2010年9月7日火曜日

イタチごっこの川

婦負郡・新川郡絵図(石黒信之)をよむ



 8月27日、共寿会の見学会に参加したついでに、射水市新湊博物館をたずねました。共寿会というのは、富山第一銀行に縁のある教職員OB, OGの親睦団体。毎年1回、日帰りの見学会を実施。ことしの見学先はヘルン文庫(富山大学)、富山福祉短大(浦山学園)、大島絵本館の3箇所でした。

 新湊博物館をたずねるのは、ン十年ぶり。道の駅新湊で昼食を食べたあと、自由時間を利用しての見学です。ここは比較的小型でローカルの博物館ですが、伊能忠敬と並ぶ地理学者・測量家石黒信由にかんする資料が展示されているなど、特色のある博物館です。

 石黒藤右衛門が制作した絵図の複製があるというので、おみやげに買ってきました。婦負郡と新川郡の2枚です。わたしの計算では、この2枚をつなぎあわせれば、いまの富山市全体をカバーできるはずでした。

 うちへ帰ってから、さっそく地図をひろげて比べてみました。ともに石黒信由の孫信之、天保9(1838)年の制作。古地図は、いまの地図とちがって南と北がぎゃくになっているので、比較対照するのにテマヒマがかかります。

 いちばんの関心は、当時の地図に神通川・常願寺川・イタチ川などがどんなふうに記録されているかです。

 神通川と黒部川は、川幅をしめす2本の黒線で縁どりした大河としてえがかれています。「神通川」という名前は記入されていませんが、「神通・中神通・西神通」の村名が記入されているので、当時すでに「神通川」と呼ばれていたことがわかります。黒部川については、中流部に「黒部川」と明記され、下流部でほぼおなじ川幅を持つ二筋の川に分流していたこともわかります。

 それにくらべて常願寺川には、2本の黒線の縁どりがありません。中流部で「常願寺川」と記入され、また「常願寺」の村名も見えます。しかし河口部などは、上市川より細い青線でえがかれ、どこで日本海にそそぐのか判定しにくいほどです。常願寺川フアンとしてはガックリ。まさに「信ジラレナイ」感じ。
 
 いたち川については、イタチのイの字も見あたりません。それでも川筋をしめす青色の線は明確で、上流、常願寺川からの分流地点から下流、神通川へ合流するまで、周囲の村名をたどることもできます。

 絵図では、いたち川が富山城の北で直接神通川へ合流しています。この点で、現行の地図とはおおちがいです。しかしそれは、この絵図制作後に神通川の河道変更工事が行われたためなので、問題ありません。

 わたしの思わくでは、「婦負郡と新川郡の絵図を2枚つなげば、富山市全体をみわたせる絵図ができる」ということでしたが、みごとに失敗しました。2枚の地図は、原図の段階で縮尺が一致していたものが、複製の段階で縮小率がまるでちがいます。これでは、つなぎようがありません。

 あきらめきれず、30日に博物館へ電話。富山県全体をカバーできる絵図があるとのことで、あらためて注文。9月1日、品物がとどきました。こんどは越中四郡図セットで、「文政8(1825)年石黒藤右衛門信由測量・作図」とあります。

 さきの「信之絵図」とこんどの「信由絵図」の制作年代のちがいは、13年しかありません。その間に、山や川の景観が大きく変化するとは、ちょっと想像できません。

 ところが たいへん!「信之絵図」で あれだけ影のうすかった常願寺川が、13年まえに制作された「信由絵図」では、神通川と同格の大河として えがかれていたのです。

 これは いったい どういうことなの?そこで もういちど絵図の標記を読みなおします。
「道程ハ一里ヲ以ッテ曲尺一寸二分ニ縮ス。山川道ノ屈曲オヨビ駅村等ハソノ大略ヲ図ス」とあります。

 なるほど、水田耕作地などとちがって、河川の規模などは課税割当てと直接の関係がない。だから、「ソノ大略ヲ図ス」だけでよい。神通川や常願寺川の姿を絵図の上でどう表現するかは、製図者の自由ということかもしれません。

 それにしても、信由の絵図を基礎にしてつくられたはずの信之絵図で、どうして常願寺川をこんな姿にかきかえたのでしょうか?信之が独断で変更した?あるいは、ただの手抜きだった?それとも、常願寺川自体になんらかの変化(氾濫など)があったため?

 大山鳴動シテ、ネズミ一匹。それでも、4枚の絵図のおかげで、この1週間ずいぶんとたのしませて もらいました。同時にまた、地名や人名にかんする<イズミ仮説>がいちだんとふくらんできました。しばしば「誤解と偏見による独断論」と批判されてきた「仮説」です。 

 神通川・常願寺川といたち川にかんする<イズミ仮説>は、ほぼつぎのとおりです。

①むかし、神通川と常願寺川は合流して日本海にそそぐ時期があった。また、それぞれ単独で日本海にそそぐ時期もあった。

②現状では、常願寺川から分流したいたち川神通川から分流した松川と合流し、やがてまた神通川と合流して海にそそぐ。これは、イタチごっこの関係といえる。

③「イタチ川」という名前は、そのイタチごっこの立役者につけられた愛称だと考えてよい。

④「神通川・常願寺川」などという名前は、もとヤマトコトバから漢語風の名前に改名したものにちがいない。まずはもとの呼び名をたしかめたい。

⑤「神通川」の古称については、「メヒ[婦負]川」できまりらしい。しかし「常願寺川」については、「流域の地名から水橋川・大森川・岩峅川などと呼ばれたが、出水なきを常に願うという住民の気持ちをこめて常願寺川の名が次第に定着した」(地名辞典)という。

⑥「神通川」と「メヒ[婦負]川」や「ネイ[婦負]郡」との間に対応関係があるとすれば、「常願寺川」と「ニフ[丹生]ノ川」や「ニイカハ[新川]」との対応関係を想定してもよいのではないか?

婦負郡・婦負河の婦負はもとメイからネイに子音交代したもの。ミナ[蜷]>ニナ[蜷]とおなじ現象。メヒ[婦負]=母親が子を負う姿=本流が支流と合流する姿。人びとは、神通川と常願寺川、また松川・いたち川との関係から、叔母とメイ[姪]の関係を連想したかもしれない。

 さて議論が核心にせまり、おもしろくなってきましたが、老人なので すぐ つかれます。ここらで一服して、こんどまた「メヒ[婦負・姪]・ネヒ[婦負]・NEPHEW」や「ニフ[丹生・入]・ニヒ[新]川」・NEW」などの対応関係などもさぐってみたいものです。

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