2017年9月16日土曜日

本の評判など


  鶏頭とニラの花 9/11


 うたの時間 9/11 


富山大橋通郵便局 9/11 


おたより(一部) 



鶏頭とニラ 9/11

 911日(月)。デイ・ケアの日9時半、迎えのクルマで、200㍍ほどはなれた施設まで移動する。ここで入浴をすませ、やがて昼食。午後、かるい体操などをした後、オヤツをいただく。そして3時すぎ、クルマでホームへむかう。毎回こんな日程になっています。

 入浴とかるい体操だけでまる1日かかるということになると、なんとかしてもうすこし効率的なスケジュールが組めないものかという疑問もないわけではありません。ここで、「モノの見方、考え方」という問題が出てきます。

 ホームでは、住人の安全ともにプライバシー保護にも重点がおかれ、ややもすると孤独な生活になる恐れがあります。そこで、デイ・ケアでは、集団行動に重点をおき、社交性・社会性を回復・温存し、孤独化をさけるために、このようなシステムを採用したと解釈することもできます。介護施設としての浴場の設備や職員の配置などを考えれば、やはり現行のような方式になるのかもしれません。

 たとえば、部屋には五つのテ-ブルがおかれ、それぞれ4人の席が指定されています。座席指定は随時変更されることになっていますが、こうして毎回(2回)おなじテーブルで顔をつきあわせていると、ひとりでに親しみがわき、コトバをかわすようになります。

 また、窓ガラスや壁にイロガミでおった花やヒモがかざられていますが、これもみんなの共同作業によるものなので、仲間意識をはぐくむもとになっているようです。

 そして、この日も、テーブルの上の花瓶に鶏頭とニラの花がかざられていました(写真)。この花は、毎回仲間のuszさんが自宅の花壇からつみとってこられるのだそうです。



うたの時間 9/11

 通所者の中に9月生まれの方が三人おられ、出席者全員でHappy birthdayを歌ってお祝いしました。また、この誕生祝いの会にあわせて、「歌のお姉さん(?)」がこられ、虫の声」、「故郷の空」、「こきりこ節」、「夕やけこやけ」などの歌を、みんなでいっしょに歌いました。

 いつもだと、体操の一環として、スタッフの号令にしたがって「イチ・ニ・サン・シ・・・ハイ」で歌いはじめ、1曲終わると、一服する間もなく、号令一下、すぐにつぎの曲を歌いはじめることになります。それぞれの歌がもっている情緒をあじわっているヒマがありません。

そもそも、人の心をウツ[]ものウタ[歌・唄・唱]なんですから、まずは自分が歌の文句に心を打たれ、その流れでこんどは自分からまわりの人の心に打ちかかる(歌いかける)のがスヂだと思います。そして、自分と相手との心の交流を感じとることができれば、それこそが歌うことの楽しみであり、醍醐味だろうと考えるのですが、いかがでしょうか。



富山大橋通郵便局 9/11

 佐藤正樹さんからの紹介で、横澤康夫さんからやや専門的な書評がとどきました(くわしくは後述)。そのお礼のてがみに補足資料を同封して郵送するため、郵便局までいってきました。ホームから100㍍そこそこの近所ですが、帽子をかぶり、郵便物はカバンに入れて肩にかけ、2本のストックを使っての外出となりました。郵送料は380円だとわかりました。

 この郵便局のナマエが「富山大橋通郵便局」。「丸の内」というナマエは使われていません。なるほど、この道はすぐに「富山大橋」に通じるトオリ[]なんですね。

 丸の内のホームへ転居してから、ほぼ4カ月になりますが、自分の足で近所を散歩したことがほとんどありません。郵便局の手前に諏訪神社があり、には睡蓮(?)やガマの穂、さらにはカメの子が日向ぼっこしている姿も見えるのですが、ここは「防火用水池」として管理されてるとのことで、なんとも「フゼイがない」、「味もそっけもない」感じです。この日も素通りしてしまいました。

 それだったら、松川でも散歩したらということになりますが、連日のあつさで、まだいっぺんも松川まで足をのばしたことがありません。つまり、いまのところ、わたしの散歩道は、ホームからこの郵便局までということになります。



おたより、資料など

『コトダマの世界Ⅱ』について、電話・メール・はがき・てがみなどで、たくさんの声をよせていただきました。これまでのところ、はがき計25てがみ計17などとなっています。そのうちはがき数枚をえらんで、写真でご紹介しました。

そのほか、おりかえしご自分の作品を送ってくださった方もおられます。すでにブログでご紹介した小澤俊夫さんや佐藤正樹さんの作品がその例ですが、ご紹介したい作品はほかにもあります。



図書館などへの寄贈について

先日、富山県立図書館から『コトダマの世界Ⅱ』寄贈にたいする礼状(731日付はがき)がとどきました。公立図書館などへの寄贈は別ワクを予定していましたので、わたしは県立図書館へ発送した心当たりがなく、ハテナと思っていました。

912日(火)、仙石正三さんが「めぐみ」へ来訪され、ことの真相が分かりました。「悠学会」の席で贈呈された本を、仙石さんが県立図書館へ持って行って見せたところ、その場ですぐ寄贈資料としてとりあげられたということでした。これで、ナゾがとけました。わたしから仙石さんへ、あらためて1部贈呈して、一件落着。仙石さんには、ほんとにお世話になりました。

ここでもういちど、公立図書館などへの寄贈についてお伝えしておきたいと思います。もともと県下の公立図書館を中心に、100部ほどの別ワクで寄贈する予定でいました。ただ、富山市立図書館などでは、あらかじめ審査委員会で審査し、合格したものだけ受けつけるという話も聞きました。それくらいなら、ぎゃくに、寄贈してほしいといわれる図書館などへ優先的に寄贈するほうが、ムダな手数がはぶけて、よさそうだと考えています。

図書館でも、あるいは小中高の学校教育現場などでもかまいません。当事者でも、あるいはそのまわりの方でもけっこうです。あの図書館、あの学校へ寄贈してほしいとお考えでしたら、どうぞごえんりょなくお申しいでください。一人でもおおくの人にこの本を読んでいただくこと、そして「読んで、役に立った」と感じていただけること、それが著者としての願いです。

 なお、わたしはクルマも運転できませんし、こちらから本をおとどけする足がありません。恐縮ですが、丸の内のホーム「めぐみ」までおいでくださるようお願いします。

 また、個人で購入されたい方には、(店頭販売では消費税込み2700円となりますが)、12000円でおわたしします。郵送の場合は、送料(1300円)をご負担ください。





