2017年5月30日火曜日

老人ホームへヒッコシ


スワ神社の大鳥居 5/17


スズラン 5/17 


資料の整理がたいへん! 5/21 


遺影にお花を 5/21 


昼食 5/26 




老人ホームへ入居しました

429日に信子の葬をすませたあと、わたくし自身が老人ホームへ入居することになり、日常生活がかなり混乱した状態となりました。そのため、まわりのみなさまにまで、いろいろご心配・ご迷惑をおかけしてしまい、ほんとうに申しわけありません。

実は、わたくしの老人ホームへの入居は、信子が藤の木病院へ入院した(117)当時から、同時並行的に計画されていました。

たとえば、信子が入院するまで、信子のためとして週3回ヘルパーさんに来ていただいていましたが、入院後は、わたくしのためのヘルパー派遣に切りかえていただきました(すべて、Mioriさんたちが、準備してくれました)。それでもなお、Mioriさんたちは、わたくしの「一人暮らし」を心配していました。

わたくしは「要支援2」で、いちおう自分で自分の体を動かすことができます。ただし、歩いているときなど、前後左右のバランス感覚がつかめません。片足で立ってみようとしても、3秒とはもちません。自宅での「一人暮らし」だと、万一のばあい、何かのハズミデ、パッタリたおれ、だれかが事故発生に気づいたときは手おくれ、ということにもなりかねません。そこまで心配して、「しかるべき施設への入居」が計画されたわけです。

 そのうえ、「パソコンで検索もしたい。ブログもつづけたい」という注文がつきましたので、有料老人ホーム「めぐみ」にたどりつくまで、かなり時間がかかりました。



41()。*有料老人ホーム「めぐみ」を見学。

4月22日(土)。*めぐみで「面接」。「5/12入居予定」を確認。

5月9日(火)。*砂町自宅から搬出の準備開始。

510日(水)。*めぐみ703号室への搬入はじまる。まずは、パソコン台のテーブルなど。Tetuさんも応援にかけつけ、夜7時過ぎまで作業。

511日(木)。*めぐみへ衣料品・書籍・資料などを搬入。パソコン台のテーブル、ベッドの位置などを決定。

512()。*正式に、めぐみ703号室へ入居。11時、1階の桝谷内科医院で健康診断を受ける。

513日(土)。*めぐみでの生活第2日目。午前、カーテンとりつけが完成。Y電機店から、テレビ・冷蔵庫・掃除機など、とどく。

9時、東京からNorikoさん(信子の義姪)が応援に来られる。ご主人と同様、ITのプロなので、メカ音痴の老人が入居先のホームで無事パソコンを操作できるかどうか、心配されたらしい。

*午後、Tsmtさん(従兄弟)がたずねてこられる。現在、要介護1の状態で、義弟Hrkwさん(高岡市)が押す車いすで、砂町→丸の内まで来られたとのこと。恐縮。こちらからの連絡が不十分だったことをおわびする。614日の納骨法要には出席できないとのこと。

514日(日)。*砂町の電話器をとりはずし、めぐみ703号室に設置。Tel.076442-0151となる.

515日(月)。*午前、電話局から来訪、テスト完了。電話の使用可能となる。*午後、デイ・サービスのため、まちなかへ。



スワ神社の大鳥居とスズラン

5月17日(水)。*てがみ3通を出そうと、ポストをさがして外出。念のため、2本のストックを使う。めぐみへ入居してから、はじめての散歩。ポストは、めぐみの西方、百メートルほど先にあった。そこには、郵便局もあった。

その先に、スワ神社の大鳥居がそびえ立っていた(写真1)鳥居をくぐると、社殿の手前に、池がある。アヤメゕ、ショウブか、きれいな花も咲いている。しかし、神社の境内にしては、なんとも風情が感じられない。片すみに、スズラン(写真2)の群生が見られ、ぎゃくの意味でおもしろかった。あとでネットで調べてみると、この一帯は戦災で焼け出されたあと、なんとか再建されたものの、池は「庭園」ではなく、「防火用池」として設置されたとのこと。歴史的現実のきびしさを、見せつけられた思いがする。



Norikoさんからメール

518日(木)。*9時、1F桝谷内科医院で検診(以後、毎週木曜、この時間帯で実施の予定)

