2017年11月5日日曜日

土地茂樹さんのことなど


祭壇 10/9


お通夜の食事 10/9 


「神通川船橋跡」10/17  


「キタキツネと子ども」10/17 


波紋 10/17 


今週の花 10/23 




土地茂樹さんをおくる

10月8日(日)朝,土地茂樹さんが亡くなったとの知らされたとき、わたしはただビックリするばかりで、しばらくコトバが出ませんでした。あの茂樹さんが、70歳未満(満69歳)で亡くなるとは。まったく信じられないことでした。

美織さんのクルマで西番の祭場にかけつけ、遺体と対面して、「ほんとうに亡くなったんだ」と思い知らされました。そして「そういえば…」と思いだしました。数か月まえ、とつぜん頭を丸坊主にして、アゴヒゲもきれいにソリ落としていました。なにか心境の変化を来たしたのかなと感じてはいました。そして。いっぺんに痩せた感じで、すこし気にかかってはいました。いま思えば、信子の葬式やわたしの老院ホームへの入居などの時期と重なっていたので、わたしに心配させないようにと、自分の病気のことはかくしていたのだと思います。

 ふりかえれば、わたしがなんとか信子の葬式をすませ、老人ホームへ入居できたのも、すべて茂樹さん、美織さんにダンドリしてもらったおかげです。つい最近、わたしが「コトダマの世界Ⅱ」を出版したときには、ごく内輪の「出版記念パーティー」まで開いてくれました。

 実の子どもでもないのに、どうしてここまでメンドウ見てくれるのか、フシギなくらいです。因縁らしいものをたずねるとすれば、信子とふたりとの人間関係でしょうか。まえにもご紹介したかと思いますが、このふたりは信子の姉・和枝さんの長男・長女で、赤ん坊のころから、しょっちゅうイズミの家へ遊びに来ていました。数枝さんの旦那さんが貨物船の機関長で,富山の自宅で家族といっしょに生活したことがほとんどありませんでした。1年に数回、日本の港(横浜・神戸・敦賀など)にはいり,休暇がとれると知らせがあれば、数枝さんはナニはさておき、その入港先へかけつけました。そのとき、子供たちをあずかったのが信子です。当時、信子は貸本屋を切り盛りしていましたが、加藤の婆ちゃん(信子の母)も健在でしたから、二人がさびしい思いをすることはなかったようです。.

 さて、現実の話にもどります。茂樹さんには3人の娘がいて、それぞれ結婚して子ども(茂樹さんの孫)もいます。長女は名古屋在住ですが、喪主をつとめ。9日のぉ通夜、10日の葬式・火葬・骨上げ・七日の法事まで、無事すませました。このお葬式に参列して、すこしだけ「風変わり」と感じた点を記しておきましょう。

「土地茂樹」という人物も、たしかにフシギな存在でしたが、(その親友といわれる)Daisinさんも、富山地域では「一風変わった」ご住職だと思います。その表われの一つが、お通夜や七日の法事の食品について「精進料理」のワクをはずしたたことです。東京など都会ではずっとまえから常識になっているようですが、富山では、いまはまだ「革新的」とうけとられているようです。ただ、時代の流れとともに、富山でも、[常識]そのものが変化してゆくことを実感させられました。



はじめての松川散歩

1017日(火)朝、はじめて松川安住橋上流あたりを散歩しました。砂町に住んでいたころは、自宅から百メートル足らずですぐいたち川遊歩道に出られたので、毎日でも散歩できました。それで、ブログの名も「いたち川散歩」と名づけました。6月に丸の内へ来てからも、こんどは松川を散歩してみようと楽しみにしていました。ところが、いざ転居してみると、つぎつぎいろんな用事が出てきて、なかなか松川散歩が実現できませんでした。考えてみると、雑用がおおいことも事実ですが、わたし自身の身体能力や、精神的な能力(判断力・気力など)が落ちてきたこともまちがいありません。

この日は天候もよし、ひさしぶりに散歩してみる気をおこし、愛用の「歩行用ストック」を使って、松川散歩にでかけました。まずは、初対面のごあいさつという感覚で、安住橋から上流左岸数十メートルを歩いてみました。「神通川船橋跡」と題した図解付き解説掲示板が設置されてあり、「ヒマラヤの少女」(田近東岳)、「緑のアプローチ」(善本秀行)、「キタキツネと子ども」(長谷川総一郎)などと題した彫刻作品も展示されていて、このつぎまた散歩に来てゆっくり鑑賞してみたいという気になりました。

それともう一つ、いたち川にくらべて、松川の流れはごくゆっくりしています。ボケーッとしてながめていたら、カワモ[川面]になにか二重三重の水紋ができてひろがり、やがて消えてゆくようです。ひょっとすると、川底ふかくに伏流水があり、それがたまたま気泡か水泡となって水面まで上昇し、そこで破裂して波紋をひろげたということでしょうか?その道の研究者から見れば、なんでもないことかもしれませんが、門外漢にとっては、きわめつきのフシギ。そこから、さまざまな妄想をめぐらすことにもなります。

 せっかくのチャンスだからと、「神通川船橋跡」の説掲示板をはじめ、彫刻作品などをスマホに収めてから、ホームへ帰りました。ところがそのあと、その画像をスマホらパソコンのピクチャ―にコピーする段階でずっこけてしまいました。いつもなら、まずスマホとパソコンをつなぎ、そのあとkyy23→内部ストレージ→DCIM100KCRA、この段階で、スマホ内の画像をすべてパソコン画面で見ることができ、そのうち必要な画像をえらんでコピーし、パソコンのピクチャーに保存できたはずなのですが、今回はどうやってもうまくゆきません。ホームのスタッフの方に見ていただき、やっと画像までたどりつきましたが、そのあとまたコピー作業でもつまづいたり…

<追記>

 この件は、10月いっぱいつづき、11月はじめから、むかしパソコン教室でご指導いただいたysd先生にしばらく定期的に出張教授をお願いすることで落着しました。こんどのことで、まわりのみなさまにいろいろお世話になりました。ありがとうございます。



今週の花 

 1023日(月)。デイ・ケアの日。通所者の中に、10月生まれの方が数人おられ、その誕生日を祝う会がありました。「歌のお姉さん(?)」が来られ、みんなでいっしょに“Happy Birthday”を歌っておいわいしました。ついでに「炭坑節」など、みなさんおなじみの歌を歌って、楽しいひとときを過ごしました。

そして、わたしたちのテーブルには、今週もこんなステキな花(写真)がかざられていました。uszさんが別の場所でいただいた花束のおすそ分けだそうです。花のナマエも教えていただいて、メモしておいたのですが、それも見あたらず、ほんとうにごめんなさい。。たしか、ケイトウ・ガーベラ・トルコキキョウ・バラ(?)



悠学会研修会  

 1027日(金)。午前中に長念寺志田常無住職さんに来ていただいて、信子の月命日のお経をあげていただき、午後は、茶屋町豊先稲荷神社で開かれた日本海文化悠学会の研修会に出席しました。

 この日、会員のkbtさんが「長者丸と徳川幕府崩壊」について報告・提案されました。お話を聞いているうちに、日本の近現代史について、自分が基本的な知識も持っていないことを思い知らされました。その後、ブログ「山川旅人日記」(10/29号)の解説記事を拝読するなどして、ようやくすこしだけこの問題の意味が分かってきました。以下、その記事の一部をご紹介します。

長者丸は越中売薬薩摩組の能登屋兵右衛門所有の弁財船。薩摩藩へ昆布を輸送し、代わりに密輸唐薬種を入手しようと船出したが、天保9年(1839)三陸沖で遭難し、太平洋上で米国捕鯨船に救出された。

長者丸の乗組員で当時26歳の次郎吉は、英語・ハワイ語を憶え、現地新聞「ポリネシアン」にインタビュー記事が載った。

帰国後の天保14年に江戸へ送られた次郎吉は、江戸小石川春日町の旅籠大黒屋に軟禁お預けとなった。水戸藩の儒学者古賀謹一郎は、自宅で次郎吉の外国話を聴く「漂談会」を主宰し(30)、その内容をまとめた『蕃談』を著した。次郎吉にこのような機会を与えられたのは、老中首座阿部正弘、謹慎中であった水戸藩・徳川斉昭の働きかけ、氷見出身の剣豪斎藤弥九郎の斡旋があった。『蕃談』を見た阿部正弘ら幕閣は次第に開国へと政治転換を図る。なお次郎吉の話は、越中へ戻った後『時規物語』『次郎吉物語(全)』でも語られている。

ペリーは日本に開国を迫るために、情報を丹念に集めて研究した。その情報の中に次郎吉が「ポリネシアン紙」にインタビュ―した「日本で銀の価値は米国の3倍」の記事があった。

日米貿易開始の日本経済への影響について、在来産業が壊滅させられ、社会に「不安と混乱」が巻き起こったと見なすのは一面的に過ぎる。生糸売り込み商人の盛んな活動に代表されるように、貿易への参加が広範に見られ、それが日本の独立の真に広大な基盤になった。(井上勝生『日本近現代史①幕末・維新』(2006、岩波新書、113ページ)…この辺りも検討の余地ありか。



「知らぬが仏」現象?

