2016年9月30日金曜日

ウロウロ・オロオロと 9月



N 家花壇  9/7


遊歩道の ベンチ   9/14   


住吉公園の 遊具 ( 9/14  


住吉公園の 遊具()  9/14 




おわび

ブログの 更新が おくれ、内容の 点でも、われながら 迫力の とぼしい 記事に なっていて、まことに 申しわけ ありません。妻 信子の 認知症が すすんで、家事を こなせなく なり、わたしが 主夫と 介護人の 役を つとめ なければ ならない ことに なりました。「これでは、ブログ どころ じゃない」、そんな 毎日が つづいて います。

 ケア マネ さん たちの 助言に したがって、夕食の 宅配を 受ける ことに したり、毎週 3回 ヘルパー さんに 来て いただいたり して、どうやら「ウエジニ」も せず、ネズミや ゴキブリとの タタカイに 神経を すりへらす ことも なくなり ました。

 ただし、認知症 からの 回復を 期待する ことは ムリの よう なので、このあとは「どれだけ たのしい 思い出を もって、その日を むかえるか」、「その ダンドリを どこまでできるか」と いう ことに なると 思います。ご本人が 病気 なので、その ダンドリをする のは、わたし しか いません。わたしに、それだけの 資格・能力が あると いう 意味では ありません。結婚生活 70年、家事・家計 などの すべてを 任せきり、その おかげで 自分の すきな ことを やらせて もらった わたしには、できるだけの ことを する 責任・義務が あると 考えて いる わけです。

 そんな 次第で、もう しばらく、ブログの ノロノロ運転が つづく かと 思います。どうか おゆるし ください。

 最近、シュウカツ[終活]と いう コトバを よく 耳に します。以前は、よその 人さまの こと だと 考えて いましたが、夫婦 とも 90歳を すぎた 今は、まさしく 適齢期。おそすぎた くらい です。年齢順に いえば、わたしが さきに ポックリ ゆく 計算 なので、わたしの 遺言書は 作成ずみ ですが、これ ばかりは 天の 配剤。こちらの 注文どおりと いう わけには まいりません。極端な 話、なにかの 事故で 二人とも 同時に ポックリという 事態に ならないと いう 保証も ありません。コドモの いない 夫婦と して、万が一の ことまで 想定した うえでの 対処法を、おくればせ ながら 準備中 です。

 いまの ところ、この ブログを 中止する 予定は ありません。ノロノロ運転 でも、ヨチヨチ歩き でも、「ミットモ ナイ」と いわれても、なんとかして つづける 予定 です。信子の 症状に ついても、わたし 自身の 認知症(もどき)  ついても、ご報告する つもりです。その 意味で、この ブログは「七ころび、八おき(20111025日に いちおう 完結)の 続編 みたいな 性格を もつ ことに なるかと 思います 



N家の 花壇

97日。9月に はいっても、あいかわらず あつい 日が つづきました。この 季節、いたち川の遊歩道を 歩いても、季節 はずれの アジサイが ひっそり さいて いる ぐらいで、めぼしい 花が 見あたり ません。その点、町内 N家の 花壇では、四季を 問わず、さまざまな 花が 登場して、通る 人たちの 目を たのしませて くれます。不勉強で、花の ナマエを 知らない ので、申しわけ ない 気が します。なお、この 画像で 背景が ぼやけて 見える のは、背景の 窓ガラスに 近所の 建物が 映りこんで いる ため です。

          

遊歩道の ベンチ

朝の 散歩の おり、遊歩道の ベンチに 腰を おろし、しばらく ボケーと して いました。アカ・シロ・キイロの 花は 見えず。サクラ 並木が 紅葉するのは まだ ずっと 先のこと。いまは まだ 夏の ミドリの 葉を つけた まま。その ミドリの カーテンの 向こうに、対岸の ビルの ピンク色が すけて 見えました。



東京の Atk さん 来富

東京 在住の Atuko さん(信子の 姪)が、高校の クラス会(9/11)に 出席した ついでに、912() 來富。Mioriさん(信子の 姪。富山在住)と いっしょに、信子の 見舞いに 来て くれました。こういう 場面では、フシギな くらい 元気で、よどみなく 話します。まるで 病気が なおったかと 思う ほどです。



