2012年4月17日火曜日

チンドンの季節


水仙a, 3/29


 水仙b, 3/29


梅a(雪見橋)、4/2


梅b?(石倉町)、4/10 


桜a(カモと)、4/12 


桜b(雪見橋から)、4/12
 


チンドンパレード(北日4/10記事より) 


チンドンの練習(北日4/10記事より)



花だより
この冬がきびしかっただけ、春を待つ気持ちもひとしおでした。

329。雪見橋下流の土手で水仙の一群がつぼみをふくらましている姿を発見。また、すこしはなれたところでは、一輪、二輪白い花びらを開いていました。長いあいだ雪の下にとじこめられていたのが、いまやっと自力で立ちあがり、花をつけたという感じでした。

42。雪見橋ぎわに立つの木がようやく花を咲かせました。例年なら、もっとはやい時期に、もっとはなやかに咲きほこり、春の到来を告げてくれました。花が散ったあとは、ウメ[梅・産]よ、増やせよといわんばかり、モモ[桃・百]ヨロズ[万]の小梅を実らせ、夏の到来を気づかせてくれました。その梅の木が、ことしはこのありさま。ザンネンです。

410日。石倉町のマンション前の遊歩道で、(?)の花が咲いているのを見つけました。こっちは樹齢が若いからでしょうか、元気な様子です。ながめているうちに、元気をもらいました。        

412日。朝から晴。富山地方気象台がの開花を宣言。いたち川べりの桜もいっせいに咲きそろいました。高がサクラ、されどサクラ。これでやっと、富山にも春が来たという感じです。


チンドンコンクール復活
春といえばサクラ。そして富山ではもうひとつ、チンドンコンクール。昨年は東日本大震災などのため中止されましたが、ことしは復活しました。

467日の3日間、58回全日本チンドンコンクール富山市総合体育館をメーン会場に行われ、また城址公園・平和通り・松川べりなどでチンドンマンたちがパレードしました。専門業者たちのコンクールだけでなく、素人チンドンコンクールも行われました。

北日本新聞(4月6日)によれば、永年出場15回の表彰を受けた野尻博さんはエンターテインメント会社「サウンドマシン[作芸人磨心]事務所」(富山市有沢)の社長で、昨年5月宮城県気仙沼市で開かれた東日本大震災復興支援イベントにも参加しています。また、富山市浜黒崎小学校5年の中谷アヤネ[文音]さんは、母アツコ[安通子]さん(ピアノ講師)がチンドンコンクールに初出演した姿を見たのがきっかけで「自分もやってみたい」と思いたち、母とともに野尻さんの事務所で練習開始。さきの東日本大震災復興支援イベントにも参加。こんどの全日本チンドンコンクールに“初出演”することになったそうです。


富山の“祭り”として定着
考えてみれば、チンドンコンクールが始まったのは1995年。戦争末期の富山大空襲でいちめんの焼け野原となった富山市が、10年がかりでようやく復興の足場を固め、さらに新たな発展を目ざした企画だったのでしょう。それから半世紀以上もすぎた今、それは富山の“祭り”として定着してしまったようです。専門業者たちがチンドンの芸を見せるだけでなく、シロウトの住民たちも参加しています。やがて、もっとたくさんの住民たち、子供たちがパレードに参加するようになるかもしれません。住民たちがただ見物しているだけでなく、自分たちで企画提案したり出演したりする。それが“祭り”ですよね。

2012年4月3日火曜日

公開講座「越のまほろば」

北日本新聞記事3/26

北日本新聞記事3/29


「郷土史研究会結成」の記事
326北日本新聞に「郷土史もっと学びたい…日本海文化研、市民講座OB28研究会結成]という見出しで、つぎのような内容の記事がのっていました。
20113月に廃止された富山市日本海文化研究所の市民講座で学んだ受講生の有志が28日、郷土史などを独自に研究する会を結成する。学びの場を復活させ、専門家とは異なる視点で研究や学習活動を進める。
同研究所は日本海側の独自の文化をさぐる機関として、市が1986年に市民俗民芸村(同市安養坊)内に設置…市の事業見直しにより113月で廃止された。
多くの受講生から「学び続けたい」という声が上がったことを受け、元県立図書館長の仙石正三さん(66=同市明輪町=を中心に会を結成することにした。「日本海文化悠学会」と名付け、教員や会社員ら約10人が集まった。
メンバーは、県内の寺社仏閣や祭礼の起源、立山信仰などをテーマに設定する。仙石さんは「郷土史では分かっていないことがたくさんある。市民の目で新たな発見ができたらいい」と話す。
28日の設立総会に合わせ、メンバーで割烹「まる十」(同市千代田町)店主の経澤信弘さん(52)が同日午後2時から、同店を会場に公開講座を開催。藤田富士夫前市埋蔵文化財センター所長が講演する。
郷土史研究は、もともとだいすきなテーマですが、ここしばらくはコトバの研究に熱中していて、ずっとゴブサタ状態でした。この記事を見て、ひさしぶりに心をゆさぶられる思いがしました。なにより藤田富士夫さんの講演が聞けるというのが魅力でした。 