万次郎の話を聞いたあと、わたしはふと「知らぬが仏」というコトワザを思いだしました。ネットでしらべると;

「知らぬが仏」とは、知れば腹が立ったり悩んだりするようなことでも、知らなければ平静な心でいられるということのたとえ。 また、本人だけが知らずに澄ましているさまを、あざけって言うことば。

と解説されています。万次郎時代の日本をめぐる国際情勢については、徳川幕府の実権派をふくめ、日本人すべてが「知らぬが仏」状態だったといえるでしょう。しかし、「知らないから、平静な心で居られてよかった」という結論にはなりません。やがて「きびしい国際情勢」にかんする情報がつたわり、日本国中いたるところで「尊皇か、佐幕か」、「攘夷か、開港か」をめぐって、血まみれの戦いがはじまりました。こうした歴史の教訓に学ぶ意味でも、あらたな情報はできるだけ早期に公開し、腕力や権力ではなく、公開の場で議論されるべきだと考えられます。

 わたしがいま気になっているのは、いまのわたしたち自身が「知らぬが仏」の状態になっている(されている)おそれがないか、ということです。いま世間では、①日本国憲法改正の是非、②北朝鮮拉致被害者の救出方法、③総理大臣の靖国神社参拝の是非などの問題が話題になっています。これらの問題について議論するには、なによりまず日本の近現代史にかんする基本的な情報(知識)が必要になります。ところが現実には、わたしだけでなく、国民みなさんのおおくが「あまり自信がない」状態かと思われます。小中高の学校教育の現場においても、近現代史は年度末にわりあてられ、「時間切れ」などのため学習不足のままとなることがおおく、文科省もその実態を把握しながら、改善する意向は見せていないようです。

 靖国神社や戦犯についても、しばしば問題になりますが、そもそも「靖国神社」や「戦犯」というコトバの意味・用法について、日本国民の共通理解ができているのでしょうか?

A級戦犯」、「B級戦犯」などは外国の人たちがきめたことなので別として、さきの太平洋戦争について、日本国民の総意として、「戦争」、「戦争犯罪」、「戦争犯罪者」、「靖国神社」などについて、いつ・どこで・どんな方法で議論し、そしてどんな共通理解を積みかさねてきたのでしょうか?いまのわたしには、こんな基礎的な問題についても、自信をもって回答できるだけの情報をもちあわせていません。

わたしたちは平生「外国人にくらべれば、日本人自身のほうが、自分たちの国のことをくわしく知っている」と考え、そこで「安心」しています。情報・知識の量だけを見れば、たしかにそうでしょう。しかし、心配なのは、情報・知識の質の問題です。たとえば、「北朝鮮拉致被害者の救出」や「北朝鮮の核兵器開発停止」などについて、「人道に反する行為をしたのは北朝鮮」、「中国・ロシアをふくめ、経済的制裁をつよめれば、政策を転換するだろう」との情報もあります。また、「長い目で見れば、北朝鮮がアメリカと戦争して勝てる道理はない。しかし、和平交渉が失敗した場合、自制心を失った北朝鮮指導者が韓国・日本・アメリカに先制攻撃をしかけるかもしれない。さきの大戦で、日本がアメリカの真珠湾を奇襲した先例もある」との情報もあります。

いずれにしても、わたしたち自身が「知らぬが仏」状態にいなっていないか、よくよく点検しておきたいと思います。

2017年10月18日水曜日

『古事記』と鉄と祭り


『古事記』を読む会 10/1


『古代の鉄と神々』 


中秋の名月 10/4 


ハロウィンかざり 10/9 





『古事記』を読む会   

101日(日)午前、茶屋町豊栄稲荷神社で開かれた『古事記』を読む会に出席。はじめにKndさんが、「ヤマトのシンボル的な三輪山に何故イズモの大神が祀られているのか」と題して問題提起されました。『日本書紀』と『古事記』の記述を見ても、イズモの国譲りによってヤマト政権の基礎が確立されたはずなのに、現実には、「ヤマトがイズモに遠慮しているように見える」現象がおおいのはナゼだろうか? たとえば;

  ヤマトのシンボル的な三輪山にイズモの大神が祀られている。

  神武(初代天皇)は、オオモノヌシ(三輪山)の娘を正妃に向かえている。

  全国の神々が、勝者の伊勢ではなく、敗者のイズモに集まってくる。

  明治天皇が東京遷都の際、最初にあいさつされたのは、武蔵国一宮の氷川神社であり、その祭神はスサノヲ(出雲系)である。

 ナゼ、こうなったのか? Kndさんは、「国譲りなどの過程で、イズモに非道な仕打ちをしたので、祟られているとの認識があったから」という見解を示されました。



異文化と共存の道

 Kndさんが指摘された問題は、ヤマト政権、つまり日本という国の基本構造にかんすることなので、帰宅してからも、わたしなりに、いろいろ考えてみました。思いついたことの結論だけをしるします。

  議論をするまえに、まずどんな立場(視点)から議論するのか、確認したうえで議論に入るようにしたいと思います。『記・紀』などの文献資料を、文芸作品として鑑賞する立場での議論か、それとも歴史の真実を求めての議論か?複数の論者で議論するばあい、だれかが交通整理をしないと、議論がかみ合わなかったり、脱線したりするおそれがあります。

  Kndさんの提案は、ヤマト(王国)とイズモ(王国)との関係について、「歴史の真実を求める」という趣旨だと思います。もうすこし具体的にいえば、「ヤマトとイズモという異文化同士が遭遇したとき、それぞれどう対応したか」という問題です。たとえば、鉄器の製作・使用、稲作農耕の普及、仏教伝来などをめぐって。 敵対的? 謀略的?話しあいで?

  ヤマト政権成立まで、現実にはさまざまな対応方法がとられたと考えられますが、公式発表の文面では、「話しあいで解決した」と説明する方針がとられたようです。

  時代はすこし下がりますが、越中国守大伴家持が地元の豪族と接したときの記録が大量に残っているので、重要な参考資料となります。新任の国守として、まっさきに取りくんだ仕事が、地元の豪族(実力者)を表敬訪問して、相互の信頼関係を確保することでした。

  さらに具体的にいえば、豪族代表を国守官邸まで呼びだすのではなく、国守みずから越中国内各地まで足をはこび、新任あいさつのコトバを述べる。それも、ただの思いつきの散文ではなく、コトバをえらびぬいて和歌という芸術作品にまとめあげたもの。その中で、訪問先各地の国ツ神(山・川など)のすばらしさをほめたたえることで、相互の一体感・信頼感を盛りあげるようにしました。そのことが、やがてスイコ[出挙]などの事業を円滑に進めるうえで役に立ったと思われます。

  大伴家持流の対応の仕方は、ヤマト政権成立までの「歴史の真実」を学習したうえでの対応策だったのかどうか?そこまでは分かりませんが、21世紀の現代でも、A国の大統領やB国の最高指導者たちにも、ぜひ参考にしていただきたいと願っています。