塚本 医院、ただいま 工事中

 914() 午前、住吉町の 塚本 脳神経外科 医院へ 行って きました。10数年 まえ、ここで「右顔面 マヒ」と 診断され、「高圧酸素 療法」を うける ため 約 40日間入院した 病院です。その 流れで、いまでも 毎月 1回 通院、血圧の 薬を 処方して いただいて います。

 この 病院が、数カ月 まえから 改装 工事中で、足元が 不安定。高齢者や 身体障碍者に とって、いささか 不安・不便 ですが、改装工事は 9月中に 完成の 予定だ そうです。

 塚本医院の すぐ となりに さくら 薬局が あり、ここで 薬を 調剤して もらって から帰宅 します。この日、薬が できる までの 待ち時間に、すぐ 向かいに ある 住吉公園を 散歩して みました。



住吉公園の 遊具たち

 住吉公園は、ちいさな 公園です。高い 樹木が そろって いる わけでも ありません。子供たちの あそび場と して、デンシャ・キシャの 模型や シーソー などの 遊具が 設置されて いる だけ。この 時間帯(正午 まえ)、利用して いる人の 姿は 見かけ ません でした。

 わたしが 住吉公園を のぞいた のは、主として 時間つぶしの ため ですが、実は もう一つの 理由が あります。数十年 むかしの 話に なりますが、日本の 神社建築 様式に ついて、あれこれ 調べた ことが あります。そのとき、「住吉神社の 建築様式は、住吉造と呼ばれ、大社造神明造とは ちがった 様式 である」、「富山市の 住吉神社は、住吉町では なく、その となりの 音羽町に 鎮座している」などの ことが 分かり、興味を ひかれた ことを おぼえて います。

 住吉造に ついて ネットで 調べて みると、つぎの ように 解説されて いました

住吉造

住吉大社に代表される住吉造の特徴として、破風は古式の直線形であり、大嘗祭の際に造られる建物と似ていることが指摘されている。伊勢神宮に代表される神明造や出雲大社に代表される大社造と共に、神社建築の最古の様式とされる。

建築形式…回縁と御心柱はなく、内部は内陣・外陣に区切られる。間口は2間、奥行は4間(内陣・外陣各2間)の長方形である。切妻造・妻入であり、破風や垂木には反りがなく、直線的な外観となる。

屋根…茅葺、柿葺、檜皮葺など幅広い。 住吉大社の破風は直線形、妻飾りは交叉合掌型となっている。

…間口は2間、奥行4間とするが、中央の御心柱と正面中央の柱がない。

…正面中央の1か所に観音開きの扉による開口部が設けられる。

大社造や神明造に比べて、床は低い

  富山市 音羽町に ある 住吉神社は、この 解説に くらべて、ずっと 小型ですが、「切妻造で、破風や 垂木に 反りが なく、直線的な 外観」という 特色は 一貫して います。単純で、素朴な 姿 から、ぎゃくに「神社建築の 最古の 様式」という 印象を うけました。

 「住吉町に ある 公園 だから、住吉公園と 命名された」と 考えても よい のでしょうが、「住吉神社が、住吉町では なく、となりの 音羽町に 鎮座」という 事実に ついては、すこし 説明が 必要な よう です。『角川・日本地名大字典・富山県』の 解説が 参考に なります

おとわちょう 音羽町1~2町目 大字清水の一部 [世帯]198 [人口]642 [由来]東京の高級住宅街である音羽町にいた人の発議で、それにあやかる意味で名づけた ▽西は清水町、東は栄町、南は元町にに接する住宅地域。2丁目にある住吉神社は、天正年間の創建といわれ、第2次大戦での戦災も免れた。 



 すみよしちょう住吉町12町目 〒930 [成立]昭和4041日 [直前]1丁目は大字清水・舘出の各一部、2町目は清水の一部、[世帯]193 [人口]724 ▽北の1丁目は国道41号に面し、栄町の西側にある。ほとんどが住宅地。昭和34年に町内会遊園地が完成している。

2016年9月9日金曜日

芥川の「老いたる素盞鳴尊」を めぐって


豊栄稲荷神社


社務所 


「古事記を読む会」研修会 





「古事記を読む会」9月 研修会
 9月4日()午前、茶屋町 豊栄稲荷神社 社務所で、「古事記を読む会」の 研修会が 開かれました。この日の 講師は もと 富山県立図書館長 鷲本 義昌 さん。テーマは「芥川の『老いたる 素盞鳴尊』を めぐって」。


 当日 いただいた 資料には、つぎの 5項目が 示されていました;