横澤さんからの書評

 さきに佐藤正樹さんあてにこんどの本をおお送りしたところ、「自分は専攻がちがうから」と、わざわざ中国語専攻の横澤康夫さんへ転送して、「書評」を依頼してくださいました。96日、その「書評」がとどきましたので、以下ご紹介させていただきます。なお、「書評」の中に、イズミへの質問なども含まれていますので、各項*印以下にイズミの文面を記述させていただきます。



泉興長様

初めまして、熊本市在住の横澤康夫と申します。

先日、先生旧知の佐藤正樹氏より、先生の御高著『コトダマの世界Ⅱ』が送られてきまして、書評を書いて先生に届けて欲しいとの依頼がありました。佐藤氏と私は大学時代一緒に山に登っていた仲で、私が中国語を学んでいたものですから、何か気の利いたモノが書けるのではないかと期待して依頼を寄せたものと思います。

 しかし、御著書を一読、大変興味深い内容でしたが、私は音韻論など先生の研究対象とされている方面については全く門外漢であることを思い知らされました。先生のお役に立つような話はとてもできません。ただ、いくつか感想を書き連ねて責を果たす?ことに致します。

*「音韻論など…全く門外漢」とおっしゃいますが、著者自身、もともと「まったくの門外漢」だったものが、かってに「象形言語説」(仮説)をたてただけのこと。学会・学界で公認されたものはなに一つありません。横澤さんのこの「書評」が中国語専門家からの書評第1です。貴重な資料として、拝読させていただきます。



先ず、先生と私の間に若干のすれ違いのご縁があると感じたことが2点。私は1961年の東京外語中国語の卒業で先生の遥か後輩に当たります。次に御著書の中に199810月に熊本大学で開催された中国語学会の年次大会で発表されたとの記述がありますが、当時私は当番校・熊本学園大学の外国語学部長をしておりました。ただ学会当日は種々の雑務に追われていまして先生のご発表を聞くことはありませんでした。いささか残念です。

以上は御著書の内容とは関係のない話です。

*熊本学園大学では、たしか「日漢英のk-r音比較資料」について報告させていただきました。こんどの本では、4章「クルマ=サイクルのカラクリ」にあたります。横澤さんとのご縁は「袖すれ合うも、多生の縁」といったところでしょうか。



さて私が先生の御著書を読んでいて、最も強い印象を受けたのは、日・漢・英を含め、各民族語は人類語の一方言に過ぎないというご指摘です。そのことは、御著書の中で音韻面などから詳述されているところです。そのことについて、私は当否を述べる知識も資格もありませんが、感覚的には納得できる話でした。それでふと思いついたのは、旧約聖書の創世記に記されている「バベルの塔」の物語です。人類共通の言語がここでばらばらにされたということですが、旧約聖書の言う通りなら、人類は過去に共通の言語を持っていたことになります。。

 先生のご研究はそれを復元する作業にもなるのではないかとも思いました。いかがでしょうか。

*いまの段階で「日・漢・英を含め、各民族語は人類語の一方言に過ぎない」というのは、あくまでも「推定」にとどまり、「断定」はできません。「断定」するまえに、やるべき作業手続きがのこっているからです。人類語の中で、インド・ヨーロッパ語については、インドをふくめて各地の民族語について、相互の位置関係などが分かってきています。しかし、日本語や漢語とまわりの民族語との関係はとなると、言語比較の方法さえ準備できていません。この地域の住民は、数千年にわたって、漢字という表意モジの便利さにおぼれ、「モジはコトバをしるす道具にすぎないこと」、「コトバは、もともと音声信号であること」をわすれてしまいました。

 どうすればよいか?インド・ヨーロッパ語の研究者がやったように、日本語や漢語の戸籍調べ(単語家族の研究)をすすめ、適確な比較資料(単語や単語家族)をそろえたうえで、比較してみることです。共通の土俵で、共通のルールで比較することによって、合理的・客観的で説得力のある結果や結論がえられるわけです。

 インド・ヨーロッパ語の実態が明らかにされたのは、200年ほどまえとされています。いいかえれば、日本語と外国語との音韻比較研究は、世界水準にくらべて200年ほどおくれていることになります。しかし、音韻比較研究の方法についてはちゃんと前例があるのですから、やる気になりさえすれば、5年か10年のあいだにかなりの成果があがることも期待できます。

 旧約聖書の「バベルの塔」などについては、わたしはキリスト教徒ではなく、十分理解できていませんので、発言する資格がありません。



 次に三巴紋の話も興味深く読みました。御著書では世界各地に見られる三巴紋の例が挙げられており、それにはそれぞれの社会の生命観、世界観、宇宙観、理想社会へのイノリがこめられていたとのご見解です。三巴紋は日本の庶民生活の中にもでんでん太鼓の模様や家紋などにもよく見られるようです。また韓国の太極旗の模様は二巴紋です。こうした事象についてこれからも先生の「ボチボチの歩み」の中でいずれご説明があるものと期待します。

 *三巴紋にのめりこんだころのことを思うと、「若かったな」と感慨シキリです。その後、日本語の単語家族研究に集中してしまいましたので、巴紋の実態把握はアトマワシになってしまいました。いまの「ボチボチの歩み」では、「見果てぬユメ」に終わりそうですが、どなたか若い方々に、ぜひ正面からチャレンジしてほしいテーマです。



 韓国の話を出したついでですが、先生のご研究では日・漢・英にしぼっておられますが、日中の間にある韓国語・朝鮮語については今後研究の対象にはならないのでしょうか。研究対象外ということであれば、それにはなにか理由がおありでしょうか。関係のない話かも知れませんが、韓国ではごく一部を除き漢字を排除し、ハングル中心の表記が使われています。北朝鮮では全く漢字を使用していません。同じ漢字圏でもベトナムでは中國語源の言葉をベトナム固有の言葉に置き換える政策がとられていると理解しています。一方中国では毛沢東の指導で、一時漢字を廃止し、ローマ字表記のみにする試みも行われましたが失敗に終わっています。漢字という特異なモジを使用する日本語の世界戦略と関連してですが、私は各国語の将来は時の政治、政権、あるいはあるいはナショナリズムなどにより決定づけられる運命が強いという思いを持っていました。先生のご研究とはあまり関係のない話とは思いましたが、感想を言わせていただきました。