橘の自生地をたずねて

 Kndさんの提案につづいて、服部征雄さんが「橘の自生地をたずねて」と題して報告されました。要約してご紹介します。

 我が国の固有種であり、絶滅危機種に指定されているタチバナ(Citrus tachibana)が伊豆西海岸のヘダ[戸田]に自生し、今、開花しているとの伝言があり、急いで富山から沼津市戸田に向かった。タチバナの自生地は戸田港からやや北上した井田地域にあり、現在では保護地区とされ、一般の観光客が容易に見学できなくなっている。

橘については、中国戦国時代の詩人屈原の楚歌「橘頌」にも歌われているが、タチバナは中国・韓国では自生しないことから、今問題にしているタチバナとは無関係と思われる。

古事記・日本書紀には、垂仁天皇の御代にタジマモリ[田道間守]をトコヨノクニ[常世国]に遣わし、トキジクノカグノコノミ[非時香菓]求めさせ、10年の苦難の旅の末、持ち帰ったものが橘とされる。その橘は以来、神社や天皇の紫宸殿の「右近の桜、左近の橘」として有名になっている。万葉集には、花橘を詠んだ歌が71首もあり、大伴家持の歌が1/3を占める。

 魏志倭人伝には倭人は生姜・橘・山椒・茗荷」などの食べ方を知らないと書いていることから、その橘は食用にならないタチバナ(C. tachibana)だったと思う。

 井田神社周辺に自生しているタチバナは、幹の直径が1020センチ、背丈は数メートルにおよび、鬱蒼とした自然林の中に生き続けていた。これも、きんちゃく型の入江の三方をけわしい山に囲まれ、人に触れることの無かった自然の好条件から、数少ないタチバナの自生地として残ったものである。

 済州島には、よく似た種のコウライタチバナ(C. nippokoreana)が自生しているようだから、新羅の王室が出自とされるタジマモリはタチバナよりやや大粒の実がなるコウライタチバナを持ち帰ったのではないかと想像している。そうすると、常世の国は済州島となる。韓国の若いカップルが多く訪れる済州島を理想郷と考えてもおかしくない。ヤシが茂り、黒潮が浜辺に打ち寄せ、神話の国出雲にも近く、海に面した島の岸壁を少彦名の石像に見たててもおかしくない。

 実は、コウライタチバナは日本にも自生しており、国の天然記念物となっている。山口県萩市の笠山に自生する柑橘植物は当初、タチバナと同定され、大正13年国の天然記念物に指定され、石碑が建立された。しかし、コウライタチバナの命名者田中長三郎は昭和25年、この自生地にはタチバナとコウライタチバナが混生していることを明らかにした。現在でも、コウライタチバナ4本に混じり、1本のタチバナが観察できる。コウライタチバナの実はタチバナより大きく、、表面がごつごつしている。タチバナに較べ、葉柄にせまい翼があり、枝にとげがある。

 一体、どのようにしてこのコウライタチバナがこの火山灰に覆われた半島にもたらされたものか、興味は尽きない。

 服部さんは、薬学・生物学などの視点から『古事記』の(タチバナ関連の)記事を読み、またタチバナの自生地まで足をはこんで実態を観察するなどの作業をしたうえで、こんどの報告をまとめられたとのこと。それだけ、客観性・合理性があり、だれが聞いてもナットクがゆく報告だとおもいます。

『古事記』には、政治・軍事・宗教・経済・文芸など、さまざまな分野にわたる記事が含まれています。『古事記』を読む会は、会員数10人そこそこのサークルですが、一人一人の会員が自分の担当分野にネライを定め、効率のよい研究手法を準備できれば、やがて全体としてかなりの研究成果があがることが期待できそうです。そこでは、20世紀までの「古事記の世界」とはち一味ちがった、21世紀版「古事記の世界」が見えてくることと思います。



『古代の鉄と神々』  

 先日(9/27)、五十嵐俊子さんから『古代の鉄と神々』という本をお借りしました。7月研修会の席で五十嵐さんが配布された資料メモの中に、「日本では、弥生時代から鉄の生産がはじまっていた」、「鉄の古語には複数の系統がある。①テツ・タタラ・タタール・韃靼。②サヒ・サビ・サム・ソホ・ソブ。③サナ・サヌ・サニ・シノ・シナ。④ニフ・ニブ・ニビ・ネウ。⑤ヒシ・ヘシ・ベシ・ペシ」などの記事があり、その出典がこの本だということでお借りしました。

 著者の真弓常忠さんは、八坂神社宮司で、皇学館大学名誉教授。以下、この本の中から、わたしがもっとも興味をひかれた項目を中心に、要約してご紹介します。

<神話・祭祀と鉄との関係>・

日本古代の歴史と文化には謎が多い。たとえば銅鐸ひとつにしても、何に用いられ、なぜうめられているのか、いまだによくわからない。古代の謎をとくには、考古学と史学の立場があるが、古代の文化、とりわけ古代人の精神生活を知るには、神話や伝説があり、さらにその基底に、神々の祭りがあった。わたしは祭祀を通して日本文化の形成過程を明らかにしようとしてきた。

神話と祭祀の関係を研究している途中で、古代祭祀の背後に鉄が深くかかわっていることを知った。鉄とのかかわりという視点を持ったことで、古代の謎を解く端緒をえることもでき、鉄文化を無視しては、日本の古代を語りえないことにも思い至った。。

<弥生時代の鉄>

  考古学者の山本博氏らの教示によると、

  鉄鉱石から鉄を抽出する方法は、銅鉱から同を抽出するよりも簡単である。

  鉄鉱石は溶解しなくても、七~八百度の熱度で可鍛鉄を得ることができる。

  鉄の抽出には、特定の通風装置を必要としない。つまり、弥生式土器を焼成する程度の熱度でよく、タタラ炉を築いて特殊な送風装置を設けなくても、野辺にて製錬することができるということだった。

<三輪山>

  三輪山は秀麗な山容によって、大和一円の人びとに神の山としての崇敬をあつめてき

 た。この山を神体山とするオオミワ[大神]神社は、いまも拝殿はあるが本殿はなく、山そのものが神としてまつられている。しかもこの山の周辺には、崇神天皇の磯城の瑞垣の宮、垂仁天皇の纏向の珠城の宮をはじめ、古代の宮室が営まれ、また箸墓をはじめ柳本古墳群にみれれる前方後円の大古墳が多い。三輪山の秀麗な姿は、まさに神の坐す山として仰ぐにふさわしいが、そればかりではない、三輪山は、あきらかに鉄分の多いはんれい岩から成っている山である。

  樋口清之氏によると、この山の山麓扇状地は、はんれい岩の風化によってできた灰黄色粘土混りの細い砂からなり、中に多数の雲母と含鉄石英岩が混在し、鉄分の多いはんれい岩の部分は酸化発色しているが、これから鉄の製錬は可能といわれる。

  事実、三輪山西南麓には金屋遺跡があり、ここからは前期縄文土器が発見されていて、もっとも早く拓けたところと判明するが、注目すべきは、弥生時代の遺物とともに、同層位から鉄滓や吹子の火口、焼土が出土していることである。鉄滓が発見されるということは、その付近で製鐵が行われていたことを示す。だからこそ「金屋」と称したのだろう。また山本氏によると、三輪山の山ノ神遺跡からも刀剣片と思われる鉄片が出土し、穴師兵主には鉄工の跡がみられるという。

  大和の民が三輪山を神聖視したのは、その秀麗な山容もさることながら、その山麓に営む水稲耕作に不可欠な鉄製品の原料たる砂鉄を産する山だったからである。(以下略)

 ここまでは、まだ序の口で、このあと「スズ[鈴]とサナギ[]」」、「カナワ[鉄輪]と藤枝」、「倭鍛冶と韓鍛冶の神々」など、興味をそそる項目がつづきます。これ以上の引用はやめますが、ここまで読んできた中でも「目からウロコ・」の思いをさせられました。