◇「芥川龍之介大事典」より


 素盞鳴尊 すさのおのみこと


  小説。[初出]「大阪毎日新聞夕刊」大正9年三月三十日~六月六日。四十五回の連載。[収録] 『春服』(前半三十五回は単行本未収録。後半十回を「老いたる素盞鳴尊」と改題し収録。春陽堂、大正12年五月)。全集第六巻収録。


◇八雲立つ


◇炉辺の幸福


  「侮蔑と捨象の対象でしかなかった実人生が、ようやく生にかかわってもつ不可避の意味を作家に問いはじめた」(三好幸雄)


◇十風五雨


◇夏の終(わ)り  伊藤静雄


また、別紙として、小説「老いたる 素盞鳴尊」 全文(十回分)コピーが 配布 されました。


つまり、「日本最古の 古典『古事記』が、現代文学者たちに どんな 影響を あたえたか」、「例えば 芥川龍之介は、小説「老いたる 素盞鳴尊」の中で なにを いいたかった のか」考えて みようと いう こと でした。


 「大阪毎日(夕刊)」に 45回に わたって 連載しながら、後半 十回分だけを 老いたる素盞鳴尊」と 改題し 収録」と いう 事実経過の中に、小説家 芥川の 心情変化の 過程が 読みとれると いう わけです。


 スサノヲ命と いえば、すぐに 連想される ものの 一つに 「八雲 立つ…」の歌が あります。


   八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を


  この歌は、「スサノヲ命が 作った」と されて いますが、実は 当時 いっぱんに 歌われて いた 祝婚歌の 一つだと いう 説も あります。アシハラシコヲ[葦原色許男](大国主命)と スセリヒメ、あるいは その 応援団の 人たちが 歌っても よい わけです。


 「八雲立つ 出雲八重垣」とは「スゥイート ホーム」の こと であり、「ロバタ[炉辺]の生活を 楽しむ」姿 です。漢語で「十風 五雨」と いう のも、「十日に 一度 風が 吹き、五日に 一度 雨が 降る」という 現実生活の 楽しみを うたった コトバです。


 ただし、文学者・小説家とも なれば、『古事記』の 記事を ただ 現代語に 訳した だけでは どうにも なりません。なんとか して 独自の「小さな説」を 立てる 必要が あります。芥川が『古事記』の 「スサノヲ命」を 題材と して 小説を 書きはじめ、やがて 後半 十回分だけを 改題して 収録した ことは、さきほど 紹介した とおり ですが、そのことは 彼が それだけ 真剣に スサノヲと とりくみ、七転八倒 させられた ことを 示しています。


 小説「老いたる 素盞鳴尊」の 中で、作者の 目は スサノヲの 目と 同調して います。最愛の ひとり娘を もつ 父親が、娘の 恋人を 見る、その目です。娘の 恋人・アシハラシコヲを 「ハチの ムロ」,「オロチの ムロ」へ 閉じこめる。さらには 枯草に 火を はなち、その 炎と煙で 焼き殺そうと する。しかし、スサノヲと スセリヒメと アシハラシコヲとの 人間関係に、やがて 転機が おとずれる。若い男女の キズナが 父と娘の キズナを ふり切って、スサノヲの 家から 脱出計画を 実行する。   


ふたりが 乗った 舟が 遠ざかる のを 見て、スサノヲは すぐ 弓に 矢を つがえて ひきしぼるが、矢は ついに 弦を はなれる ことが なかった。


 やがて 弓矢を おいた スサノヲが、二人に むかって 祝福の コトバを おくる。


「おれよりも もっと タチカラ[手力]を 養え」


「おれよりも もっと チエを 磨け」


「おれよりも もっと し合せに なれ」





 あれほど 憎み、痛めつけて きた 若者に むかって、ある日 とつぜん 祝福の エールをおくる。この 豹変ぶりを どう 解釈すれば よいか?むつかしく 考えれば、たしかに むつかしい 問題ですが、じっさいには、現代社会でも よく 見たり 聞いたり する 現象だとも いえそう です。最愛の 娘の ムコ殿に たいしては きびしい テストを する。そのテストに 合格したと なれば、一転して、応援に まわる。そう 解釈する 人も いるでしょう。また、どれほど 強い 人間でも、やがて 老人と なり、死の 日を むかえる。最愛の娘に 恋人が でき、親の手が とどかない ところへ 立ち去る 日が 来る。そう 考える人も いるでしょう。