*「象形言語説」の立場からいっても、漢語・英語にかぎらず、アイヌ語・琉球語・韓国語(朝鮮語)・モンゴル語などとの音韻比較を進めることが必要です。わたしがこれまで日漢英の3言語にしぼって音韻比較を進めてきたのは、わたしの語学力ではこれで精いっぱいだったからです。この種の研究では、個人の能力には限界がありますから、できるだけおおくの研究者が協力し、責任分担をきめて作業をすすめるのが効率的です。

 韓国・北朝鮮・中国などのモジ改革の流れも、重要な研究テ-マの一つです。この面で見ても、いまの日本文科省のモジ政策は、世界のながれから数十年もの時代おくれだといわなければなりません。

 なお、中国のモジ改革についていえば、1958年に中国語表音表記(中国式ローマ字つづり)を制定、小学校でまっさきにこのローマ字つづりを習得し、これをたよりに漢字の発音を習得できるようにしました。その結果、いまでは中国全土、どこでも共通語(北京語)が通用するようになっています。



 さて、五十音図、六十四音図の話です。まず五十音図をローマ字表記にして考えることは、日本語の理解を促進する上で効果が大であることは先生のおっしゃる通りです。私が家庭教師をしていた時の経験ですが、国語のできがあまりよくまかった中学生にローマ字表記で五十音図を教えたところ、国語の成績がなぜかみるみる上がったということがありました。現物は見ておりませんが、六十四音図を使えばチャンポン語の日本語がいっそう理解しやすくなり、言われているように日本語が外国人にとってもさして難しい言語ではなくなるのではないかとうことがおぼろげに理解できました。ただ、ちゃんぽん語で同音異義の多い日本語がどこまで理解しやすいものになれるのか、いささか疑問にも思えました。

*おなじく日本語といっても、いわゆるヤマトコトバが主流で、漢語その他の外来語がすくなかった時代には、日本語の音韻組織を理解するのに、「五十音図」が大変役に立ちました。しかし、現代日本語では、漢語やカタカナ語などがおおすぎて、「五十音図」では説明しきれない、つまり役に立たないようになりました。ナゼか?「五十音図」はふつうカナ(カタカナ・ひらがな)で表記されます。カナは表音モジではありますが、音節モジであって、音素モジではありません。ヤマトコトバと外来語ではもともと音韻感覚がちがうので、やはりいちど音素段階まで分解したうえで、あらためてコトバの音形や意味を再構成するような方法が、そのコトバの実態をとらえることにつながると思います。

 『64音図』というのは、「五十音図」の21世紀版をめざし、また(日本人の)漢語(中国語)・英語の習得(入門期)にも利用できるようにと考えた試案です。もちろん,なんの権威も、実績もありません。ただ、これをきっかけに、おおくの音図(試案)が提案され、議論されることを期待しています。

 いまの日本語がかかえている問題の中でも、漢語による同音異義のコトバがおおいことは深刻な問題です。ただし、たとえばコウエン[公園・公演・講演・好演・後援・高遠・口演・広遠・香煙]などは、現代漢語でもそれぞれちがった音形で発音されていますから、中国内では同音異義の問題は発生しません。それを日本語にとりいれたとき、ヤマトコトバの音韻組織にあわせて(もとの音形のチガイを無視して)、ゴタマゼにして、コウエンという音形で呼ぶことにしたために、これほど大量の同音異義のコトバが発生したわけです。漢語自体に、なんの責任もありません。漢語を無制限にとりいれた日本人の責任であり、できるだけ早く解決すべき問題です。



 先生は日本語の現代化、国際化にとって、最も基本的な課題は、文書の横書き化が徹底されていないことだとのべられています。国語教科書を初め新聞、雑誌、文芸作品もいまだにタテガキだと慨嘆しておられます。。先生は日本語辞典についても同じことを考えておられると思います。確かに日本語辞典は縦書きのままですが、私の知る限りではただ一つ集英社の国語辞典には横組み版があります。助動詞、動詞の活用表だけはタテグミですが、ご参考になれば幸いです。

*「集英社の国語辞典には横組み版がある」ことを教えていただき、ありがとうございました。日本語辞典の現代化、国際化という点では横組みとすべきはもちろんですが、「時代別にみた音形の変化」や「単語家族研究資料(語根と派生語の関係など)」など、客観的な判断資料を充実すべきだと考えています。



 最後に先生のこれからのご研究への期待を申し上げます。かってエスペラントが一部知識人の中で世界語として流行した時期がありました。先生のご研究が深まり、いろいろ述べられている仮説が定説になる時が来れば、日本語の将来を更に乗り越え、新たな世界語いや人類語につながる成果が拝観できるのではと期待がふくらみました。そうなればこのぎくしゃくした世界がもっと融和にみちた新しい世界に変化するのではないかとも考えました。(以下省略)

*このあと、日本語が人類語の一員として、どのような役割をはたすことができるか、なかなか予測がつきません。しかし、これまで日漢英の3言語の音韻比較作業をすすめてきた中でも、純粋なヤマトコトバと考えられてきた語音の中に、漢語や英語の語音とみごとな対応関係をしめす事例が多数見つかったことも事実です。このさき、さらにおおぜいの研究者たちが、またさらにおおくの民族言語との比較研究をすすめるようになれば、それだけ日本語(ヤマトコトバ)の実態(人類語の中での位置や役割など)も次第に明らかになることでしょう。
 「あの国(民族)は人類の敵だ」ときめつけると、あとは戦争へとつっぱしることになります。「人殺し競争」というバカなマネだけは止めましょう。「盗人にも三分の理」というコトワザもあります。まずは先入観念をすて、おたがいナットクゆくまで話しあうことが必要です。よくよく念をおさないと、あとで「あの時は、力で押しきられた」、「協定の見直しを要求する」などといわれることになりかねません。





本の評判など



2017年9月10日日曜日

「佐藤正樹作品集」と「三輪山伝説」


佐藤正樹作品集」


『古事記』を読む会  9/3 


花かご 9/3 




「佐藤正樹作品集」をいただく

 こちらから『コトダマの世界Ⅱ』を送った見かえりに、佐藤正樹さんから「詩と紀行の作品集」が送られてきました。表紙のタイトルはすこし変わっていて、「こんにちは」、「小学校のある台地」、「春山日記・長靴の山」3行並べて表記されていました。

