8月14日付の北日本新聞に「あの夏…戦争とやまの証言者」という特集記事がのりました。社会部・小林大介さんの署名入り記事。地図や写真を添え、特大の見出し語を読むだけで、ほぼ内容が分かるようになっていました。つまり、(1945年8月15日)「砺波の岡部さん、富山の泉さん」(の2人が、それぞれ)「海外で玉音放送」(を聞き)、「喪失感」(におそわれたが、同時に)「逆境を克服し、復興を誓った」というお話です。
実は、むかし「コトダマの世界」を発表した時にも、文化部記者だった小林さんから取材を受けた記憶があります。それで、8月2日に取材に来られた時も、質問されるまま、あれこれ気楽におしゃべりしました。とりわけ8月15日、日本が無条件降伏したあと、蒙彊派遣軍司令官(根本博)独自の判断で、張家口地区の在留邦人の引揚を完了するまで戦闘態勢をくずさなかったこと。そのおかげで、東北(旧満州)地区からの引揚者たちのような悲惨な目にあわずに済んだこと。それだけ、非常事態に対する指導者の判断・決意が国家・社会の命運を分けることになるという思いを語りました。また、「天津の貨物倉庫で、若者たちが挫折感を感じながらも、祖国再建の道を毎日論じ合った」、あのころが日本の民主主義元年であり、戦後半世紀以上をすぎた今も、その点ではすこしも進歩していないと思われることなども指摘しました。
新聞記事の内容は、一言一句、わたしの発言を正確にとらえています。その上で、わたしが話した内容を取捨選択し、これだけコンパクトな読み物にしあげるとは、さすがプロだなと感心させられました。
岡部昇栄さんとは、直接お目にかかってお話した記憶がありません。しかし、「県議を経て、砺波市長になった」ことは知っていました。また、1985年に「日中友好富山県民の翼」(団長・中沖豊知事以下百六十余名)が遼寧省を訪問したおり、岡部さんが副団長兼総秘書長を務められ、わたしも事務局の一員として参加させていただきましたので、なにかとお世話になったことはまちがいありません。
「敗戦」と「終戦」
新聞でもテレビでも、みんな「終戦記念日」といい、「敗戦記念日」とはいわないようです。しかし、わたしはあえて「敗戦」というコトバを使うことにしています。だって、「戦争を終えた」のではなく、まちがいなく「戦争に敗れた」のですから。「敗戦」という現実から目をそむけて、「終戦」というコトバでごまかすようないい方には賛成できません。