コシ[越・高志・古志]のはなし
28日の「越のまほろば」講座に出席してみました。会員個人のお店の一角を、しかも営業時間中にお借りしてというあたり、いかにも仲間同士手づくりの研究会という感じでした。
この日の藤田さんの講演内容については、29北日本新聞記事が要領よく伝えています。
藤田富士夫前富山市埋蔵文化財センター所長が「出雲国風土記の中のコシ文化について」と題して講演した。出雲国風土記には北陸地方を指す「コシ」について「越」、「高志」、「古志」の三つの表記があると説明。学説では同義で使われているとの見方もあるとした上で、「使い分けがあったと考える方が自然。大宝律令が制定された8世紀初頭以前は『高志』『古志』、それ以後は『越』に統一されたと考えられる」と解説した。
[]でも[高志]でも[古志]でも、その意味するところはただひとつ、コシ(の国)でしょう。しかし、3通りに書き分けられていたことも事実。その事実経過をたどろことで、その表記法をえらんだ当事者たちの意識(願望や決意をふくむ)のちがいをさぐることができるはず。藤田さんの、そういった実証主義的な研究姿勢を見せつけられ、よい勉強になりました。 

設立総会・行事予定など
公開講座のあと、「日本海文化悠学会」の設立総会が開かれ、会則・役員・事務所・会費などが決められました。会の代表は仙石正三(富山高専講師)さん。事務所は豊坂稲荷神社(富山市茶屋町)内。年会費3000円。
当面の活動予定;427(金)1330、豊坂稲荷神社に集合。婦負国の王墓をめぐる現地見学会517(木)14301530.まる十(千代田町)で「越のまほろば」公開講座。『原発被災地に生きる越中人』(相馬移民の足跡をたずねて)講師、太田浩史氏(浄土真宗大谷派大福寺住職。となみ民芸協会会長)。

郷土史研究とコトバ
べつに郷土史に限ったわけではありませんが、研究と名のつくものはすべてコトバにたよるほかありません。コトバヅカイをいい加減にしていると、話の内容が正確につたわらなくなり、説得力がうしなわれます。
郷土史研究にはその土地の方言研究も必要になりますし、考古学で日本と中国の文化交流の歴史をたしかめようとすれば、中国語の研究も必要になるでしょう。そういえば、藤田富士夫さんも、そしてまた藤田さんの後任者の関清さんも、富山外專の中国語コースに通っておられたことが思いだされます。
藤田さんはコシ[越・高志・古志]の表記法にこだわって話をされましたが、わたしの場合は「コシkosiという語音は、どうしてコシ[]を意味することになったのか」、「コシ[]コシ[]コシ[輿]とどうちがうのか」、さらには「コシ[]は、カシ[樫・枷・貸]・キシ[]・クシ[串・櫛]などとどんな関係をもつコトバか」などの問題にこだわることになります。
富山県の地名メヒとネヒ[婦負]ニフカハとニヒカハ[新川]などについては、このブログでも自分流の解釈をまとめて発表したことがあります(2010921日。「メヒ郡・ネヒ郡・ニヒ川郡」参照)。

手づくりの研究会
たったいっぺん会合に出席しただけでこんなことをいうのは失礼かもしれませんが、たしかに「仲間同士手づくりの研究会」という印象を受けました。まず、郷土のことが好きでたまらない人たちの研究会なので長つづきすることが期待できます。さらには、藤田さんのような指導者をかかえていることから、内輪の仲間同士で楽しむだけでなく、会員一人一人の歴史や民俗を見る目そのものがきたえられることも期待できそうです。次回の会合が楽しみです。