 佐藤さんは学生時代からの登山愛好者で、こんどいただいた本も、詩と紀行の雑誌2017年版といったところです。わたしは登山も詩作も門外漢ですが、佐藤さんが作詞されるときの視点に興味をひかれ、これまでもかってにブログで紹介したりしてきました。今回も、以下にすこし引用させていただきます。



こんにちは



公園

重そうに上半身を運ぶ人 ボールのように弾ませる人



TV前の人

 新聞を見ながらパンを噛んでいる 小動物のように



誕生日

 へえーいつの間にかこんな齢 といまだ幼いとしよりびと



保育園

 傍を通る オルガンの響きと子供の声の大きな入れ物



会話

 夕日に人と犬の後ろ姿 リードは見えないが人と犬の会話が見える



小学校帰り

 揃ったり離れたり自由に筆先のように歩いている



トイレ起き

 また闇夜に突き刺さって眠る 楽な向きを探し





小学校のある台地



空の色

 青い空白い雲ポプラの高木

 高原はミドリの波を抜ける電車

 盆地に下ると空はしらける

 山は遠のきかすんではるか



看板と着物姿

涼しげな顔と着物のポスター

―ポスターの足が少し動いた

日傘の女性が下半身にいた



足もとへ

ときどき躓き 引きずる

考えを変えてみた

20キロほどを背負って山道を移動する

すなわち走れない跳べない

すると妙に落ちついて歩いている



足の先から

山道歩きが裏町歩きになった

舗装わき 草の秋や吸い殻ごみを見て歩く



杖を

よその人への言葉にする

  ブレルカモシレナイ

倒レルカモシレナイ

こちらも車には立ち止まってよける

人さまには離れて通る



地面の上で

軽快な太い足

裸か足が大股

自由に子供足

どの足も苦も無く動いている

感心している杖の足



五尺のぼっか

急げない走れない

追い越される 自分になる

歩いている 自分の足で

下ろせない自分を背負って



足取り

なんと柔らか なんときれい

手をつなぐ大人も子供も

両手に荷物を持つ人も

一軒いっけん何か配っている足も

  杖突き人の今日の発見



春山日記について

 1985年、大学山岳部の春山に参加させてもらった。

 鉛筆書きの当時の日記。10×7センチの手のひらに載る小さいノートが見つかった。我ながら判読しにくい。何日かかけてパソコンに書き移してみた。ちゃんとした記録はリーダーの向一陽さんから発表されており、(「CHAALET 4号」、「記録-若き日の山」その他)、自分だけの私的な日記だ。食べ物飲物のメモが多いのには笑ってしまう。泊った場所がはっきりしないところもある。当時は宿泊場所は書き留めるまでもなく、自分にとっては明確だったのだろう。

 縦走後半は参加のみなさんの会話記録が多くなる。面白くて書きとめた記憶がある。





『古事記』を読む会

93日(日)10時から茶屋町豊栄稲荷神社『古事記』を読む会研修会藤田富士夫さんが「三輪山の祭祀をめぐって」と題して講議されました。藤田さんは、『古事記』(崇神)の「三輪山伝説」に対応する資料として、『日本書紀』の「箸墓伝説」を提示、また三輪山にかんする考古学上の基本的な資料(三輪山遠望写真、箸塚古墳などの形態図、この地域の大型古墳分布図、遺跡出土品、など)を提示・解説されました。

 いずれにしても、三輪山はもともと山全体がご神体であり、基本的に禁足地。絶対的な権威・威光をもつ山とされてきたようです。それでは、その権威・威光と呼ばれるものは、いったいいつ・どこで・なにが・どうなって生まれたのでしょうか?この日の研修会のおかげで、すこしだけ分かりかけた感じもしますが、まだまだすっきりしないところもあります。そのあと、わたしなりの流儀で、歴史学・考古学から見た事実と、ミワヤマという語音構造との対応関係について考えてみることにしました。

まずはミワヤマという語音を音節段階ミ・ワ・ヤ・マまで分解し、それぞれの音節が表わす基本義をたしかめたうえで、あらためてミワ・ヤマという2音節語の意味構造を考えるという方法です。この場合、[多音節語の意味]=[(構成要素としての)各音節がもつ意味の総合]というのが基本原則です。



ミが表わす意味

上代日本語のミ音には甲乙の区別があり、ミ[水・神・三・見]などは甲類ミ[実・身]などは乙類とされています。音形として具体的にどれだけのチガイがあるのか、分かりにくいようですが、イズミは単純に解釈しています。ウミダス姿が甲で、。ウマレル(ウミダサレル)姿が乙です。動詞ム[産]の連用形兼名詞形がミ(甲)と考えてもよいでしょう。

ミ[水]は、「どんなせまい」スキマでも、シミワタリ、ミタス[]存在。

ミ[神]は、万物をウミ[生・産]ダス根源的な存在。また、ウミだしたもののどこかにスミつき、カミつき、カブリつき、その運命を支配する存在。

ミ[三]は、はじめにヒトツの線があり、それにフタをする姿でフタ[]をする姿から、やがて数詞フタ[二]が生まれ、さらにその上下二線のスキマにミツ[]・ミタス[]姿から、数詞ミツ[三](初期は漠然多数の意)が生まれたと考えられます。

[]は、動詞ミル[見]の連用形兼名詞形で、まわりのスミズミまで視線をめぐらせ、エモノをミトメル・ミツケダス姿。野生の動物・植物・果実・鉱物などをミツケルことは、そのまま財貨をウム[生・産]ことにつながります。


ワが表わす意味

発声するとき、口の形はかならず[]の姿になります。したがって、ワという語音をきいただけで、ワ[]の姿を連想することができます。一種の擬態語と考えると、分かりやすいでしょう。

ワという語音は、母音ウからアに移行するときに生まれるものであり、ワ行音はヤ行音とならんで、一種の拗音と考えることもできます。ア行音にくらべて、やや複雑な構造をもつ語音ということで、それだけ複雑で独特の意味を表わすことになります。

発声するとき、クチ・クチビルがみごとな[]の姿になります。このワ[]は、イキ・コエ・コトバがワキデルところです。たとえばワク[湧]は、ワク[分](まわりをオシワケテ浮かび出る)姿であり、ワカ[]・ワケ[分・別・訳]と同系です。本体からワカレタものは、それだけワカイというワケです。また、ワラ[]・ワリ[]・ワル[]・ワレ[]なども、ワ[輪](ワレて中がカラッポ)の姿を表わしています。



