2013年5月25日土曜日

カイロ プラクティックって、なぁに?

 
 
チラシ
 
 
 
 チラシ
 
全身故障だらけ
人間90歳ともなれば、賞味期限はおろか、使用期限も きれかかっています。わかいころに くらべ、手も足も動作が  にぶくなり、記憶力も おとろえて きました。
十数年まえに、右顔面マヒで塚本病院へ入院、高圧酸素の治療を うけました。それ以来、毎日「末梢血管を広げる薬」と「ビタミンB12」を のみつづけて います。また、その後遺症で、右目のマブタが おもく、パッチリ ひらいて くれません。
昨年あたりから きゅうに足腰が よわってきて、散歩の量が ガタ落ちしました。内田さん夫妻が心配して、あちこち散歩に連れだして くれましたが、なかなか挽回できません。
毎日パソコンに むかって ばかりいるので、パソコン病で ないか、などなど。かぞえあげれば、全身故障だらけです。
それでも、病院で「年のワリには健康ですよ」といわれると、そうかなと おもったりも します。
「自分の手で ご飯を たべられる」,「自分の足でトイレに ゆける」それだけで、ありがたいと考えるほうが よいのかも しれません。
 
たまにはマッサージでも
4月中は バタバタして いましたが、5月に なって,やっと すこし おちついた気分に なりました。
「たまには マッサージでも」と いうことに なって、伊藤淳子さんが おいて いったチラシを思い出しました。「カイロ プラクティック」とは なんの ことか、よく わかりませんでしたが、「出張専門」と いうこと なので、老人夫婦としては、そのほうが楽だと、単純に考えて電話しました。
52214時、カイロ プラクター岡崎知康さんが見えました。なんと、施術用のマット持参でした。そして一人1時間半あまり かけての施術が はじまりました。
 
カイロ プラクティックって、なぁに?
正直な はなし、カイロ プラクティックという なまえ、こんど  はじめて しりました。
むかし、アンマさんの治療を うけた ことも あります。気功の入門教室に かよったり、中国旅行で針麻酔の手術を見学したり、鍼灸のツボや経絡に興味を もったことも あります。しかし、整体術とか カイロ プラクティックとかの施術をうけた ことは ありませんでした。 
カイロ プラクティックとは、chiro  practicという意味だそうです。
背骨骨盤ゆがみを、徒手によって矯正する治療法。広義では、薬物や外科(手術)を除く、体操・食餌・物理療法を含む療法を指す。(『新明解国語辞典』より)
実際に施術をうけ、岡崎さんの説明をきき、わたしも スキかってな ことを しゃべった あとの感じでは、アンマ・マッサージなどとは まったく ちがう、はじめての経験でした。
 
業界の事情はフクザツ
それにしても、どうして カイロ プラクティックなど、耳なれない コトバを つかうのでしょうか?また、『新明解国語辞典』では「治療法」・「療法」と解説しているのに、岡崎さんから いただいたチラシには、「治療」というコトバが どこにも つかわれて いない のは どうしてでしょうか?
23日、さっそく ネットで しらべて みました。まもなくナゾが とけて きました。わたしたちが ひごろ ばくぜんと いっしょくたに かんがえて いた この業界にも、じつは いろいろ ふくざつな競争関係が あるようです。
ネットの関係記事から、ほんの一部をご紹介します。
日本では、あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律(昭和221220日公布)において、あん摩マッサージ指圧師免許もしくは医師免許(共に国家資格)がなければ指圧業として行う事は出来ない、又は金銭、金品の授受がなくとも継続的に行うことは出来ず、刑事罰対象及び法律違反になる、違反者は50万円以下の罰金である…
広告などで指圧と表記する際には一定の注意が必要である。施術を受けようとする消費者が国家資格保持者とそれ以外の者(いわゆる無資格者・民間資格者)とを混同しないためである。この問題に関しては保健所が窓口となっている・・・
つまり、この業界には医師をはじめ、アンマ・マツサージ指圧師、はり師、きゆう師、柔道整復師などの業種があり、 それぞれの国家資格が認定されています。その点では、整体()やカイロ プラクティックは まだ国家資格を認定されて いません。ネット上では、「(整体師など)無免許の業者を追放せよ」などの意見(広告?)も目に つきます。
いま、科学技術の分野では日進月歩の時代。ふるい時代の権威が見なおされ、あたらしい常識が生まれつつあることも事実です。どんな施術をうけるか、消費者自身も勉強が必要ですね。じぶんのイノチにかかわることですから。
 