 時間の 制約も あって、伊藤 さんの 講話では、さいごの 項目「夏の終り…伊藤静雄」に ついて、くわしい 解説を お聞き できません でした。あとで ネットで しらべて いると、こんな 記事が 見つかり ました。


 夏の 終り


夜来の 颱風に ひとり はぐれた 白い 雲が


気の とほくなる ほど 澄みに 澄んだ


かぐはしい 大気の 空を ながれて ゆく


太陽の 燃え かがやく 野の 景観に


それが おほきく 落す 静かな かげは


……さよなら……サヤうなら……


……さよなら……サヤうなら……


いちいち さう うなづく まなざしの やうに


一筋 ひかる 街道を よこぎり


あざやかな 暗緑の みずた[水田]の おもてを 移り


ちひさく 動く 行人を おひ越して


しづかに しづかに 村落の 屋根屋根や


樹上に かげり


……さよなら……サヤうなら……


……さよなら……サヤうなら……


ずっと この 会釈を つづけ ながら


やがて 優しく わが 視野から 遠ざかる


  *昭和21年(40歳)『文化展望』10月号、後に『反響』に 所蔵。


 この「夏の 終り」は、1946年 つまり 戦後 間もない頃の 作品で、伊藤静雄が 40歳の 時の もの である。24歳から 詩を書いて 発表し 始め…1945年には 発表作品は ない…1949年に 肺結核を 患い、そのまま 入院生活を 送り、1956年に この世を 去って いる。





  以上、『古事記』スサノヲ命 から、現代の 小説家 芥川 龍之介・詩人 伊藤 静雄に いたる まで、いっしょに 考えあわせて みると いう ことで、わたしと しては めったに できない 勉強を させて いただきました。





『古事記』の 読み方に ついて
 『古事記』の 読み方に ついては、さまざまな 読み方が あって よいと 思います。自分の すきな テーマを えらび、得意と する 研究方法に よって 研究を すすめ ながら、まったく 別の テーマや 方法に よる 研究者の 報告を 聞く ことで、意外な ヒントが 得られる ことも ある でしょう。


 わたしの ばあいは、やはり コトバの 音声面に こだわって、『古事記』を 読みつづけたいと 思います。たとえば「スサノヲ命・スセリ姫・アシハラシコヲ」などと いう ナマエの 意味を さぐりたいと 思います。アマテラス[天照](大神)や オホクニヌシ[大国主]()などは 現代語との 関連が つかめますが、スセリや シコヲと なると、「それ、日本人の ナマエ なの?」と たずねたい 感じに なったり します。


 現代日本語の 実態は、ヤマトコトバ・漢語・カタカナ語 などの チャンポン語 ですが、ヤマトコトバの 実態も「ヤマト地区の コトバを 中心に、日本列島 各地の コトバを とりこんだ チャンポン語」だったと 考えられます。


 人名・地名など には、命名当時の 貴重な 情報が こめられて いると されて います。「テル[] ものが テラ[]」と いう ヤマトコトバの 原則が 分かれば、アマテラス派(神道グループ)テラ派(仏教グループ)の テラと いう 語音を 禁句と した 理由も わかって きます。スサノヲ・スセリ・シコヲ などが ヤマトコトバだと すれば、ヤマトコトバの 中に 同源・同系・同族の コトバが ある はずです。テマ・ヒマの かかる 作業ですが、まず ヤマトコトバの 戸籍台帳を できるかぎり 整備する ことが 必用。これが できれば、やがて 日本語と 外国語との 音韻比較の 道も 開けて くる でしょう。

2016年8月29日月曜日

ウロウロ・オロオロの 日々



バラ 8/14


川柳にて 8/17 


雪見橋から 8/23 




ブログ 更新が おくれて
「8月は、夏休み」と いう わけでは ない のですが、ブログの 更新が おくれて、申しわけ ありません。わたし 自身、連日の 猛暑で バテ気味だと いう ことも ありますが、なによりも 信子の 体調が 回復せず、96歳老人が 92歳老人を 介護すると いう 事態に おいこまれ、新米主夫と しても、ビックリ したり、ただ ウロウロ したりの 毎日がつづいて います。

 わたしどもには 子供が おりません から、いつか こんな ことに なるかもと、覚悟はできて いた つもりです。信子は 若い ころ から、いつも 健康で 元気、そして ガンバリ屋 さん でした。どちらかと いえば 病身者 だった わたしが この年齢まで 生きて こられた のも、信子が 面倒を 見て くれた おかげです。