ミワが表わす意味

 ミワは「ミ+ワ」の構造。ミワが表わす意味は、「ミ音が表わす意味とワ音が表わす意味の総合」。そこで、結論はこうなります。

 ミワは、「ミのワ」。おなじくワといっても、「ワレて、中がカラッポ」のワ[輪]ではなく、ワ(=ワク)の中にたくさんのミ[実・身](動植物・鉱物資源)がミチていることをミ[見]とどけ、やがてその資源をウミ[生・産]ダス作業をふくめてミワとよんだものと考えるべきでしょう。

ミワヤマの姿をワ[輪]の姿と見たのは、さまざまな意味をこめてのことかと思われます。三輪山は、平地からながめて見てもワ[輪]の姿に見えないことはありませんが、それよりも、山の頂上から、もしくはさらに上空からながめたほうが「輪を積みかさねた姿」として実感できるだろうと思います(たとえば、等高線で描いた地図など)。ちょうどハニワ[埴輪]をつくるときのように、土で作った輪をいくつも積みかさねた結果として、三輪山ができあがったという感覚です。

 なお、ついでにヤマ[山]の語音構造についても分析すべきところかと思いますが、ヤ・ヤマ・ヤマトなどについては、『コトダマの世界Ⅱ』の最終章「ヤ[矢・屋・谷・哉]の系譜」の中でかなり突っこんだ議論をしたあとなので、ここでは省略させていただきます。



花かごをいただく
 このまえ日本海文化悠学会(7/28)のときと同様、『古事記』を読む会でも、研修会のあと、出席のみなさまへ『コトダマの世界Ⅱ』を1部づつ贈呈させていただきました。そして、そのお返しとして、みごとな花かご(写真)をいただきました。ありがたくちょうだいして、ホームまで持ちかえりましたが、さてどこにかざろうかとマゴマゴしました。お花のナマエも、おぼえているのはユリとカーネーションくらいで、あとはサッパリ。お花さん、ゴメンアサイ。

2017年9月2日土曜日

コトバのタテマエと実態


富山新聞にも紹介記事 8/26


『ときを紡ぐ』(上) 





富山新聞にも照会記事

823日付の北日本新聞に『コトダマの世界Ⅱ』の紹介記事がのっていたことについては、前回ご報告しましたが、それから3日おくれの26日、こんどは富山新聞が、ほぼおなじ要領で、紹介記事を組んでいました。

 ほぼおなじといっても、くわしく見ると、やはりちがった点もあります。北日本新聞の記事を担当されたのは文化部のわかい女性の方で、記事全体として見ても、それだけ現代風の感覚に仕上がっているようです。それにくらべて、富山新聞の記事を書かれたのは、社会部の比較的年配の男性記者で、丸の内のホームまで来て、取材していただきました。特大の活字を使って「コトバ研究続け」、「97歳で集大成」、「『音が言語つくる自説、一冊に』」などの大見出しで読者にアピールするとともに、著者が中国語を学び、やがて日本語と中国語の音韻比較、さらに日漢英3言語の音韻比較をつづけ、象形言語説にたどりついた過程を、かなり正確に伝えています。たとえば、「北日」の記事では「満州の鉄道会社、華北交通へ入社」と表記されているのに対して、「富山」の記事では「南満州鉄道の流れをくむ国策会社『華北交通』へ入社」と表記されています。著者としては、より正確に報道していただく方がありがたいのですが、いまのわかい記者さんに「満州」と「華北」のちがいを認識するよう求めることがムリな時代になっているのかもしれません。

 ついでに写真のことでいえば、「富山版」では、『コトダマの・・・』の本のわきに、漢語と英語の辞典(『学研・漢和大字典』と『アメリカの遺産、英語辞典』)を積みかさねてあるところがミソです。どちらもわたしがもっとも信頼し、愛用しているものですが、ながい年月のあいだに、ついつい机から落下させてしまうことがあり、もともと頑丈にできている装丁をいためたままになっている現状をさらけだしてしまいました。



言語観のズレ

 こまかなことは別として、富山県全体をカバーする複数の新聞紙上でこれだけ報道されたということは、たいへんな光栄であり、ありがたいことです。ただし、これで一件落着と浮かれているわけにはまいりません。富山県という地域で、一つの問題をなげかけ、なんとか受けとってもらえそうなメ[目・芽]が出てきたという段階です。現実は、まだイズミの個人的な研究にすぎません。地域の国語学界・言語学界の承認も受けていません。

 先日、佐藤芙美さんが電話で言っておられました。「この本を見せると、おもしろそうだと言ってくれます。でも、買ってくださいとお願いすると、そのあとサッパリなんです」と。現実はそんなものかと思います。

 日本人は、国語や外国語について、それぞれ特定の言語観をもっています。おおくの場合、それは確信的なものであり、じぶんの言語観と日本語や外国語の実態とのあいだにズレがあるかどうかなど、考えてみたこともないようです。

「ひとりひとり、ちがった言語観をもっていても、問題ないじゃん」といわれるかもしれません。たしかに、そのとおりです。しかし、日本民族・日本国全体の問題として、もういちど考えてみてください。日本の文書の様式や表記法は、教科書から新聞・雑誌・単行本にいたるまで、ほぼ日本人(多数派)の言語観にしたがって決定されたと考えてよいでしょう。しかしわたしは、これまで日漢英3言語の音韻組織の比較作業をすすめてきた過程で、日本人の言語観と言語の実態とのあいだに、おおきなズレが起きていることに気づきました。そして、このズレがもとで、日本の文書の様式や表記法は、世界の水準にくらべて数十年もおくれたままになっていると考えています。

コトバの世界では、百年でも千年でもつづく伝統をだいじにします。だから、言語観が保守的なのは当然です。じぶんが毎日つかっているコトバの実態を見せつけられるとなれば、まるで自分自身がスッパダカにされるみたいで、危険な感じがする。とりあえずはエンリョしておこう。そんな心理状態かもしれません。

 ここで、もういちど考えてみましょう。おなじく日本語といっても、『古事記』や『万葉集』が書かれた時代にくらべて、たくさんの漢語やカタカナ語をふくも現代日本語の実態は、あきらかにおおきな変化を見せています。言語の実態が変化しているのに、言語観を修正しないというのは、マチガイだと思います。そして、危険なことだと、わたしは考えています。みなさまはどうお考えでしょうか?