 

2013年5月12日日曜日

4月よ、さようなら

 
いたち川のサクラ
 
 
 山中温泉
 
 
 
五箇山岩瀬家
 
 
 
 
 アオサギ君
 
 
 
 ハルト君
 





写真について
前号で山中温泉と五箇山の写真をご紹介しましたが、いずれも伊藤広美さんご提供のものでした。今号の写真は、すべてイズミのケータイによるものです。

 

いそがしかった4
あっというまに4月がすぎてゆきました。年中行事のチンドン コンクールは、サクラの開花予想日にあわせて457日に設定されていたのですが、異常気象()で、予想より1週間ほど早くサクラが開花。チンドンのほうは あいにく天候にもめぐまれず、いささか肩すかしの感じでした。それでも、いたち川のサクラはことしも、見る人の目を たっぷり たのしませてくれました。アオサギ君も、ときどき姿を見せてくれました。 

11日に東京から伊藤広美さん・淳子さん夫妻が来富。1213日、藤木美織さんと一行5人で山中温泉1泊旅行。

16日、せっかくの好天だからと、伊藤夫妻にさそわれ、五箇山まで日帰り旅行。

17日。故加藤富美さんの骨納め法事。

18日。散歩の途中、アオサギ君を発見。パチリ。そっと近づいて、もういちどパチリ。この日、伊藤夫妻が帰京。

そして11日後の30日。東京から西田尚信(タカノブ)さん・規子さん夫妻が長男悠人(ハルト)ともどもクルマで来富。よる、藤木夫妻も参加し、津田寿司で会食。

51日。尚信さんは立山登山に出発。規子さんはハルト君をつれ、列車で大津の実家へ。

 

1年ぶりのハルト君   
ハルト君に会ったのは、ちょうど1年ぶりです。想像はしていましたが、その成長ぶりにびっくりしました。このまえは、やっと そのへんを はいまわるていど でしたが、こんどは じぶんの 足で立ち、お気にいりの シンカンセンの ミニチュアを 見せてくれました。そのうち、だんだん なれてきたようで、ひとりで かってに おくの へやまで タンケンに でかけます。ケガをしたら たいへんだと、まわりの ものが おいかけます。おまつりさわぎのように にぎやかな 二日間でした。

 

さよならだけが人生だ
ハルト君が いなくなって、わたしたちは また しずかな毎日に もどりました。             

無事日程をこなして、ほっとした感じと、ちょっと さびしい感じ。ふと、「さよならだけが人生だ」という歌の文句が頭にひらめきました。

さっそく、ネットで たしかめました。小説家、井伏鱒二が、八世紀(晩唐)の詩人、 干武陵(ウブリョウ)の漢詩 「歓酒」を意訳したという、あの詩の一節です。

この盃を受けてくれ

どうぞなみなみつがしておくれ

花に嵐のたとえもあるさ

さよならだけが人生だ

元の漢詩と その直訳日本文まで、いっしょに書きそえてありました。ネットって便利で、ありがたいですね。

勧君金屈巵  君ニ勧ム金屈巵(キンクツシ・金の盃)

満酌不須辞  満酌辞スルヲ須(モチ)イズ

花発多風雨  花発(ヒラ)ケバ風雨オオシ

人生別離足  人生別離足(オオ)シ

 

キンクツシ[金屈巵]って、どんなサカヅキ?
ところで、キンクツシ[金屈巵]って、どんなサカヅキでしょうか?