 その 信子が 認知症に とりつかれ、家事を 処理する 体力も 気力も なく なったとは、わたしには 信じがたい こと でした。数カ月 たった いま、ようやく「ほんとうに 病気なんだ」と 実感できる ように なりました。

「これでは、ブログ どころじゃ ないな」、「結婚 以来 70年の カリを すこしでも 返さ なくては」と 感じて います。ただし、ブログを 中止する つもりは ありません。そんな ことを したら、せっかくこれまで 応援して くれた 信子の 気もちに そむくことに なると 思います。

そんな しだいで、しばらくの あいだ、この ブログの ウロウロ・オロオロ状態が つづく かも しれません。どうか、お許し ください。



ハリの ある 花、バラ
 8月14日。散歩の おり、遊歩道ぞいの G家花壇で、また あの まっかな バラの 花を見つけ ました。この ブログで 2回(6/18, 7/8号)ご紹介 ずみ ですが、この 季節は アジサイの あと パリッと した 花が 見あたり ません。それで ブログ画像として 3回目の 登場を きめました。

 わたしは、バラという コトバが すきです。バラは、p-r音型の コトバ。ハル[張・開・貼・治・墾]という 2音節 動詞が あって、そのまわりに ハラ[腹・原]・ハリ[張・針]・ハル[]・ハレ[晴・腫]などの 名詞が 成立して います。草木の 芽や 根が ハリだす 季節が ハル[]。タラフク 食べて、今にも ハリサケ そうな ドテッパラが ハラ[腹・原]。ハル こと・ものが ハリ[張・針]。空一面に ハリ[張‣貼]ついて いた 雲が ハリ[張・割]キレタ 姿が ハレ[]。傷あとが ウミ[]、うすい 膜が ハル[] 姿が ハレ[]、と いった ぐあい。

 バラは、バラ科 バラ属で、トゲの ある 植物。つまり、ハリ[]を もつ 植物です。バラ・イバラは、もともと ハリ・トゲを もつ ことに 注目した 呼び名と 考えて よい でしょう。トゲトゲしい 言動は きらわれ ますが、ハリきって、バリバリ 仕事を する 人は 頼りに されます。 

そういえば、英語でもpretty girlと 呼ばれる のは、泣き虫 メソコ さん では なく、プライドを もって フルマウ 女性、ハリキリ娘の ほう でしょう。



ひとり 息子
8月17日()。東京 から、泉 進 さん(わたしの 兄の 長男) 一家3人が 來富 しました。ン十年 まえに 来た とき 食べた「薬膳料理」の 記憶が 残って いて、「ぜひ、もういちど 食べて みたい」と いう こと だった ので、清水町の「割烹・川柳」さんを 紹介しました。

 進 さんは、もと 東京都立大に 勤めて いましたが、いまは 横浜国立大に 勤務。そして 一人息子の Youta君は、東大法学部の 学生。来年 春 卒業予定で、就職先も 内定 ずみとの こと。富山訪問の 計画は、Youta君が 東大に 合格した とき 以来の 懸案で、こんど ようやく 実現した わけです。大学では、陸上競技部に 所属して いる との こと。文武両道の 達人と いった ところ ですが、じっさい 会って みた 感じでは、「素直で、クセ・イヤミが なく、老人に 親切な 好青年」でした。わたしの 兄に とっても、「自慢の 孫」だったに チガイ ありません。めったに 人を ほめた ことの ない 信子も、「ヨロヨロして いたら、手を 貸して くれた。よく できた 子だ」と ほめちぎって いました。

「日本の 将来に ついて、なんとなく 希望が もてる」、そんな 気分に なりました。



雪見橋 から  
 8月23日()。散歩の おり、いつもの とおり、雪見橋から 下流(西方)を スマホのカメラに おさめました。サクラ並木の 上、ビルの 白さと ならんで 区別しにくい のですが、マッシロナ 夏雲が ムクムク 吹きだして いる 姿が、すこし 気になり ました。暴風や 大雨が 來る キザシで なければ よいが。とにも かくにも、平安な 日が つづいてほしいと 願って ます。