その第1点は、「古代の謎をとくには、考古学や史学の視点にあわせて、神話や伝説の基底にある祭祀の研究も必要」という提言です。

 第2点は、「神話と祭祀の関係を研究している途中で、古代祭祀の背後に鉄が深くかかわっていることを知った。鉄文化を無視しては、日本の古代を語りえないと思う」という告白。この点については、わたしもまったく同感。中国語学会年次大会で、1992年のら3年連続、「スミ・シム・SMITH」と題して研究発表。1995年には「スミノエ神はSMELTINGMAGICIAN・・・スミ・シム・SMITH・・・古代日漢語音の中にインド・ヨーロッパ語根をさぐる」を自費出版(A4版、148)。さらに、2013年「教育・文芸とやま」第19号に「スミノエ7神はMr. Smithだった…日漢英s-m音語の分析から」と題して投稿。その内容をそのまま、こんどの『コトダマの世界Ⅱ』第16章に収録しました。そんな次第で、執筆した本人としては真剣勝負の気合をこめて書いているのですが、読んでいただいた人たちの感想としては、「話がうまくできすぎている」、「落語や漫才ではないのだから、もうすこし」マジメにやったら」という感じをもたれる方がおおいようです。むつかしいものですね。

 第3点は、「鉄鉱石から鉄を抽出する方法は、銅鉱から銅を抽出するよりも簡単。七~八百度、つまり弥生式土器を焼成する程度の熱度で可鍛鉄を得ることができる。だから、鉄の生産は弥生時代から始まっていたと考えるべきではないか」という指摘です。いわれてみると、なるほどそのとおりだと思いますが、そうなるとこんどは、『古事記』の記事をもういちど読みなおす必要がでてきます。ヤマトやイズモなど各地での製鉄について、また倭鍛治と韓鍛治との関係などについて、あらためて点検することによって、ヤマト政権時代の実態がより一層具体的に見えてくるかもしれません。

 あれや、これや、さまざまなことに気づかせていただき、勉強になりました。鉄の古語関連で「タタラ・サヒ・サナ・ニフ・ヒシ」などについてもご紹介したかったのですが、省略させていただきます。



中秋の名月 

 104日(水)。「中秋の名月ですよ」といわれて、9階の部屋へ行ってみまいた。いつも食堂として使っている部屋ですが、そこからベランダに出られるようになっています。ここは9階ですから、まわりのビルもほとんど気になりません。さいわいなことに、月の光りをさまたげる雲の姿も見あたりません。ほんのひとときでしたが、わたしとしては、これで十分「中秋の名月」を楽しむことができました。ダメモトで、スマホのシャッターを切りました。たしかに光量不足で、月がぼやけて見えますが、このまえ7階のガラス戸越しに花火(大会)をうつした時にくらべれば、ずっとうまくとれました。それで、ブログにのせることにしました。



ハロウィンかざり

109日(月)。デイ・ケアの日。きょうは、みんなでハロウィンかざりをつくりました。。「クリスチャンでもないのに、日本人のお年寄りがどうして外国のオバケづくりなんかしてるの?」そう考える人がおられるかもしれません。でも、そんなカタイことを言ってる時代ではないようです。デイ・ケアを受けるのは、たしかにすこしヨボヨボかもしれません。しかし、デイ・ケアの仕事を担当しているのは、ピチピチ・バリバリの若い人たちです。

「せっかく21世紀まで生きのびてきたのだから、できるだけ新時代の空気に触れる方が、さらに長生きすることにつながる」、そういった配慮からとも考えられます。
 そういえば、このハロウィン行事、祭りにはちがいありませんが、キリスト教正規の祭りではありませんね。キリスト教が伝来するまえから、その土地に先祖伝来の祭りがあった、そのなごりなんです。日本でいえば、仏教伝来以前の祭り=ヤオヨロズの神=自然崇拝。カボチャ=命をつなぐ食糧。当然、祭りの対象になります。ついでにいえば、三角帽をかぶった幽霊。たしか、日本の幽霊も、三角帽(頭巾)着用が定番でしたね。

2017年9月30日土曜日

お墓まいりと土なべぞうすい


カーテンの影もよう 9/25


墓まいり 9/2 


田園風景(立山町) 9/2 


ぞうすいの店 9/27 


土鍋ぞうすい 9/27  






カーテンの影もよう

 925日(月)。デイ・ケアの日。窓ぎわのテーブルに席がありました。この時期でも、午前中は日ざしがつよいので、カーテンで日ざしをよわめています。窓ガラスには、イロガミでつくった花やリボンがはりつけてありますのので、それが無地のカーテンにうつって、くっきりと影もようをつくります。影もようは、日ざしの変化につれて、微妙に変化します。午後になると、太陽の位置が変化し、影もようが消えます。カーテンも、無用となります。



老人ホームの話

926日(火)午前、mori夫妻来訪。わたしが老人ホームへ転居したり、本を出版したりしましたので、どんな生活をしているのか、心配になって、様子を見にこられたとのこと。ホームでの生活について、わたしから、こんなふうに報告しました;

  このホームは、老人用住居として最高の安全性・利便性を持っていると考えられること(三食付きで、パソコンも使えるなど)。

  毎週1回、内科検診を受ける(1階が桝谷内科医院)ほか、2回デイ・ケア施設に通っていること(入浴・昼食・リハビリなお)。また、週2回、ヘルパーさんに来てもらいること(掃除・洗濯など)。」

  経費の面から見て、年金生活者としてはゼイタクすぎる生活だが、このさきン十年生きているはずもなく、あと1年でも、ひと月でも、安全に生きのびることが信子の供養にもなる。また、まわりの人たちにも、それだけ安心していただけるはず。そう考えて、決断したこと。



タイム・スリップ、70

 よもやま話の中で、こんな話も聞かせていただきました。mori家に毎月こられるお寺の住職さんから、「あんたとこ、イズミ オキナガさんの親戚け?」とたずねられ、70年まえの思い出話をされたとのこと。その話とは;

戦後間もない1947年ころ(住職さんが西別院仏教青年会の世話役をしていた時)、会合の出席者の中にイズミ・オキナガと名乗る人物がいて、しきりに発言していたことを記憶している。先日の新聞で『コトダマの世界Ⅱ』の記事をよみ、すぐに当時の記憶がよみがえり、「こんどの本の中で、どんなことを発言しているのか、ぜひ1冊購入して、たしかめてみたい」と考えている。そんなお話でした。

 いわれてみると、わたし自身にも記憶があります。中國(張家口市)で敗戦をむかえ、翌年1946年)5月末帰国北海道まで帰る予定でしたが、信子の実家がある富山を素通りするわけにもゆかず、途中下車の感覚でたちよりました。信子の母や姉妹たちに引きとめられるまま、2~3日滞在の予定がずるずる伸びて、やがてそのまま定住にむかっていました。

 わたし自身、中国大陸で死を迎えることを覚悟していましたから、北海道でも、富山でも、なんとかして生きてゆくカクゴでしたが、いざ現実となると、やはりいろいろ問題がでてきます。中でもいちばんのナヤミは、富山の人たちと「会話」することのむつかしさでした。わたしはもともと北海道出身。中学校を卒業ししたあと、東京で4年、つづいて中国大陸で5年間生活。いずれも、日本各地出身の人たちのヨリアイ社会でしたから、相手の心のウラまでよみこんだ会話をしている余裕がありません。正面からずばりホンネで語りあうことで、ようやく会話が成立していました。

 ところが富山では、そういう言い方が通用ししないというか、きらわれるようです。自分が考えていることをそのまま発言した場合、相手がどんな感じでうけとるか、そこまで計算したうえで、コトバをえらんで発言するべきだということのようです。まだ20歳代だったわたしに、そこまでの計算はムリ。「ホンネで語ることの、どこがマチガイなのか?」となやんでいました。

 そのとき思いついたのが、「富山は浄土真宗王国」ということでした。自分が『歎異抄』の愛読者だったこともあり、浄土真宗の学習サークルに入れていただければ、富山の人たちと会話できる道が開けるかもしれないと考え、富山の西別院へ通ったことを、いまでもおぼえています。

 あのときお世話になったお寺さんが70年間をタイム・スリップして、イズミの名を思いだしていただいたとの話に感激、さっそくmoriさんをとおして、本を1冊謹呈させていただきました。そして、mori家から、多額のカンパをちょうだいしました。ほんとうにうれしく、ありがたい一日でした。