『学研・漢和大字典』でさがしましたが、この項目がありません。シ[](クチナシ)が出てくるだけで、シ[]の字形が出てきません。『大漢和辞典』(大修館)でしらべて、やっと

[]のもとの字形にたどりつきました。サカヅキはサカヅキでも、「四升を容れる大杯」とのこと。これにくらべて木偏のシ[](クチナシ)は、「筒状の托葉」をもち、「花弁は基部が筒状」。つまり、きわめて小型で、つつましやかなサカヅキの姿です。

ただし、『学研・漢和大字典』はシ[]の字形について、「木+音符シ[](水をつぐ器)」の会意・兼形声文字とし、「クチナシの実が、水をつぐ器に似ていることから」と解説しています。いずれにしても、「酒はほどほどに」という意識が感じられます。

それにしても、クツ[]の意味用法がよく分かりません。同音のクツシ[屈指]なら、「指折り数える」姿ですが、クツシ[屈巵]も「一杯・二杯と数える」姿なのでしょうか?

それとも、「金の屈巵」ではなくて、「金屈の巵なのでしょうか?」
「コトバづかいのセンサクもほどほどに」といわれそうですが、やはり気になります。できれば どなたか お教えください。

2013年4月29日月曜日

しだれ桜と合掌造り

 
 
臨峰苑しだれ桜
 
 
  こおろぎ橋
 
 
 
あやとり橋  
 
 
 
相倉合掌造り集落
 
 
 
村上家

 
 
 
  岩瀬家
 
 (写真はいずれも伊藤広美さんからの借用)
 
 
 
山中温泉へ
411日、東京から伊藤広美・淳子夫妻が来富しました。17日に故加藤富美さんの骨納め法事に出席するためです。愛犬ランちゃんとも、ひさしぶりのご対面です。
ちょうどサクラの季節なので、藤木美織さんもさそって、「2013年桜鑑賞ツァー」に出かけてはどうかと、かねがね伊藤広美さんから提案があり、1213日、山中温泉へ1泊旅行に行くことになりました。
例によって、広美さんが愛車を運転、淳子さん、美織さん、イズミ夫妻が便乗。ホテルの都合で、ランちゃんは同行できないので、ペットの施設におあずけです。
12: 富山発→北陸自動車道加賀IC→国道8号線→国道364号線→臨峰苑しだれ桜無限庵山中温泉吉祥亭  
13:  吉祥亭→こおろぎ橋あやとり橋→金沢市卯辰山公園→北陸自動車道→富山
ことしはサクラの開花日が予想より1週間ほど早まったので、「桜鑑賞ツァー」としてはあまり期待していませんでしたが、臨峰苑のしだれ桜などはみごとでした。
心配していた天候も13日には回復して、こおろぎ橋・あやとり橋・卯辰山公園など、ゆっくり散策できました。
 
­五箇山へ
伊藤さんたちが帰京する前日の416日。天候がよさそうだからと、五箇山へのドライブにさそわれました。
相倉合掌造り集落村上家・岩瀬家などを見学しました。カヤぶき屋根の高いところまでハシゴをかけてのぼり、部分補修している光景も目にしました。
富山ではとうに花見は過ぎた感じでしたが、ここではいまをサカリと咲きほこっていました。かと思うと、あちらこちら雪がまだ消えのこっているところもありました。
たまたまはいったそば屋さんで食べたザルそばの味がわすれられません。これぞ手打ちそばの味というのでしょうか。しばらく待たされたあと、一口クチにしたソバのつめたさ、歯ごたえ、そしてコクのあるツユ…
 