11時、Kumiさん(義姪)から電話。

*午後、デイサービスまちなかへ。

Noriko(義姪)さんからメール。ブログ「七ころび、八おき」読者からのコメントを見逃していないか、とのこと。「おくればせながら、気づいて、返事してある」ことを報告(真船信夫さん、渥美武雄さん関連)。さすが、その道のプロ。ここまで心配していただいたことに感謝。

519日(金)*午後1時~、散髪(外部から、定期的に出張してこられるとのこと)。葬式や引っ越しで、散髪に出かける時間がとれなかったので、「助かった」感じ。



佐藤芙美さんが来訪、遺影にお花

521日(日)*1カ月ぶりで、ブログを更新。「お葬式のあとさき」。それにしても、せまいスペースの中で、資料の整理がたいへん!(写真3)。「それより、おまえの頭の中を整理することの方がサキだろう」といわれるかもしれないが。

*午後、五十嵐俊子さん(日文悠)へメール、近況報告。

Sigekiさんの三女、Kazunaさん来訪。

*佐藤芙美さん来訪。きのうも、手づくりの弁当持参で砂
町・丸の内とたずねまわり、ようやく「めぐみ」までたどり
ついたが、ほかの約束時間がせまり、そのまま帰られたとの
こと。

 きょうは、お花を持参。信子の写真わきなどに活けてくだ
さる(写真4)。恐縮。小沢俊夫さん(ドイツ文学者)が富山
で講演されたとのこと。短歌雑誌「雲英」に寄稿した「別所

考」のコピーをいただく。東京での個展出品作と『コトダマ
の世界』表紙デザインのことなどについて情報交換。6/23()の日文悠で再会できるはず。



便秘、やがておさまる

19日までは順調だったが、以後便秘気味。朝食時、食欲し。一部,強制排出。それでも、なんとなく気持ちがわるい。*午後、デイサービスのため、まちなかへ。

523日(火) *「乙字湯」2回服用のおかげで(?)便秘解消。

10時半~、フロアで、Mioriさんも在籍の上、施設側から「介護予防サービス計画」について説明あり。週2回(月・木)デイケアへ通所。(火・金)ヘルパー来訪。6/1から実施。毎週木曜、桝谷内科受診のこと、など。

5月24日(水)。 *午前、長念寺へ。ホームでは、仏壇を置くのはムリなので、小ぶりのズシ[厨子]タイプにする案など、相談にのっていただく。

*午後、ヘルパーの久保さんが、佐藤芙美さんとお知り合いだったことが分かる。フシギなご縁を感じる。



「規則正しい生活」のはじまり

5月25日(木)。*「めぐみ」の昼食をスマホにおさめる(写真5)。「めぐみ」では、9Fの食堂で、みなさんそろって食事をするのが原則。健康状態などによっては、各階別でも食事できるが、入居者同士の親睦(孤独化防止)をはかる趣旨と解釈される。なるほど!。

 「朝食7時~、昼飯12時~、夕食7時~」となっているが、みなさん定刻まえに着席(すべて指定席)しておられる。

 食事内容は、個人の体質などによって多少ちがうが、おおむね薄味で、柔らか。消化・吸収しやすいものになっているらしい。朝食には、原則として牛乳がつくが、わたくしなどの場合は、牛乳のかわりにヨーグルトがつく。ご膳にそえられたネーム・カードにも、「牛乳✖」「朝、ヨーグルト」と記入されている。

ここへ来たおかげで、わたくしもみなさんに習って「規則正しい生活」ができるようになるかもしれない。



『コトダマの世界Ⅱ』の作業を再開

5月26日(金)*金岡さんへ、駐車場料金納入。中島さんへもごあいさつ。丸の内の転居先メモをお渡しする。

14時~。9Fで、リクレーション。ギター伴奏で、歌の数々が披露され、出席のみなさんも、好みにしたがって、声をあわせる。最後に、施設での現行企画として「フラワー アレンジ教室」、新規企画として「三味線教室」への参加を呼びかけられる。

*桂書房から電話。「明日にでも」と返事する。

5月27日(土)*10:30~、桂書房の勝山さん来訪。『コトダマの世界Ⅱ』ゲラ校正を渡す。「もくじ」、「志田延義さんの書評」、「スミ・シム・SMITHのうた」などについて希望事項を伝える。表紙デザイン・装幀などについては、桂書房から佐藤芙美さんと直接話しあっていただくようお願いする。次回再校のときまでに、「まえがき」「あとがき」「経歴」などを準備することなど、宿題多数。このさき、納骨法要のことがあり、ブログの次期公開は、またしてもおくれるかも。