お墓まいり

927日(水)午前10時すぎ、長念寺さんをむかえて、信子の月命日のお経をあげていただきました。そのあとすぐ、mioriさんと二人で、立山町沢端のお墓へ向かいました。ほんとうは、23日の秋分の日あたりにと考えていましたが、mioriさんのつごうもあり、おくればせながら、なんとか墓参りが実現できました。この日は、すこしがあり、ローソクや線香が着火しにくかったのですが、がふらなかったので、たすかりました。



高齢化社会の典型

 かえりみち、五百石tsmtさんのお宅をたずねました。うまいこと、在宅でした。足腰がよわって、自分の足で立ち上がったり歩いたりすることができず、トイレへ行くにも、車いすを使ったり(店内の移動)、這いずったり(居室フロアでの移動)しておられました。

 それでも、毎日の生活様式は、ほぼむかしからそのままのようです。店のフロアのまん中に火鉢をすえ(炭ではなく、灯油)、ヤカンをかけてを沸かしてあります。来客があれば、茶わんに湯をそそぎ、しばらく冷ましてから急須に入れ、ゆっくり茶わんに移します。

そのお茶を飲んだときの、舌先でトロケル甘味、そしてノドゴシのなめらかさ。なつかしい味をごちそうになりました。

 tsmtさんの生活ぶりを見たり聞いたさせていただき、自分の場合ともくらべあわせ、これこそ高齢化社会の典型だと思いました。生活の安全性や利便性も大切です。地域社会との交流継続も大切です。ムジュン関係にある要求をどこまで調整できるか?むつかしい問題だとおもいます。



ぞうすいの店

 立山町から富山へ帰る途中、大島の「村田家」で昼食をとりました。わたしは「土鍋ぞうすい」、mioriさんは「餅入り土鍋ぞうすい」を注文。あつあつのぞうすいを食べ、mioriさんの餅も半分もらって、おなかがいっぱいになりました。
 「村田家」といえば、もと東町にお店があったころ、何回か連れて行ってもらったことがありますが、大島の店ははじめてです。昭和7年、「うどん、そば処」として創業、とりわけ「ぞうすいの店」として評判になっていましたが、そのご山室・古澤へ移転。そして今年425日に大島へ移転、新装開業したとのこと。大日橋のたもとに居を構えた村田家は、店内もひろびろとして、清潔な感じでした。天候がよければ、おおきな窓ガラスごしに、立山連峰のながめを楽しめるそうです。

2017年9月26日火曜日

地名の話など





コスモスの花 9/1


「地名は歴史を語る」講演会場 9/20  


日本海文化悠学会研修会 9/22 


花束 9/22 





住めばミヤコ(?)

918日(月)。デイ・ケアの日。いつものとおり窓ぎわで、日当たりのよいテーブルに、いつもどおりの4人がそろいました。wtbさん、uszさん、nktさんとわたし。そして、テーブルの上に、いつもの花瓶がおかれ、この日は、先日の鶏頭と交代して、コスモスの花(写真)が活けてありました。いつものとおり、uszさんのお宅の花壇からつみとって来られたそうです。

 デイ・ケアに来るのは周2回だけで、あとは毎日朝から晩までホームで暮らしているのですが、「自宅からデイ・ケアまで出かける」というよりは、「もう一つの自宅へもどってきた」みたいな感覚になっています。「住めばミヤコ」というコトワザがありますね。それとぴったりとはいいませんが、人間の意識は案外変化しやすいものだと気づかされました。

 そういえば、ホームでは、スタッフの人たちとは必要に応じていろいろ相談することがありますが、住人同士では、毎日39F食堂で顔をあわせ、「おはようございます」くらいのあいさつを交わしますが、中身のある会話をしたことがありません。それにくらべて、デイ・ケアでは、毎回午前10時まえから午後3時すぎまで(入浴時を除き)、ずっと同席したまま、食事・体操・唱歌・ゲームなどで時間を過ごします。あるいは、イロガミで花やリボンをつくるなどの共同作業をすることもあります。そんな中で、「こんにちは」、「おやすみ」だけでなく、もうすこしナカミのある会話がかわされるようになりました。

 テーブルにかざられた花の話から、それをもってこられたuszさんのご自宅での人間関係がちらっと見えてきました。nktさんのお話からは、ピッカピカの1年生とおばあちゃんとのツーショット姿が見えてきました。そして、ご子息が富山在勤の縁で、新潟から富山の老人ホームへ転居されたというwtbさんは、「新潟にくらべて、富山の空は高い」というコトバで、富山の自然環境や生活環境のよさをほめちぎっていました。こんな話、富山の県知事さんや市長さんが聞いたら、喜ばれるでしょうね。



ヒマつぶしに、まわりを「観察

デイ・ケアをするスタッフのみなさんはキリキリマイしておられるようですが、ケアされるがわのわたしどもにとっては「待ち時間」みたいな時間がかなりあります。自分ひとりで、なにをしてもよい、フリーな時間にはちがいありませんが、だからといって、ひとりだけ読書したり、テレビを見たりというわけにもゆきません。では、どうすればよいか?  

イネムリでもしていたら?それも、やってみました。しかし、あまりいい感じがしませんね。そこで、思いついたのが、まわりを「観察」することです。デイ・ケアの施設・設備、スケジュールの設定・運営など。自分でかってにモノサシをつくり、評価してみます。あるいは、通所者みなさんのカオブレを観察して、高齢化社会、男女別平均年齢、さらには日本の人口問題にまで推測をめぐらすことになります。「観察」とはいいましたが、じっさいはじぶんのアタマの中で、あれこれ考えているだけ。まわりの人の目には、「ボケーッとして座っている」姿にしか見えないでしょう。これなら、だれにもメイワクをかけないですみそうです。

 この「観察」をつづけてみて、一つ気づいたことがあります。それは、デイ・ケアに通っているあいだに、そこが「もう一つの自宅」と感じるようになっていた、その意識変化に気づいたこと。そしてまた、まわりを「観察」しているうちに、「観察」している自分の姿を発見したということです。ちょっとしたオドロキであり、フシギな感覚です。ひとりでに、佐藤正樹さんの、あの詩作スタイルを思いだしていました。



「地名は歴史を語る」講演会

 920日(水)午後、富山市西町キラリホールで冨山第一銀行共寿会の講演会があり、富山近代史研究会会長竹島慎二さんが「地名は歴史を語る」と題して講演されました。

 はじめに、アケビ[山女](魚津市)・サンヨシ[三女子](高岡市)・ノデワラ[勝木原]( 高岡市)・ヨメダン[鼠谷](富山市)などの難読地名や、コウベ・カンベ・コウド・ジンゴ(いずれも[神戸])などの同字異読などを紹介。つづいて、「古い地名の多くは自然地名[景観]」であり、「地名は弥生時代からの本格的な水稲農耕の普及によって急増」したことを指摘。そのうえで、古代(律令政府が統治のために地名を作成・・・好字二字令など)、中世(武家社会+荘園制・・・荘園、武士の生活、交通や流通機構の発達、神社・寺院などに関係する地名)、近世(城下町+新田開発・・・城下町の形成や検地・新田開発にちなむ地名など)にわたって、具体例をあげながら、理路整然、しかも分かりやすく解説されました。

 おしまいに、「何故『越』、『富山』?」として、「越(古志)の国」=アイヌ語の「ク・シ」?(渡る)と解釈する例を紹介したり、「地名から地域の特色を推定」する方法(たとえばサワ[]がつく地名、沢新・沢端・野沢・前沢・米沢などから、もともと湿地帯だったと推定できる)を提案するなど、サービス満点の講義でした。むすびのコトバは、「地名とは、古代からの歴史遺産であり、歴史の生き証人(歴史の文化財)。」