五箇山と白川郷
昨年は岐阜県の白川郷をたずねたのですが、すこし観光地化されすぎた感じでした。ことしはやはり五箇山へということになりました。
まわりを山のミドリにかこまれ、合掌造りの屋根をながめていると、ひとりでに気もちがおちついてきます。まるで母親のフトコロにだかれているみたいな気分です。
クルマで移動するあいだ、運転する伊藤さんには申しわけないことですが、わたしはまわりの景色をながめているだけ。まったく気楽な身分です。そこで、目にする風景や地形と地名を結びつけ、「地名の由来」をデッチあげるゲームをはじめます。たとえば;
ゴカヤマ[五箇山]のゴカは、カガ[加賀]・ガケ[]・カケ[]などとおなじk-k音語で、ガケ[]を意味する地形名にちがいない。シラカワ[白川]のシラは、シラヤマ[白山]・シラギ[新羅]・ヤマシロ[山代・山城]などのシラ・シロに通じるs-r音語だが、地形名ではなさそう。スル・シル・コスル・シロガネなど、金属精錬にかんする技術用語として生まれ、やがて白山信仰ともつながり、日本各地に広まったものだろう…
身近な話でいえば、大根をスル・コスルと、シロイ[]・シル[]がでます。そのシルをのむことで、その味をシル[]ことができます。また、鉱石をスリつぶすことは微粒子にスルことであり、やがて鉱物をシル[](発見・採取)ことにつながります。
シロ[代・城]シラ[]の語尾母音交替で、シル(スル・コスル)ところ。シロ[]は、コスレてハゲちょろけた色。シラギ[新羅]のシラも、やがてシラガ・シロガネsilksilver
につながる…
そんなふうに、つぎつぎ妄想をふくらませます。アタマの体操になります。
 
シラカワ[白川]からショウガワ[庄川]まで
カヤブキの合掌造り集落も印象的でしたが、わたしとしてはなにより、シラカワ[白川]・シラヤマ[白山]・ショウガワ[庄川]・ショウカワ[荘川]などの地名のヒビキがいちばん気がかりで、また楽しみでした。
五箇山庄川の上流地帯にありますが、さらにその上流に白川郷があります。そして白川郷の一部が岐阜県高山市荘川町に属しています。そしてこの一帯は、シラヤマヒメ[白山姫]をまつる白山信仰の根拠地でもあります。
わたしの推論では、ショウガワ[庄川]はもとシラカワ[白川]と呼ばれていたはずです。そのシラカワ[白川]の上流と中流にできた集落が同名のシラカワと命名されたことも自然なことです。ところがある時代ヤマトコトバの地名を漢語ふうに読みかえる動きが流行し、シラカワ[白川]をショウガワ[庄川]と読みかえることになりました。シラ[](訓読み)とショウ[](音読み)とは別音ですが、語頭音シが共通なので、なんとなく連想できる関係です。
川の名前が改名されるのにあわせて、集落の名もシラカワ[白川]からショウガワ[庄川]に変わります。ただし、まったくおなじ表記ではまぎらわしいということもあり、ショウ[]よりもショウ[]のほうがカッコイイと思う人もいて、ショウカワ[荘川]と表記することになったのかもしれません。
ちなみに、漢語ショウ[]とショウ[]はもともと同音tsiangshuangの語。現代漢語では[][]にも代用しています。
ヤマトコトバの地名を漢語ふうに読みかえた例としては、ミヤガワ[宮川]ジンヅウガワ[神通川]などがあります(残念ながら、ナゾときをしている時間はありません)。
もっと身近な例があります。シラヤマ[白山]とハクサン[白山]ニシマチ[西町]とニシチョウ[西町]などがそうです。「そんなの、ヤサシすぎる」といわれるかもしれませんが、ナゼ・ドウシテとネホリハホリ問いつめられたら、けっこう苦労すると思いますよ。
 
 

2013年4月17日水曜日

「立山曼荼羅」から「家光大奥…」まで

 
立山博物館案内
 
 
 帝釈天 
 
『家光大奥…』
 
 
 
 
立山曼荼羅のはなし
3月28日。富山市千代田町丸十さんの2階で、第6回「越のまほろば」公開講座が開かれ、富山県立立山博物館学芸員加藤基樹さんが「立山曼荼羅成立の思想史的背景」と題して研究発表されました。わたし自身のことをいいますと、学生時代から『歎異抄』の愛読者で、「親鸞のおしかけ弟子」を自称していたこともあります。しかし、現在「浄土真宗」と呼ばれている宗教集団、とりわけ「檀家制度」のありかたについては、おおきな疑問をもっています。マンダラについては、ほとんど予備知識がありません。
 