ボロボロのままブログ公開

 ごらんのとおり、歩くのもフラフラ・ヨロヨロ、文章を書いてもフラフラ・ヨロヨロの状態が、しばらくつづいています。おはずかしい次第ですが、このボロボロのままブログを公開することにします。認知症もどき、97歳老人の実態を知っていただくことも、なにかの役に立つかもしれないと考えています。わがままをお許しください。

2017年5月21日日曜日

お葬式の あとさき 


藤の木病院にて) 4/4


チンドングループまちなか公演 4/10 


サクラ満開(雪見橋から)4/14 


祭壇 4/28 


オリヅル 4/29 


七日の法事 4/29   




ゴブサタしました
前号(421号)から、1カ月ほどゴブサタしてしまいました。申しわけありません。

 ブログ中止の原因は、妻信子の葬式(429)や、わたくし自身の老人ホーム入居(5月12日)など、ブログどころでない日々がつづいたことです。

考えてみると、信子は「この世」から「あの世」へヒッコシ、わたくしは「夫婦ふたり暮らし」から「ひとり暮らし」へとヒッコシしたわけです。わたくし自身についていえば、、さらに「砂町の自宅」から「丸の内の老人ホーム」へというダブル・ヒッコシでした。

ヒッコシをすると、自分とまわりのものとの関係が変化します。老人ホームのスペースはせまいので、持ちこめる家具や図書・資料などの量も制限されます。とりあえず搬入した資料を、どう整理し、配列すればよいか?考えるのにも、時間がかかります。

このあと、614日の納骨法要を無事お勤めすることが最優先の課題ですが、あわせてなるべくはやくブログを再開したい。そのことことが、やがて故人への供養につながると考えています。なにとぞよろしくお願い申しあげます。



<日誌から>
スマホにおさめた写真を中心に、日誌メモをそえる形で、ご報告させていただきす。



藤の木病院にて 4/4 
117日に藤の木病院へ入院してから、3カ月あまり。まだ自分の手と口で食事ができていた時期の写真です。

ブログでもご報告したとおり、いちばんの問題は飲食したもののハキモドシ。自宅では食事の管理がむづかしいので、入院という方法をえらびました。病院としても、最大の配慮、最善の治療をしていただいたと感謝しています。しかし、ハキモドシの症状はおさまりませんでした。

418日。口からの栄養補給ができなくなったため、鼻からチューブをとおして補給する方法をとりたいとの提案があり、同意したのですが、結果は失敗。点滴にたよる状態となりました。

この日の写真もスマホに残っていますが、くらべて見ると、4日の写真では、まだ自分の手と口で食事ができていたので、目に力が感じられれます。18日の写真では、点滴のハリを打つため、手首あたりがハレあがり、目もややウツロな感じです。

425日。Mioriさんといっしょに藤の木病院へ。信子は、酸素吸入器をつけていました。これが、生前最後の面会となりました。

427日、8:13 信子が亡くなりました。病院からの電話で、かけつけた時は、死後2時間後でした。



チンドングループまちなか公演 4/10 
信子が入院するまで、信子の認知症に対応する措置として、週3回ヘルパーさんが派遣されていましたが、入院後は、オキナガのための支援措置ということに変更されました。また、これまで週2回(オキナガは月・木、信子は火・金)、デイ・サービスまちなかへ通っていました。

デイ・サービスでは。入浴・マッサージのほか、かるい体操やゲームその他のプログラムが組まれていて、410日には。たまたまチンドンまつりの一行がまちなかまで出張公演。最後はまちなかのスタッフアや通所者も巻き込んで、盛りあがっていました。



サクラ満開(雪見橋から)4/14  
この写真は、雪見橋から下流の両岸をながめる「定点観測」の1枚です。信子は、毎年このサクラをながめ、楽しんできました。ことしも、病院のスケジュールの中で、サクラ見物ができたようです。満開のサクラを見とどけて、93歳の天寿を全うすることができたとは、ありがたいことです。



祭壇 4/28 
家族葬ということで、親族からの花輪なども辞退させていただき、ごく質素な祭壇づくりとなりました。町内会から届いた花輪だけは、お返しするわけにゆかず、ありがたく頂戴し、飾らせていただきました。
故人の写真については、まったくなんの準備もしてなかったので、たいへんあわてたり、あせったりしましたが、さいわいItoさんからいただいた写真をもとにして、りっぱな寫眞ができあがりました。それにしても、いまの写真加工・修正技術というのはたいしたものですね。