『ときを紡ぐ(上)』を読む

 『コトダマの世界Ⅱ』出版にからんで、さまざまな方からお手紙や資料などをいただきました。その中から、まず『ときを紡ぐ(上)・・・昔話をもとめて』(小澤俊夫著。20175月、小澤昔話研究所刊)のことをご紹介させていただきます。「泉おきなが様、2017715,小澤俊夫」と署名入りで、佐藤芙美さんをとおしてちょうだいした本です。

小澤俊夫さんは征爾さんのお兄さんで、お父さんが小澤開策さん。つまり、わたしが東京外語の学生時代からいろいろお世話になった大恩人です。この本のなかに、北京市新開路の小澤公館や新民会東京事務所についての記述があり、自分自身の記憶と照らしあわせながら、くりかえし読んでいます。

 以下、マエガキや本文の一部を、直接引用して紹介します(各項、はじめの数字は、本文掲載のページ数。また、*印以下は引用者の所見)。



戦場での手柄話

<まえがき> 小学校5年生の1学期まで、中国の北京でそだちました・・・中学時代、3年生の八月15日までは、戦争の最中でした…北京時代には、日本兵たちから、戦場での手柄話をたくさん聞きました。手柄話の内容は、言い換えれば全部、中国の庶民への残虐行為でした。日本国内にいるときには優しい父であり、息子であった人たちが、中国では鬼畜のような日本兵だったことを知ってしまいました。このことはほとんど知られていないことなので、どうしても書き残しておきたいと思ったのです。*このあと、本文の中でも、より具体的に、手柄話の内容が紹介されています。




「征爾」、命名の由来
(17)父は板垣征四郎、石原莞爾を尊敬し、石原のつくった東亜連盟の中央委員をしていた。そのころ生まれた三男には、ふたりの名前をもらって征爾と名づけた。

五族協和は言葉だけになった

18)陸軍内では東条軍閥が覇権を握り、石原は退役し板垣は南方軍司令官に移された。五族協和の精神で創立された協和会も日本官僚の支配するところとなり、五族協和は言葉だけになり、じっさいには日本帝国による支配という姿がはっきり見えてきた。



新開路の小澤公館

1936年秋、奉天から北京へ移住・・・東単牌路の新開路35号)

32)新開路のわが家は大きな邸宅だった。小澤公館とよばれていた。両脇に狛犬のいる赤い門には金属の取手があり、来客はそれを叩いた。呼び鈴のようなものである。入ると見っ側に事務室、正面に小さい中庭があり、そのまん中には、応接間に通じる石の通路があった。左側にはボーイのいる部屋、その奥にボーイの家族棟、その奥に車庫。中央の応接間を抜けると広い中庭。その正面に大きな居間。居間の左側に畳の寝室。中庭の左のファンヅ[房子](いくつかの部屋からなる区画)は客人たちが泊まるいくつもの部屋、右側は食堂とお手伝いさんの部屋。食堂と中央の居間の間に台所や風呂場。この房子の配置は当時、北京の裕福な家の典型的な形である。*イズミが華北交通に入社後、セビロ姿で小澤公館の中庭で写した写真があり、ブログ「七ころび、八おき」でも紹介しました(2011125日号)。



戦争のタテマエと現実

42)(日本兵がヤンチョ代を踏み倒した話から)、今にして思うと、このギャップが。敗戦後になっても、日本人全体の、あの戦争にに対する認識の誤りとして、いつまでも尾を引くことになったのである。つまり、日本の建前としては、日本が大東亜共栄圏の盟主として、アジアの国々を欧米の支配から解放してやることが戦争の目的だった。しかし実際には、アジア人に対して鬼畜のような振る舞いをしていたのである。中国、韓国をはじめアジアの人たちは、今もってあの悪鬼のような日本人を責めているのである。ところが、日本国内では、建前としての戦争しか知らない。しかも、戦争で心ならずも命を失った日本軍人ばかりを、神として崇拝している。そればかりか、あの戦争を指導した軍や政治の指導者たちをも神として祀って、そこに首相が参拝しているのである。アジアの人たちがおこるのは当然と言わざるを得ない。



傷痍軍人たちの手柄話

43)母は国防婦人会の活動としても、陸軍病院へたびたび慰問に行った。僕らもよくついていった。重賞出ない傷痍軍人たちは退屈しきっているので、ぼくらをつかまえては戦場の話をしてくれた。勝者として得意になって話すのだが、すべてなまなましい、血なまぐさい話だった。

軍隊が進軍していって、村に近づき、畑でおばあさんが働いていると、必ず射殺した。なぜなら、日本軍が近づいてきたことを中国軍に知らせるからだ。スパイをするからだと、当然のようにいっていた。村に入ると、にわとりや豚を食料として調達した。軍票(軍隊が発行するお金)で買うこともあったが、ほとんどの場合は奪ったということだった。それらのことを、日本の傷痍軍人たちが、ぼくら子どもに得意になって話していた。

南京攻略に参戦した兵隊がいて、てこずったときには、毒ガスを使ったと、これも得意になって話してくれた。ぼくらも、こわいと思いながら好奇心に駆られて聞き入ったものだ。



日本官僚を批判

50)アジア諸民族の協和という理想を掲げて、満洲国が建設されたが、それは瞬く間に日本から来た官僚たちによって支配され始めた。その中でも最も悪質だったのが岸伸介だったと、父はくり返しいっていた。「あいつは私利私欲のかたまりだ」



「満州国」から「華北」へ

51)満州国が日本官僚によって、いわば占拠されてしまったとき、かって石原莞爾の指導のもと東亜連盟に結集した人たちは、要職からはずされ、満州で理想を追求することは不可能になった。そこで、次には中国において民族協和の実践をしなければならないと考えた。父は東亜連盟の人たち、おそらく、石原に次ぐ指導者だった山口重次の指示によって、中国へ赴き、まずその足場を作ることになったのである。*大日本帝国敗戦のあと、日本人はどこまで国家観・世界観を修正・再生できたでしょうか?昔のままでは、また失敗をくりかえすだけ。自信喪失では、自滅するだけ。「満州国」で失敗したら、「華北」で 理想実現をめざす。「七ころび、八おき」、したたかな生命力をもちつづけたいものです。