マンダラの歴史
マンダラとは、もともと梵語man dalaの音を漢字音で [曼荼羅] [曼陀羅]のように写しとったコトバだそうですが、それではmanがどんな意味で、dalaがどんな意味なのか、それは分かりません。そんなわたしですから、せっかく「立山曼荼羅成立の思想史的背景」について解説していただきながら、どこまで理解できたかとなると、あまり自信がもてません。わたしなりの解釈をニョゼガモン[如是我聞]としてまとめてみます。
  立山マンダラについて、研究史の面から整理・・・歴史学・民俗学・考古学など。
  近世東アジア思想ネット上の立山マンダラ…
  (心学)世界としての東アジア世界の形成…[中国大陸]儒教 ⇒明:陽明学→清:考証学…16世紀には、大陸でも半島でも心学が興隆、心学世界を形成。儒者仏者とも一致。
  まとめ・・・(各地各種のマンダラは)直接的な模写関係になくても、思想的共通基盤をもつ近世東アジアにおいて、同時多発的に成立した…甘露幀・十王図→熊野観心十界曼陀羅・六道絵→「立山曼陀羅」
 
「立山曼陀羅」の目的は「女人救済」
「立山曼陀羅成立の思想史的背景」というタイトルを見て、なんだかむずかしそうだなと思っていました。専門的な用語もおおく、いまでも分からずじまいのことだらけですが、なるほどそうだったのかと、ナットクできたこともありました。その一つが「立山曼陀羅」の目的は「女人救済」だったということです。「布橋灌頂会」や「立山・帝釈天」などについてもういちど考えなおしてみようという気になりました。
 
遠藤和子さんの『家光大奥…』
この1月に遠藤和子さんが『大家光大奥・中の丸の生涯(展望社)という本をだされました。遠藤さんは信子の女学校(県立富山高等女学校)時代の同期生で、そのあと師範学校を卒業してから、教員生活のかたわら、童話・教育実践記録などを発表。退職後、本格的な作家活動にはいられたようです。遠藤さんが小学校で特殊学級を担当しておられたころ、わたしもおなじ富山市内の中学校に勤務していました。たしか教育研究集会かなにかの関係で遠藤さんの教育実践に関心をもった記憶があります。                                                                                                                                                                                                                                  
『佐々成政』『松村謙三』『富山の薬売り』など、郷土の政治・経済などの分野で活躍した人物をとりあげた作品がめだちますが、その作品を執筆するまでの資料あつめに、遠藤さん独特のになった姿勢が見てとれます。ひとつ思いたったら、じぶんでナットクゆくまでガムシャラに資料をあつめる。こまかな点まで、十分な裏づけ資料がそろったところで、はじめて執筆にとりかかる。そんな感じです。器用とか、スマートとかいうタイプの作品ではありません。コシの国、北陸の気候風土の中で生まれ育った作品ということかもしれません。
徳川幕府は、どうして300年間もちこたえることができたのか?男たちの正史・タテマエ論のかげに、女たちの秘史・ホンネの話しあいがあったのではないか?大奥の秘史を明かそうとなると、やはり534ページの大作が必要になったということでしょうか。とにかく、遠藤さん、ごくろうさまでした。
 
立山マンダラとだぶらせて考える
『家光大奥…』については、ずっとまえからブログでとりあげたいと考えていたのですが、わたしの頭の回転がおそいので、ついついおくれてしまいました。そのかわりに、遠藤さんの家光大奥…』の時代背景と加藤基樹さんの「立山曼荼羅成立の思想史的背景」とをだぶらせて考えてみるようになりました。つまり、加藤さんの解説によれば、中国大陸で生まれた神聖帝国意識にくらべ、日本列島では徳川家康期にようやく神聖国家の理念が生まれ…家光期(3代)に家光=家康の生まれ変わり­「運輪聖王」…家康=東照大権現(神格化)
という経過をたどっています。そしてまた、立山マンダラが成立したのもこの時期であり、その目的は「女人救済」だったといいます。
そんなふうに考えてくると、中の丸・孝子(佐々成政の孫で、徳川家光の妻)の生涯を、そのまま立山マンダラの一場面として観察するのもおもしろいと思います。