」も、いちおうヤマトコトバですから、ヤマトコトバの音韻組織原則にしたがって解釈する方が、合理的で、わかりやすいと思います。アブルマはアブル[][]で、「(川の堤防が)ヤブレ、(水流が)アフレル空間」。アブルaburuは、アフル[]afuruと同源で、またヤブル[破]yaburuの語頭y-音が脱落した音形とも考えられます。いずれにしても、「矢がフレル、フエル、flolwする」、「ヤブレル、アバレル、breakする」姿です。ア=ヤ[矢]=飛ぶもの、流れるもの。ヤマトコトバでは、川(の流れ)・峡谷なども「ヤ」と呼んでいます。たとえばイチガヤ[市谷]・カリヤ[刈谷]・クマガヤ[熊谷]・シブヤ[渋谷]・ヨツヤ[四谷]など。
 イカラシ=イガラシ=五十嵐。動詞イク[射来・行・生]から、イカ・イカル・イカラス・イカラシなどの派生語が生まれたと考えられます。漢字は、すべて当て字。参考にはすべきですが、コトバの意味を決定するものはコトバの発音そのものです。イカ[烏賊]は、イクもの。水中を矢を射るようにイク生物。人工のイカがイカダ[]イカ・イカニ・イカサマなどのイカ[如何・何如]は、「矢が鋭く速くイク[射来]」姿へのおどろきから、疑問の意を生じたもの。イク・イクツ・イクラ・イクバクもおなじ。イカヅチは、イカのチ[霊道]で、カミナリのこと。また、イナビカリのことか。太陽を「空をイク矢=イカ」と見れば、イナビカリ=イナヅマ=イカヅチ=太陽光線。[五十日]と書いて、イカと読むのは、ヤマトコトバと漢語・漢字とのアソビ(カケアイ漫才のような)。漢語で[五十]は[百]の半分の数。モモカ[百日]をイク[射来](割りこむ)ことで、イカ[五十日]になる計算。モモ[桃]とイカ[烏賊]という珍味の食材をひっかけたコトバ遊び。
さきほど引用した解説に<「五十嵐」は、豊作をもたらす「五風十雨」を意味する>とありましたが、それは順調な気候をいのる立場からの解釈でしょう。<現実には天のイカリ[怒]がアラシ[暴風雨]となり、作物をイカラス[射枯]というアワレな事態になったことを記憶し、警告するもの>と解釈することもできると思います。もちろん、イカラシ「五十嵐・射枯」が洪水につながり、そのあとに広大で肥沃な田地が生み出され、そこを「イカタラシ[五十日足]彦命が開拓した」というアッパレな事実もあったことでしょう。

2011年8月23日火曜日

敗戦記念日に思うこと 




北日本新聞記事   2011.8.14.


北日本新聞記事のこと
8月14日付の北日本新聞に「あの夏…戦争とやまの証言者」という特集記事がのりました。社会部・小林大介さんの署名入り記事。地図や写真を添え、特大の見出し語を読むだけで、ほぼ内容が分かるようになっていました。つまり、(1945年8月15日)「砺波の岡部さん、富山の泉さん」(の2人が、それぞれ)「海外で玉音放送」(を聞き)、「喪失感」(におそわれたが、同時に)「逆境を克服し、復興を誓った」というお話です。

実は、むかし「コトダマの世界」を発表した時にも、文化部記者だった小林さんから取材を受けた記憶があります。それで、8月2日に取材に来られた時も、質問されるまま、あれこれ気楽におしゃべりしました。とりわけ8月15日、日本が無条件降伏したあと、蒙彊派遣軍司令官(根本博)独自の判断で、張家口地区の在留邦人の引揚を完了するまで戦闘態勢をくずさなかったこと。そのおかげで、東北(旧満州)地区からの引揚者たちのような悲惨な目にあわずに済んだこと。それだけ、非常事態に対する指導者の判断・決意が国家・社会の命運を分けることになるという思いを語りました。また、「天津の貨物倉庫で、若者たちが挫折感を感じながらも、祖国再建の道を毎日論じ合った」、あのころが日本の民主主義元年であり、戦後半世紀以上をすぎた今も、その点ではすこしも進歩していないと思われることなども指摘しました。

新聞記事の内容は、一言一句、わたしの発言を正確にとらえています。その上で、わたしが話した内容を取捨選択し、これだけコンパクトな読み物にしあげるとは、さすがプロだなと感心させられました。

岡部昇栄さんとは、直接お目にかかってお話した記憶がありません。しかし、「県議を経て、砺波市長になった」ことは知っていました。また、1985年に「日中友好富山県民の翼」(団長・中沖豊知事以下百六十余名)が遼寧省を訪問したおり、岡部さんが副団長兼総秘書長を務められ、わたしも事務局の一員として参加させていただきましたので、なにかとお世話になったことはまちがいありません。

「敗戦」と「終戦」
新聞でもテレビでも、みんな「終戦記念日」といい、「敗戦記念日」とはいわないようです。しかし、わたしはあえて「敗戦」というコトバを使うことにしています。だって、「戦争を終えた」のではなく、まちがいなく「戦争に敗れた」のですから。「敗戦」という現実から目をそむけて、「終戦」というコトバでごまかすようないい方には賛成できません。