『華北評論』で、日本軍部を批判

531940年。ヒトラーが政権をとってから7年。ユダヤ人迫害を強め、ポーランドなどへの侵攻を始めていた危険な年だった・・・父は、その2年前ごろから、『華北評論』という政治評論雑誌を発行していた。父は、当時、政治に関わる人間のふつうの道として、天皇を崇拝し、お国のために働くことを国民の義務として疑わなかった。だからこそ、日本の軍部が中国人を搾取し、横暴を極めることが許せなかった。それで、この『華北評論』で、日本軍部批判の論陣を張ったのだった。・・・雑誌は、創刊号から軍部の厳しい検閲を受けた。そして、発酵された雑誌のあちこちが、墨塗りを命じられた。僕は、山と積まれた新刊の雑誌を、編集員たちの手伝いをして、墨塗りしたことをおぼえている。*最近北朝鮮の動きが過激で不可解などといわれていますが、日本でも東条内閣時代の動きとくらべてみると、よくにていることがわかってくるように思います。



「日本はこの戦争に勝てない」

58)日本中が皇紀二千六百年に沸いていたころから、父は「日本はこの戦争に勝てない」といいだした。その根拠は、第一に日本が中国民衆を敵にまわしてしまったからだという。各地に散らばって中国人との最前線で働いてきた日本の若者たちの報告を聞いたり、中国農民の直訴を聞いたりして、父には、日本が中国の民衆を敵にまわしてしまったことがわかっていたのだろう。第二は、そういう状況にいたってもなお、日本の軍人や官僚は事態の深刻さに気づかないばかりか、ますますその横暴、官僚主義が募っていく状況が変わらなかったからであろう。*イズミは1941年、華北交通へ入社、大同駅貨物助役のころ、本社企画の論文募集に応募。その中で、「大陸鉄道建設には、現地従業員の全面的な協力が必用。それには、日本人中心の人事制度をあらため、現地人の給与を改善するなどの配慮が絶対条件」と強調しました。そして、論文の最期をつぎのような文句で締めくくりました。

「これしきの深謀なくしては、大陸鉄道建設のゆめはかなわず、これしきの遠慮なくしては、日本国かならず滅びん」



林房雄と小林秀雄が居候

61)父が北京で独り暮らしをしているとき、小説家の林房雄と評論家の小林秀雄が、約2週間、うちに居候していたことがあるそうだ。・・・従軍記者として派遣されて・・・3人の世話をしたのはぼくの従兄、高橋司典で、彼はぼくらが北京にいたころから父の書生のような立場ですみこんでいた。*高橋司典さんと佐門さんという名前だけは記憶にのこっていましたが、この本を読んで、やっと小澤家とのつながりが見えてきました。



東条英機が内閣総理大臣に

66)(1941年)国民の間に天皇の絶対性がゆるぎなくなり、戦争への気概が高まったとき、文民内閣が倒れ、東条英機陸軍大将が内閣総理大臣になった。この発表があった日、母方の従兄、高橋佐門がうちに来ていた。彼はぼくより10歳年長で、父と時局についてよく話をしていたが、この日は、軍人内閣の危険性を、たまたま帰国していた父と話していたのをおぼえている。*この記述から見て、イズミが中国旅行を計画し、新民会東京事務所を訪ねたとき対応されたのは、高橋佐門さんだったかと思われます


2017年8月26日土曜日

お盆のあとさき



『コトダマの世界Ⅱ』の表紙


お墓まいり 8/13  


カーテンのカゲ模様8/17 


泉家と藤木家 8/18  


出版祝いの生花  8/20 


北日本新聞の紹介記事 8/23 



『コトダマの世界Ⅱ』の表紙 

『コトダマの世界Ⅱ』は、これまでお世話になった人など、100人あまりの方々に贈呈させていただきました。そして、さまざまな感想なども聞かせていただきました。本の内容のことはあとまわしにして、「本の表紙や装丁がすばらしい」というのが,みなさま共通の感想だったようです。

 この本の内容についてということになれば、もともとイズミがかってに立てた「象形言語説」をもとに展開された議論ですから、「そんな未公認の仮説につきあっているヒマはない」、「じっくり読んでみて、そのあとで賛否の判断をする」といわれるのが普通でしょう。それが、表紙や装丁を見ただけで「すばらしい」と感じ,ついでにモクジをながめて「オモシロそうだ」と思っていただけるとしたら、たいへんありがたいことです。

 この本の表紙や装丁を洋画家佐藤芙美さんにお願いすることになったいきさつについては、これまでブログでもご紹介してきましたが、肝心の表紙については、まともにご紹介していませんでした。ここであらためてご紹介させていただきます。

 原画のタイトルは「渡来」とうかがいました。チューリップを思わせる花が描かれ、その上の方に2羽の鳥が描かれています。1羽は、羽をひろげて空をトビカケル姿。1羽は、羽をおさめて二本足で着地する姿。それは、コトバ=コトダマの姿でもあると、わたしは考えています。コトバ=コト[]のハ[]=カタリ[]のワン カット=コエ[]・イキ[]のカタマリ(=タマ)。コトバ(コトダマ)は、人の口からトビたち、宇宙空間をトビこえ、まわりにいる人の耳をとおして、そのタマシイ[]にトビかかるハタラキをします。つまり、コトダマは鉄砲ダマとおなじ「トビ道具」だといえます。
 鳥は、宇宙空間をトビかけるだけでなく、声を出して、人に呼びかけます。九官鳥のように物語をカタル鳥もいます。太陽を「アカイ[]」、「不死鳥」と考えたり、アスカ[明日香][飛鳥]と解釈する人もいます。たとえば、この本の表紙を連想しながら、第19章(2.4)「トブヤトリ、アスカの寺」の項をお読みいただければ、日本語の人名・地名などのフシギなおもしろさに気づき、日本語(ヤマトコトバ)を人類のコトバの1例として解釈しなおしてみようという気持ちになっていただけるかもしれません。



お墓まいり 8/13  

信子が亡くなったのが427日。立山町のお墓に納骨したのが614日。「本誓院釈尼香信」として永代祠堂開闢法要に参列させていただいたのが730日。そして8月、初のお盆をむかえることになりました。

お盆の時期には、関東・関西方面から親類の来訪も予想されるので、わたし自身の墓まいりは、すこし早めの13日に済ませることにしました。この日、天候にもめぐまれ。早朝立山町沢端のお墓におまいりし、できたての本をかざって、信子にお礼のコトバをかけました。

無事墓まいりを済ませてホームへ帰ったたあと、11時には長念寺住職志田常無さんをお迎えして、お経をあげていただきました。このさき27には、月命日としてお寺さんに来ていただく予定です。