オリヅル 4/29   
   このまえ、お見舞いに来てくれたとき、ハルト君(信子の妹Emikoさんの孫)が「絵てがみ」をとどけてくれましたが、こんどは、イロガミで「おりづる」をおって、もってきてくれました。お花などといっしょに、信子のお棺の中へ入れました。



七日の法事 4/29 
葬式のあと、火葬場でお骨が焼きあがるまでの間に、初七日の法事がおこなわれました。

信子が無事三途の川をわたりきれるように、浄土へたどりつけるようにといのりながら、食事していました。



老人ホーム入居と納骨法要のこと
429日、まわりの人たちに支えられて、なんとか無事葬式を終わることができました。

しかし、このさき614日の納骨法要まで信子のお骨をどうお守りするかという問題について、あれこれ迷いました。はじめは、砂町の自宅でお守りするつもりでした。しかし、Mioriさんたちがわたくしの「一人暮らし」をを心配して、「512日、老人ホーム入居」のスケジュールが組まれていたのが現実です。正直な話、自宅にも、ホームにも、お骨を安置し、お寺さんにお参りしていただく祭壇が用意できていません。

迷ったあげく、できるだけ静かで安全な場所に安置することが第一と考え、葬式のあと納骨法要の日まで、ひきつづき長念寺さんであずかってくださるようお願いしました。そのかわり、七日ごとにこちらからお寺へ行ってお参りするようにしています。



きょうはここまで
そういった次第で、信子とわたくしは同時並行で、それぞれあらたな世界へヒッコシいたしました。親戚はじめ、まわりの人たちにたいへんお世話になりました。
 また、1カ月ほどブログの更新ができなかったり、学習サークルを欠席したりで、関係の方々にいろいろご心配をおかけしきました。1日でもはやくブログを再開することが、わたくしの課題だと考えていましたが、とりあえずきょうはここまで。[有料老人ホーム入居」などについては、次号であらためてご報告させていただきます。

2017年4月21日金曜日

大国主と少彦名の話など


日文悠研修会 3/24


Atukoさん来訪 3/28 


花鉢 3/28


『古事記』を読む会 4/2


クラがサイタ! 4/6




<日誌>
3月24日()午後、茶屋町の豊栄稲荷神社で日文悠の研修があり、佐藤稔さんが「度田八幡塚古墳出土の埴輪の一考察」と題して報告されました。研修会のあと総会も。

3月28日。東京から来られたAtukoさん(信子の姪)といっしょに藤の木病院へ面会に行ってきました。Atukoさんは、この数年来「春のサクラ」「秋の紅葉」の見物旅行で同行したときの写真アルバムを持参。それを見た信子も、あらためて当時のことを思いだし、なつかしんでいました。
Atukoさんから、お見舞いとして鉢植えの(写真)をいただきましたが、病院へ持ちこむわけにはゆかないので、自宅に置いてあります。まだたくさんのツボミが残っているので、みんな咲いてくれるまで水やりをすることが、わたしの日課となりました。

4月2日()午前、茶屋町の豊栄稲荷神社で古事記を読む会の研修会があり、藤田富士夫さんの講話をきかせていただきました。第1部、太安万侶と『古事記。第2部、八千矛神の歌物語。講話のあと、藤田さんをかこんでの昼食会となりました。

 46日(木)。サクラが サイタ。つい先日まで、かたいツボミのままだったいたち川べりのサクラですが、きょうはみごとな花をさかせてくれました。「オマチドオサマ」とアイサツしている感じ。まだほんの23分咲きといったところですが、このあとが楽しみです。 水神社への遊歩道も、サクラが咲いたことで、いっぺんに春らしい感じになりました。