 「しかし、それにしても・・・」と、わたしは考えます。地名表記にかぎったことではありませんが、「日本人は、漢字にたよりすぎ」ですね。モジというものがなかった当時の日本では、漢字はたしかに便利で役にたつ道具でした。話をした瞬間に消えてしまうコトバを記録にのこすことができ、空間・時間の制約をうけることなく、イツ・ドコででも再生できる。カミワザのような、ありがたい道具でした。しかし、ツゴウのよいことばかりではありません。フツゴウなこともあります。漢字は、もともと漢民族が漢語を記録するために考案したモジです。日本語(ヤマトコトバ)の音韻組織は漢語のそれとかなりちがいますから、漢字だけでは日本語を書き表わすのに不便なことがあります。そこで、ガタカナやひらがなが生まれました。ほんとうはこの方向でつっぱしればよかったかなと思いますが、現実はやはり「漢字だより」が主流の時代がつづきました。



「好字二字令」の功罪

その典型が「好字二字令」(『続日本紀』和銅652日条)だろうと思います。この[]によって、日本全国の地名表記法が泉→和泉、木→紀伊、粟→阿波、近淡海→近江、多邇麻→但馬などのように修正されました。なんでもかんでも、カッコいい漢字を2字ならべさえすれば、カラ[]ふうでハイカラなんだと考えたのでしょうが、じつはまったくのカンチガイで、ナンセンス、バカげた発想でした

 「好字二字令」は、漢語の文脈(音韻感覚)でこそ意味があります。漢語としての漢字は「1字=1音節」にきまっており、「前後」「左右」など、2字(=2音節)をならべることで「バランスがとれる」(安定感が生まれる)という美意識がいっぱんに定着しています。しかし、ヤマトコトバの文脈では、漢字1字1音節、2音節、3音節など、まちまちな音形に対応しています。漢字を2字ならべたからカッコいいというのは、ミセカケ(字形)だけの話。じっさいの中身(音形)が1音節、3音節など奇数のままでは、漢語ふうの(音韻面からの)安定感が生まれる道理がありません。

それだけではありません。漢詩や英文の詩の世界でだいじにされてきた「韻を踏む」(音形をそろえる)という作業が、日本の詩作の世界であまり重視されてこなかったという事実()とも関連する問題かと思います。詩作とは門外漢のわたしですが、あえて問題提起させていただきます。いかがでしょうか?



越中の7・8世紀金銅仏 

 922日(金)午後、茶屋町,豊栄稲荷神社日本海悠学会の研修会があり、富山考古学会会長西井龍儀さんが「越中の7・8世紀金銅仏、宮嶋村の白鳳仏」と題して講演されました(写真)。要約して、ご紹介します。

 これまでの調査で、78世紀の金銅仏として、①氷見洞窟(鞍骨)如来像、②千光寺観音菩薩像(砺波市芹谷)、③玉泉寺観音菩薩像(速星)、④本覚寺観音菩薩像(富山市富崎)の4体(いずれも銅製仏像で、国の重要文化財)が存在することが確認されていた。

 最近の調査で、元富山県宮島村(現小矢部市)から金沢市西光寺へ移された銅造菩薩立像が、鳥取県大山町の大山寺が所蔵する国の重要文化財「銅造十一面観音立像」とよく似ていることが分かり、「兄弟仏」の可能性もある。

 さて、「富山・石川両県で、五体目の重要文化財指定か」などの報道を聞くのは、たいへん楽しいことです。しかし、その報道を安心して信用できるのは、その内容の真実性考古学独特の客観的・多面的・合理的な調査・分析によって裏打ちされていると考えられるからです。

 

マキ[]も モク[]m-k音タイプ

たとえば、富山県の1か所で78世紀の金銅仏が発見されたという場合、世界史規模で宗教(神道・仏教)・農耕(焼き畑・イネ耕作)・牧畜・ヤキモノ(木炭・土器・陶磁器)・金属精錬(金・銀・銅・鉄)などについてチェックしてみることも必要でしょう。

金銅仏についてなんの関心も予備知識ももたない人にとっては、それこそ「ネコに小判」。その素材が木材でも金属でも、あるいはそれがいつ・どこで発見されようと、なんの意味もないことです。ぎゃくに、歴史家としては、まずそれら断片的な情報をよせあつめ、つきあわせたうえで、総合的な判断をくだします。そこで、さまざまな「断片的な情報」がおおきな意味をもつことになります。そして、その「情報」は、すべてコトバとして処理されているので、「情報」の真実性を議論するまえに、まずそのコトバ(用語」そのものについて議論し、共通理解してからでないと、そのあと議論がかみあわず、客観的・合理的な結論がでないおそれがあります。

その点で、これまで「わかりきった用語」として、あまり議論しないまま使ってきたものについて、ここでいちど読みなおしてみてはどうかと考え、提案いたします。たとえば、「カネ[金・鐘]とコム[]」、「カミ[上・髪・守]とカミ[]とカム[神・噛・醸]」「マキ[巻・牧]とモク[牧・目]など。

西井さんも、「古代遺物は未確認ながら、屋波牧原牧などの牧地名がどこまでさかのぼるか注意すべき所」と指摘しています。ついでにいえば、マキ[]は日本コトバとされていますが、日本漢字音モク・ボク、上古漢語音miuek、現代漢語音muヤマトコトバのマキ[]は、動詞マク[巻・枕・娶](四段)の連用形兼名詞形で、①巻く。まといつける。からみつける。②妻として抱く。めとる、などの意味を表わしています。漢語モク・ボク[]の字形も、もともと「牛の繁殖を示す」ものであり、「モ・ボ[]、マイ・バイ[](なこうど)と同系」とされています。

ヤマトコトバのマキ[]も 、漢語のモク[]も、おなじくm-k音タイプ。それぞれ同系の単語家族をかかえ、いわば単語家族まるごとの対応関係を見せています。単なる偶然の一致と見すごしてよいでしょうか?

     

花束
 7月の悠学会研修会で、会員のみなさんへ『コトダマの世界Ⅱ』を1部ずつ贈呈させていただきましたところ(8月は夏休み)9月研修会のこの席で、みなさんからお礼の花束をちょうだいいたしました(写真)。ありがとうございます

2017年9月16日土曜日

本の評判など


  鶏頭とニラの花 9/11


 うたの時間 9/11 


富山大橋通郵便局 9/11 


おたより(一部) 



鶏頭とニラ 9/11

 911日(月)。デイ・ケアの日9時半、迎えのクルマで、200㍍ほどはなれた施設まで移動する。ここで入浴をすませ、やがて昼食。午後、かるい体操などをした後、オヤツをいただく。そして3時すぎ、クルマでホームへむかう。毎回こんな日程になっています。

 入浴とかるい体操だけでまる1日かかるということになると、なんとかしてもうすこし効率的なスケジュールが組めないものかという疑問もないわけではありません。ここで、「モノの見方、考え方」という問題が出てきます。

 ホームでは、住人の安全ともにプライバシー保護にも重点がおかれ、ややもすると孤独な生活になる恐れがあります。そこで、デイ・ケアでは、集団行動に重点をおき、社交性・社会性を回復・温存し、孤独化をさけるために、このようなシステムを採用したと解釈することもできます。介護施設としての浴場の設備や職員の配置などを考えれば、やはり現行のような方式になるのかもしれません。

 たとえば、部屋には五つのテ-ブルがおかれ、それぞれ4人の席が指定されています。座席指定は随時変更されることになっていますが、こうして毎回(2回)おなじテーブルで顔をつきあわせていると、ひとりでに親しみがわき、コトバをかわすようになります。

 また、窓ガラスや壁にイロガミでおった花やヒモがかざられていますが、これもみんなの共同作業によるものなので、仲間意識をはぐくむもとになっているようです。

 そして、この日も、テーブルの上の花瓶に鶏頭とニラの花がかざられていました(写真)。この花は、毎回仲間のuszさんが自宅の花壇からつみとってこられるのだそうです。



うたの時間 9/11

 通所者の中に9月生まれの方が三人おられ、出席者全員でHappy birthdayを歌ってお祝いしました。また、この誕生祝いの会にあわせて、「歌のお姉さん(?)」がこられ、虫の声」、「故郷の空」、「こきりこ節」、「夕やけこやけ」などの歌を、みんなでいっしょに歌いました。

 いつもだと、体操の一環として、スタッフの号令にしたがって「イチ・ニ・サン・シ・・・ハイ」で歌いはじめ、1曲終わると、一服する間もなく、号令一下、すぐにつぎの曲を歌いはじめることになります。それぞれの歌がもっている情緒をあじわっているヒマがありません。