こんなふうに書いくると、まるでわたし自身にそれだけの行動力があるかのように見えるかもしれません。しかし、ほんとうの話、いまのわたしにそれだけのカイショウ(判断力・行動力)はありません。すべて、藤木夫妻の協力があってのこと。わたしは、なるべくカッコヨク見えるように演戯させてもらっているだけということかもしれません。いつ正体がバレルか?いや、正体はもうバレバレだが、本人は余命イクバクもないのだから、もうしばらくユメを見させておけば、といったところかも…



カーテンのカゲ模様 8/17  

817日(木)。デイ・ケアの日。いつものとおり、窓ぎわのテーブルに女性3人と同席でした。座席は毎回指定されることになっていますが、参加者計20人ほどのうち、男性は4人だけなので、毎回ほぼこんな組みあわせになるようです。

この日は、朝から快晴。つよい日ざしを避けるため、カーテンをひいていました。窓ガラスに、イロガミでこしらえた花とリボンがはりつけてあるので、それがカーテンにうつり、おもしろいカゲ模様をつくっていました。さっそくスマホのシャッターを切りました。30分ほどの間に3回。あとで見ると、3回ともカゲ模様の表情に、びみょうな変化が見られました。午後になると、日ざしがよわまって、カゲ模様が消え、やがてカーテンがあけはなされました。



本家の泉夫妻が来訪

デイ・ケアから帰ったあと、しばらくして泉進さん、公美さん夫妻(東京都在住)が来訪。実は、先日公美さんから電話があり、墓まいりのため、新幹線ではなく、自家用車で、進さんといっしょに富山へ来られるとのことでした。わたしの日程にあわせ、17日午後、わたしがデイ・ケアから帰った時間帯に、ホームへ来訪、いっしょに夕食という予定。
はじめのお話では、まず丸の内のホームまで直行、わたしをのせていっしょに墓まいりという案もあったのですが、わたしのホームでの日常スケジュールをなるべく変更しないですむようにと、単純化していただきました。
この日、立山町で墓まいりをすませたあと、富山市へむかうあたりでラッシュにまきこまれたそうですが、それでも5時まえに丸の内へ到着。イズミ家のお墓のことをふくめて、いろいろ相談。そのあと、富山駅まえCIC 15Fの松屋で夕食をごちそうになりました。
ここはたいへん見晴らしがよく、手前のビル街の屋根から新幹線の線路、神通川の流れへとつづき、さらにその向こうに呉羽丘陵など、ひと目で見わたすことができます。この景色をながめていると、たちまちタイム・スリップして、大伴家持になったような気分になりました。そしてこの時、呉羽丘陵のかなたに沈みかけていた夕日が、これまたミゴトでした。あわててスマホのシャッターを切りましたが、わずか数秒差で雲がくれしたあとでした。
 ごちそうになった日本食はかなりな分量でしたが、おふたりとゆっくりお話できたのはひさしぶり(実は、はじめてのこと)だったので、食欲にまかせてほぼ完食できました。自分でも感心したほどです。



お墓の書類のことなど 

8月18日(金)。お昼まえ、二人がもういちど来訪。開口一番、公美さんが口にされたのが「おじさん、おなかは大丈夫でしたか」というコトバでした。会食のとき、わたしの食べっぷりを見て、胃もたれになっていないか、心配しておられたようです。
きのうにつづいて、電話や手紙では話しにくい問題についても、つっこんで相談できました。公美さんは富山出身ではなく、福岡県出身。富山弁でいわゆる「タビ[旅]の人」にあたるわけですが、じっさいはどんなことでもザックバランに相談できる人がらだということが、よく分かりました。お墓のことについては、わたしが地元にいる分家として、本家にかわって資料(文書)を保管してきましたので、それをのちほど本家(進さん)へお送りすることにしました。

 

身内だけの祝賀会

8月20日(日)。美織さんからの情報として、この日、西田尚信・規子夫妻が来訪。夕食は藤木さんといっしょに会食の予定となっていました。西田夫妻は、それぞれ関東・関西を拠点にIT関係の仕事をしており、多忙な毎日のところ、たまたま休暇がとれたので富山へ来られたとのことでした。夕食会場は市内のトンカツ屋さん。出席者は、西田夫妻・藤木夫妻だけでなく、土地家・藤木家のお孫さんまで動員して、およそ20人ほど。ささやかながら身内だけの出版記念祝賀会を開いてくださったということでした。
この席で飾られたお祝いの生花(写真)をいただいて帰りましたが、ホームのせまい部屋では、飾ってながめるほどのスペースがありません。わたしにとっては、分にすぎた豪勢なプレゼントです。でも、リクツぬきで、うれしいですね。


稗田さんが来訪

 8月21日(月)。デイ・ケアから帰ったところへ、稗田さん来訪。信子の入院・葬式からわたしのホーム入居まで、こちらからなんの連絡もしなかったことについて、おわびしました。1時間あまりおしゃべりしましたが、またしても、わたしの独演会になってしまったようで、ゴメンナサイ。



北日本新聞の紹介記事 

823日(水)。北日本新聞に『コトダマの世界Ⅱ』刊行の紹介記事がのっていました。実は、8月はじめに新聞社へおうかがいして、いちおう 取材していただいてはいた のですが、その後しばらく音沙汰がなかったので、すこし気になっていました。
それが、紙面のトップに、これだけのスペースをとり、3言語の響き比較」、「言葉の由来、音で 解説」など、特大の活字でミダシをつけ、これだけ要領よく、カッコイイ 紹介記事にまとめていただけるとは、まったく予想外のことでした。
 記事の 最期の 部分で、この本の表紙や 装丁を担当していただいた洋画家の佐藤芙美さのことを紹介していただいたこともよかったと思います。これまでのところ、本の内容のことはあとまわしで、「表紙がスバラシイ」と、もっぱらの 評判でした から。
 藤木さんがこの日の新聞を7部持参されました。富山県内在住の方は、大部分北日本新聞を購読しておられるので、かさねてお送りする必要はありません。しかし、県外の方、とりわけ富山出身の方なら、富山地方のニュースをなつかしみながらでも、読んでいただけるかもしれません。そう考えて、さしあたり5人の方へ、23日付の新聞を丸ごとお送りすることにしました。
 824日(木)。デイ・ケアの場でも、スタッフの方から「おめでとう」といわれ、新聞記事のキリヌキにラミネート加工したものをオミヤゲにいただきました。恐縮しました。