<コトダマ ひろば>
◆グンマ・クラモチとキョウ族の対応関係
3月24日、悠学会の研修会で、佐藤稔さんが「保度田八幡塚古墳出土の埴輪の一考察と題して報告されました。群馬県高崎市の古墳から発掘された人物群像の中に「王が携帯する大刀の柄頭に記されたマーク」を発見したことから、このマークが「中国・美族を出自とする豪族のシンボルマーク」だとする仮説をたてたとのことです。歴史学や考古学の知識がとぼしいわたしには、分かりにくいことばかりですが、たいへんロマンチックで、おもしろいと思いました。
 できれば、おもしろい「仮説」から、たしかな「通説」になってほしいと思いますが、それには、もういちど調査資料の客観性をたしかめ、仮説の客観性・合理性・説得力を高めるなどの作業が必要かもしれません。コトバの音形と意味との対応関係にこだわる立場から、わたしはつぎのような点に注目し、問題点を考えてみました。
  そのマークを当事者たちがどう呼んでいたのか(音声言語として)?…また、そのマークが周辺へ伝播する過程で、その呼び名はどうなったか?
  美族を示す漢字キョウ[]は、ショウ[]・ヨウ[羊・養・様]などとともに、音符羊を共有している。この事実をどう解釈するか?・・・ヨウ[羊・養・様]はいずれも上古音giang、現代音yangで、「神への供物として善い」姿なので、音義とも同系のコトバといえる。ショウ[]は上古音giang、現代音xiangだが、ほぼ同系のコトバ。
  おなじくヨウ[]の字形を共有しながら、グン[]・ゼン[]・ビ[]などは、音声言語としてはヨウ[]とは異質の音形となっている。この事実をどう解釈するか?…音声言語の世界では、音形がちがうコトバは、別のコトバとして区別しなければ混乱を招く。[グン[giuanqun], [ゼンdhianshan], [miuermei]などの音形は、[ヨウgiangyang]との共通点がとぼしいので、同系のコトバとはいえない。ただし、しいていえば、これら[羊・群・善・美]の語音に、ya, yuなどのヤ行音(拗音)が組みこまれているという点では共通している。ここで、これ以上こみいった議論はムリだが、案外、そんなところから、あらたな議論のテガカリがえられるかもしれない。ヤギ[山羊]=みごとなヤ[矢]()をかざす動物と考えれば、やがて日本語ヤナギ[楊・柳][]のような枝をもつ木)と漢語ヨウdiang楊・陽yang(天空をとびかける太陽=矢の鳥)との接点がみえてくる。­
   日本語地名グンマ[群馬]や人名クラモチ[車持]・イリヒコ[入日子]などの語音は、漢語キョウ[美]やヨウ[羊]などにつながるだろうか?…結論からさきにいえば、もともとムリな難題。テマ・ヒマかけてもムダになる可能性がある。まず、地名グンマ[群馬]とは、日本語か、それとも漢語のつもりか?クナガヒ[婚合]・クニ[]・クニツチ[国土]・クヌカ[]・クヌギ[]などのk-n音ヤマトコトバは成立しているが、クン・グン(語尾母音ゼロ)のような音タイプのヤマトコトバは成立していなかった。そうだとすれば、ヤマトコトバではどう呼んでいたのか?「グンマ[群馬]は、もとクルマ[]と呼ばれたから」ということになれば、こんどはk-r音語なので、またしても問題はフリダシにもどることになる。
  それくらいなら、「グンマは、もとケ[食]の国だったから」と解釈するほうがわかりやすくないだろうか?「カミツケの国」・「シモツケ[下毛]の国」に共通する「ケ[食・笥」の国]。 つまり、「豊かな食糧を生産する国(地域)」という誇り高い呼び名。そう解釈すれば、「ケノクニ」と「クルマ・クラモチ」との接点も見えてくる。イナニ[稲荷]イナリ[稲荷]に変化したように、「ケノクニ」などのn-音がr-音に変化してクラ・クルマ・クラモチなどのコトバが生まれた可能性もある。
  マークの「」は、どう呼ばれているか?漢語では「よせ集めてまとめる」姿と見て、ジフdhiepshiと呼ぶ。その点では、シフdhiepshi(ひろう)と同音・同義。やがて、「まとまったもの=  とお(数の単位)の意味・用法となる。日本語ではトオ(トヲ)、ト・ソと呼ぶ。英語では、「タテの線をヨコの線で切る」姿と見て、crossと呼ぶ。こんなぐあいで、一つの事実を表わすのに、日漢英それぞれちがった語音(音形)となる。まったく無関係、テンデンバラバラのようにも見える。ただし、どこかでかすかにツナガッテいるようにもみえる。そこらに散らばっているものを拾い集める姿はダブダブ・デブデブの姿。やがて英語doubleの姿とダブってくる。日本語でいえば、人のからだをキル[切・斬]ことは、やがてコロス[]ことになる。英語で考えて見ても、cross=ヨコギル。十字架。Crossする(十字架にかける)ことは、やがて人をkill(殺す)することを意味する。この段階(音素の段階まで分解)では、日本語と英語は単語家族まるごとでかなりの対応関係を持つことが推定される。