そもそも、人の心をウツ[]ものウタ[歌・唄・唱]なんですから、まずは自分が歌の文句に心を打たれ、その流れでこんどは自分からまわりの人の心に打ちかかる(歌いかける)のがスヂだと思います。そして、自分と相手との心の交流を感じとることができれば、それこそが歌うことの楽しみであり、醍醐味だろうと考えるのですが、いかがでしょうか。



富山大橋通郵便局 9/11

 佐藤正樹さんからの紹介で、横澤康夫さんからやや専門的な書評がとどきました(くわしくは後述)。そのお礼のてがみに補足資料を同封して郵送するため、郵便局までいってきました。ホームから100㍍そこそこの近所ですが、帽子をかぶり、郵便物はカバンに入れて肩にかけ、2本のストックを使っての外出となりました。郵送料は380円だとわかりました。

 この郵便局のナマエが「富山大橋通郵便局」。「丸の内」というナマエは使われていません。なるほど、この道はすぐに「富山大橋」に通じるトオリ[]なんですね。

 丸の内のホームへ転居してから、ほぼ4カ月になりますが、自分の足で近所を散歩したことがほとんどありません。郵便局の手前に諏訪神社があり、には睡蓮(?)やガマの穂、さらにはカメの子が日向ぼっこしている姿も見えるのですが、ここは「防火用水池」として管理されてるとのことで、なんとも「フゼイがない」、「味もそっけもない」感じです。この日も素通りしてしまいました。

 それだったら、松川でも散歩したらということになりますが、連日のあつさで、まだいっぺんも松川まで足をのばしたことがありません。つまり、いまのところ、わたしの散歩道は、ホームからこの郵便局までということになります。



おたより、資料など

『コトダマの世界Ⅱ』について、電話・メール・はがき・てがみなどで、たくさんの声をよせていただきました。これまでのところ、はがき計25てがみ計17などとなっています。そのうちはがき数枚をえらんで、写真でご紹介しました。

そのほか、おりかえしご自分の作品を送ってくださった方もおられます。すでにブログでご紹介した小澤俊夫さんや佐藤正樹さんの作品がその例ですが、ご紹介したい作品はほかにもあります。



図書館などへの寄贈について

先日、富山県立図書館から『コトダマの世界Ⅱ』寄贈にたいする礼状(731日付はがき)がとどきました。公立図書館などへの寄贈は別ワクを予定していましたので、わたしは県立図書館へ発送した心当たりがなく、ハテナと思っていました。

912日(火)、仙石正三さんが「めぐみ」へ来訪され、ことの真相が分かりました。「悠学会」の席で贈呈された本を、仙石さんが県立図書館へ持って行って見せたところ、その場ですぐ寄贈資料としてとりあげられたということでした。これで、ナゾがとけました。わたしから仙石さんへ、あらためて1部贈呈して、一件落着。仙石さんには、ほんとにお世話になりました。

ここでもういちど、公立図書館などへの寄贈についてお伝えしておきたいと思います。もともと県下の公立図書館を中心に、100部ほどの別ワクで寄贈する予定でいました。ただ、富山市立図書館などでは、あらかじめ審査委員会で審査し、合格したものだけ受けつけるという話も聞きました。それくらいなら、ぎゃくに、寄贈してほしいといわれる図書館などへ優先的に寄贈するほうが、ムダな手数がはぶけて、よさそうだと考えています。

図書館でも、あるいは小中高の学校教育現場などでもかまいません。当事者でも、あるいはそのまわりの方でもけっこうです。あの図書館、あの学校へ寄贈してほしいとお考えでしたら、どうぞごえんりょなくお申しいでください。一人でもおおくの人にこの本を読んでいただくこと、そして「読んで、役に立った」と感じていただけること、それが著者としての願いです。

 なお、わたしはクルマも運転できませんし、こちらから本をおとどけする足がありません。恐縮ですが、丸の内のホーム「めぐみ」までおいでくださるようお願いします。

 また、個人で購入されたい方には、(店頭販売では消費税込み2700円となりますが)、12000円でおわたしします。郵送の場合は、送料(1300円)をご負担ください。





横澤さんからの書評

 さきに佐藤正樹さんあてにこんどの本をおお送りしたところ、「自分は専攻がちがうから」と、わざわざ中国語専攻の横澤康夫さんへ転送して、「書評」を依頼してくださいました。96日、その「書評」がとどきましたので、以下ご紹介させていただきます。なお、「書評」の中に、イズミへの質問なども含まれていますので、各項*印以下にイズミの文面を記述させていただきます。



泉興長様

初めまして、熊本市在住の横澤康夫と申します。

先日、先生旧知の佐藤正樹氏より、先生の御高著『コトダマの世界Ⅱ』が送られてきまして、書評を書いて先生に届けて欲しいとの依頼がありました。佐藤氏と私は大学時代一緒に山に登っていた仲で、私が中国語を学んでいたものですから、何か気の利いたモノが書けるのではないかと期待して依頼を寄せたものと思います。

 しかし、御著書を一読、大変興味深い内容でしたが、私は音韻論など先生の研究対象とされている方面については全く門外漢であることを思い知らされました。先生のお役に立つような話はとてもできません。ただ、いくつか感想を書き連ねて責を果たす?ことに致します。

*「音韻論など…全く門外漢」とおっしゃいますが、著者自身、もともと「まったくの門外漢」だったものが、かってに「象形言語説」(仮説)をたてただけのこと。学会・学界で公認されたものはなに一つありません。横澤さんのこの「書評」が中国語専門家からの書評第1です。貴重な資料として、拝読させていただきます。



先ず、先生と私の間に若干のすれ違いのご縁があると感じたことが2点。私は1961年の東京外語中国語の卒業で先生の遥か後輩に当たります。次に御著書の中に199810月に熊本大学で開催された中国語学会の年次大会で発表されたとの記述がありますが、当時私は当番校・熊本学園大学の外国語学部長をしておりました。ただ学会当日は種々の雑務に追われていまして先生のご発表を聞くことはありませんでした。いささか残念です。

以上は御著書の内容とは関係のない話です。

*熊本学園大学では、たしか「日漢英のk-r音比較資料」について報告させていただきました。こんどの本では、4章「クルマ=サイクルのカラクリ」にあたります。横澤さんとのご縁は「袖すれ合うも、多生の縁」といったところでしょうか。



さて私が先生の御著書を読んでいて、最も強い印象を受けたのは、日・漢・英を含め、各民族語は人類語の一方言に過ぎないというご指摘です。そのことは、御著書の中で音韻面などから詳述されているところです。そのことについて、私は当否を述べる知識も資格もありませんが、感覚的には納得できる話でした。それでふと思いついたのは、旧約聖書の創世記に記されている「バベルの塔」の物語です。人類共通の言語がここでばらばらにされたということですが、旧約聖書の言う通りなら、人類は過去に共通の言語を持っていたことになります。。

 先生のご研究はそれを復元する作業にもなるのではないかとも思いました。いかがでしょうか。

*いまの段階で「日・漢・英を含め、各民族語は人類語の一方言に過ぎない」というのは、あくまでも「推定」にとどまり、「断定」はできません。「断定」するまえに、やるべき作業手続きがのこっているからです。人類語の中で、インド・ヨーロッパ語については、インドをふくめて各地の民族語について、相互の位置関係などが分かってきています。しかし、日本語や漢語とまわりの民族語との関係はとなると、言語比較の方法さえ準備できていません。この地域の住民は、数千年にわたって、漢字という表意モジの便利さにおぼれ、「モジはコトバをしるす道具にすぎないこと」、「コトバは、もともと音声信号であること」をわすれてしまいました。

 どうすればよいか?インド・ヨーロッパ語の研究者がやったように、日本語や漢語の戸籍調べ(単語家族の研究)をすすめ、適確な比較資料(単語や単語家族)をそろえたうえで、比較してみることです。共通の土俵で、共通のルールで比較することによって、合理的・客観的で説得力のある結果や結論がえられるわけです。

 インド・ヨーロッパ語の実態が明らかにされたのは、200年ほどまえとされています。いいかえれば、日本語と外国語との音韻比較研究は、世界水準にくらべて200年ほどおくれていることになります。しかし、音韻比較研究の方法についてはちゃんと前例があるのですから、やる気になりさえすれば、5年か10年のあいだにかなりの成果があがることも期待できます。

 旧約聖書の「バベルの塔」などについては、わたしはキリスト教徒ではなく、十分理解できていませんので、発言する資格がありません。



 次に三巴紋の話も興味深く読みました。御著書では世界各地に見られる三巴紋の例が挙げられており、それにはそれぞれの社会の生命観、世界観、宇宙観、理想社会へのイノリがこめられていたとのご見解です。三巴紋は日本の庶民生活の中にもでんでん太鼓の模様や家紋などにもよく見られるようです。また韓国の太極旗の模様は二巴紋です。こうした事象についてこれからも先生の「ボチボチの歩み」の中でいずれご説明があるものと期待します。

 *三巴紋にのめりこんだころのことを思うと、「若かったな」と感慨シキリです。その後、日本語の単語家族研究に集中してしまいましたので、巴紋の実態把握はアトマワシになってしまいました。いまの「ボチボチの歩み」では、「見果てぬユメ」に終わりそうですが、どなたか若い方々に、ぜひ正面からチャレンジしてほしいテーマです。



 韓国の話を出したついでですが、先生のご研究では日・漢・英にしぼっておられますが、日中の間にある韓国語・朝鮮語については今後研究の対象にはならないのでしょうか。研究対象外ということであれば、それにはなにか理由がおありでしょうか。関係のない話かも知れませんが、韓国ではごく一部を除き漢字を排除し、ハングル中心の表記が使われています。北朝鮮では全く漢字を使用していません。同じ漢字圏でもベトナムでは中國語源の言葉をベトナム固有の言葉に置き換える政策がとられていると理解しています。一方中国では毛沢東の指導で、一時漢字を廃止し、ローマ字表記のみにする試みも行われましたが失敗に終わっています。漢字という特異なモジを使用する日本語の世界戦略と関連してですが、私は各国語の将来は時の政治、政権、あるいはあるいはナショナリズムなどにより決定づけられる運命が強いという思いを持っていました。先生のご研究とはあまり関係のない話とは思いましたが、感想を言わせていただきました。

*「象形言語説」の立場からいっても、漢語・英語にかぎらず、アイヌ語・琉球語・韓国語(朝鮮語)・モンゴル語などとの音韻比較を進めることが必要です。わたしがこれまで日漢英の3言語にしぼって音韻比較を進めてきたのは、わたしの語学力ではこれで精いっぱいだったからです。この種の研究では、個人の能力には限界がありますから、できるだけおおくの研究者が協力し、責任分担をきめて作業をすすめるのが効率的です。

 韓国・北朝鮮・中国などのモジ改革の流れも、重要な研究テ-マの一つです。この面で見ても、いまの日本文科省のモジ政策は、世界のながれから数十年もの時代おくれだといわなければなりません。

 なお、中国のモジ改革についていえば、1958年に中国語表音表記(中国式ローマ字つづり)を制定、小学校でまっさきにこのローマ字つづりを習得し、これをたよりに漢字の発音を習得できるようにしました。その結果、いまでは中国全土、どこでも共通語(北京語)が通用するようになっています。



 さて、五十音図、六十四音図の話です。まず五十音図をローマ字表記にして考えることは、日本語の理解を促進する上で効果が大であることは先生のおっしゃる通りです。私が家庭教師をしていた時の経験ですが、国語のできがあまりよくまかった中学生にローマ字表記で五十音図を教えたところ、国語の成績がなぜかみるみる上がったということがありました。現物は見ておりませんが、六十四音図を使えばチャンポン語の日本語がいっそう理解しやすくなり、言われているように日本語が外国人にとってもさして難しい言語ではなくなるのではないかとうことがおぼろげに理解できました。ただ、ちゃんぽん語で同音異義の多い日本語がどこまで理解しやすいものになれるのか、いささか疑問にも思えました。

*おなじく日本語といっても、いわゆるヤマトコトバが主流で、漢語その他の外来語がすくなかった時代には、日本語の音韻組織を理解するのに、「五十音図」が大変役に立ちました。しかし、現代日本語では、漢語やカタカナ語などがおおすぎて、「五十音図」では説明しきれない、つまり役に立たないようになりました。ナゼか?「五十音図」はふつうカナ(カタカナ・ひらがな)で表記されます。カナは表音モジではありますが、音節モジであって、音素モジではありません。ヤマトコトバと外来語ではもともと音韻感覚がちがうので、やはりいちど音素段階まで分解したうえで、あらためてコトバの音形や意味を再構成するような方法が、そのコトバの実態をとらえることにつながると思います。

 『64音図』というのは、「五十音図」の21世紀版をめざし、また(日本人の)漢語(中国語)・英語の習得(入門期)にも利用できるようにと考えた試案です。もちろん,なんの権威も、実績もありません。ただ、これをきっかけに、おおくの音図(試案)が提案され、議論されることを期待しています。

 いまの日本語がかかえている問題の中でも、漢語による同音異義のコトバがおおいことは深刻な問題です。ただし、たとえばコウエン[公園・公演・講演・好演・後援・高遠・口演・広遠・香煙]などは、現代漢語でもそれぞれちがった音形で発音されていますから、中国内では同音異義の問題は発生しません。それを日本語にとりいれたとき、ヤマトコトバの音韻組織にあわせて(もとの音形のチガイを無視して)、ゴタマゼにして、コウエンという音形で呼ぶことにしたために、これほど大量の同音異義のコトバが発生したわけです。漢語自体に、なんの責任もありません。漢語を無制限にとりいれた日本人の責任であり、できるだけ早く解決すべき問題です。



 先生は日本語の現代化、国際化にとって、最も基本的な課題は、文書の横書き化が徹底されていないことだとのべられています。国語教科書を初め新聞、雑誌、文芸作品もいまだにタテガキだと慨嘆しておられます。。先生は日本語辞典についても同じことを考えておられると思います。確かに日本語辞典は縦書きのままですが、私の知る限りではただ一つ集英社の国語辞典には横組み版があります。助動詞、動詞の活用表だけはタテグミですが、ご参考になれば幸いです。

*「集英社の国語辞典には横組み版がある」ことを教えていただき、ありがとうございました。日本語辞典の現代化、国際化という点では横組みとすべきはもちろんですが、「時代別にみた音形の変化」や「単語家族研究資料(語根と派生語の関係など)」など、客観的な判断資料を充実すべきだと考えています。



 最後に先生のこれからのご研究への期待を申し上げます。かってエスペラントが一部知識人の中で世界語として流行した時期がありました。先生のご研究が深まり、いろいろ述べられている仮説が定説になる時が来れば、日本語の将来を更に乗り越え、新たな世界語いや人類語につながる成果が拝観できるのではと期待がふくらみました。そうなればこのぎくしゃくした世界がもっと融和にみちた新しい世界に変化するのではないかとも考えました。(以下省略)

*このあと、日本語が人類語の一員として、どのような役割をはたすことができるか、なかなか予測がつきません。しかし、これまで日漢英の3言語の音韻比較作業をすすめてきた中でも、純粋なヤマトコトバと考えられてきた語音の中に、漢語や英語の語音とみごとな対応関係をしめす事例が多数見つかったことも事実です。このさき、さらにおおぜいの研究者たちが、またさらにおおくの民族言語との比較研究をすすめるようになれば、それだけ日本語(ヤマトコトバ)の実態(人類語の中での位置や役割など)も次第に明らかになることでしょう。
 「あの国(民族)は人類の敵だ」ときめつけると、あとは戦争へとつっぱしることになります。「人殺し競争」というバカなマネだけは止めましょう。「盗人にも三分の理」というコトワザもあります。まずは先入観念をすて、おたがいナットクゆくまで話しあうことが必要です。よくよく念をおさないと、あとで「あの時は、力で押しきられた」、「協定の見直しを要求する」などといわれることになりかねません。