◆オホとスクナのナゾとき
4月2日、古事記を読む会の研修会では、藤田富士夫さんから「太安万侶と『古事記』」「八千矛神の歌物語」など、貴重なお話をきかせていただき、よい勉強になりました。その感想もいろいろありますが、ザンネンながら時間がありません。カネガネ考えていることを、ひとことだけ申しあげます。
 『古事記』は漢文調で書かれた「地の文」と万葉カナで書かれた「歌謡」の部分との合作になっています。当時はモジといえば漢字だけの時代。漢字は漢民族のコトバを表わすために考案された表意モジ文字なので、漢語を記録するには便利ですが、ヤマトコトバの音韻組織は漢語とがちがうので、漢字だけで意味を表わしつくすことができません。とりわけ助詞(テニヲハ)の用法などがそうです。そこで、表意モジの漢字を表音モジとして使う「万葉カナ」方式が考案されたわけです。
 『古事記』では合計112篇、うち「八千矛神の歌物語」だけで5(No. 25)の歌謡が採用されています。すべて表音モジで記録されているので、ヤマトコトバの音韻研究資料として第一級の貴重な資料です。
 たとえば漢字[]の漢語音は上古音mieng現代音mingだけで、あきらかに典型的なm-k音語だとわかりますが、日本語の文脈ではイノチともミコトとも読まれます。「大国主命」の[]がイノチではなくミコトと讀まれるのはナゼか?それは、歌謡の中でミコト[美許等・美許登]・イノチ[伊能知]など、万葉カナで書き分けられていることがキメテになっています。
 それからもう一つ。『古事記』の記事の中には、ヤマトコトバの語源解説そのもの、あるいは語源解釈のヒントになるものがゴマンとつまっています。その典型的な例の一つが、オホクニヌシのオホとスクナヒコナのスクナとの対応関係です。
 人間関係としては、国主命(神)が一国の王者で、彦名神が外来の協力者ということのようです。ただし、国土開発や経営の面でみれば、大国主はその名のとおり大地主保守派。少彦名は先進的技術をもたらすスケット[助人]で改革派。それまでの「ツキボウ[突棒]で穴をほり、種イモを埋める」、あるいは「焼き畑」農耕中心だった生活が、スキ[鋤](鉄利器)で地面をスキおこし、よりスクナイ労力でよりオホク[大・多の食糧を収穫できるように改善された。日本列島改造のご先祖様みたいな存在でした。
 音韻の面から、スク・スクナの意味・用法を整理してみましょう。上代語としてサク[咲・開・割・裂・放・離]・シク[敷・布・及]・スク[鋤・助・漉・送・次]・スグ[]・セク[]・ソク[退・除]などのs-k 2音節動詞が成立しており、そのまわりにたくさんの名詞・動詞・形容詞などがが組織されています。スクナは、もと「スク[]+ナ[]」の構造で、「スク[鋤]ためのナ(道具・利器)」を意味するコトバでした。
 オホa-p音タイプのコトバということになりますが、上代2音節動詞としてアフ[逢・会・合・和・敢・堪・饗]・イフ[]・オフ[覆・負・追・逐・生]・オブ[佩・帯]・ユフ[結]・ヨブ[]・ワブ[]・ヱフ[]・ヲフ[]などが成立しています。
(以下、結論だけいいます)
 上代語にオフ[白貝]の用例が見られることに注目します。『上代編』の解説に「貝の名。ハマグリ[]の大きなものか、というが、未詳」とあります。現代とちがって,ハマグリなどの貝は主食にちかい食料資源であり、また食品などの容器、工芸品、さらには通貨の役割をはたした例もあります。そのまま地名ともなっていたようです。
 ハマグリなどのカヒ[]がオフとよばれるようになったのはナゼか?それは、「カヒの身がカヒガラをオフ[]」姿だからです。オフ[]姿は、オブ[佩・帯]姿ともいえます。
  視点を変えれば、「カヒガラがカヒの身をオホフ」姿となります。「覆いつくす」姿は、カヒの身にくらべてカヒガラのほうが「より大きい」姿。そこで、具象的な名詞オフ[白貝]動詞オフ[覆・負・追]から抽象的な形状言オホ[凡・大]が生まれたと推定されます。
 以上、勉強不足のまま、粗雑な提案になりましたが、ご教示をお願いします。