2016年8月14日日曜日

墓まいりの 季節


「日文悠」夏の 懇談会  8/3


となりの コンビニ  8/12 


コーンポタージュ 8/12 


お墓まいり  8/13 


沢新にて  8/13 




「日文悠」夏の 懇談会

83()。夕方 6時から、千代田町 丸十 2階で、「日文悠」夏の 懇談会が 開かれました。8月は 夏休みで、正規の 研修会は なし。「暑気 ばらい」を かねて、気楽に 語りあおうと いう わけ。

会食に さきだって、会員の Skyさんが スライドを 使って、立山を 中心に、山を めぐる 地名・地形名、動植物名 などに ついて 解説 されました。よくも これほど 大量の 画像資料を 採集・整理された ものだと 感心して 拝聴しました。

つづいて 会食…丸十 さん 自慢の 料理を ごちそうに なりました。わたしは 最近 家では めったに 酒を 飲まない のですが、こういった フンイキの 席では、食欲も わき、お酒も おいしく いただけ ます。ビール なら、コップで 「乾杯」の 1杯目が 最高。あとは ニガミが 強く なります ので、日本酒を マイペースで ゆっくり 味わいたい ですね

会食の 後半からは、出席者が 順番に 自己紹介。さまざまな 人たちの 個性 あふれる話を きく ことが でき、楽しい ひとときを 過ごしました。

次回の 研修会は、923()。講師:木本 秀樹 さん。テーマ:「古代北陸道の 国制と 特質」(仮題)



認知症の 実態

 これまでも、認知症に ついて いろいろ 聞いては いましたが、どちらかと いえば「よそさまの 家の 話」と いう 感じ でした。それが こんど、自分の 女房が その 病気に なり、その 介護者の 役割を つとめる ことに なろう とは、まったくの 想定外 でした。

 おなじく 認知症と いっても、実態は さまざまで、信子の ばあいは まだ 比較的 軽いほうの よう ですが、わたしに とっては、毎日が マサカ・マサカの 連続 です。

モノワスレ…「今日は ○月 ○日、○曜日?」それが、すぐには 答えられ ない。この 程度の こと なら、わたしでも あります。でも、デイケアに 出かける 日の ことを 忘れて いると、大変な ことに なります。買い物に 出かける ときも、(冷蔵庫の 中を チェックしない まま)その場の 思いつきで 食品を 買い集め、家に 帰って から、肉や 野菜が だぶって いる ことに 気がつきます。やがて、大量の ナマゴミと して すてる ことに なります。

 シンコクな 話…夕食の メニューを 考えたり、調理したり する には、それなりの 体力・気力が 必用、と いうことが よく 分かりました。そこで、先月から 夕食(オカズ だけ)の 宅配を 利用する ことに しました。老人むけに うすあじで、栄養も 十分 計算されて いる ようです。スキキライの ある 信子も、いまの ところ ほぼ 完食の 状態。これは うまく いったと よろこんで います。ところが、ある日、こんな ことが ありました。わたしが デイケア から 帰って からの 4時半 ころ、近所の H食堂 さん から、冷やし そうめんと かつ丼が とどき ました。いつのまにか、信子が 電話で 注文して いたのです。「腹が へった ものだ から」なの か、「弁当が 来ている のは 分かって いたが、ゴハンが ついて いなかった から」なの か、それとも「ゴハンを たくのが メンドウだった から」なの か、よく 分かりませんが、結果と して、当日 配達された 弁当は 残飯と して 冷蔵庫で 保存される ことに なりました。この「とりあえず 冷蔵庫で 保存」という 食品が 毎日の ように 発生し、やがて 大部分が ナマゴミと して 処理される ことに なります。食材は、もともと イネ・ムギ・野菜・肉 など、イノチ そのもの。残飯をすてる ことは、せっかく いただいた イノチを ムダに する こと なので、たいへん 申しわけ ないと 思って います。

 現実の 生活では、自分自身の イノチが まず 第一と いう ことに なります。ことしのように 猛暑日が つづくと、「2年、3年 先の ことは いわない。とりあえず なんとか して この夏だけは のりこえたい」と 願う ことに なります。ムリして 残飯を 食べて 食中毒に なるのは イヤ なので、ナマゴミと して 処理させて いただいて います。ごめんなさい。



8月の スケジュール

 年齢から いって、「毎日が 日曜日」の はず なの ですが、本人の 感覚では「けっこういそがしい」感じで 日を 過ごして います。そう 感じる には、それなりの 理由が あります。第1.高齢に なると、体力・気力が おとろえ、行動力が 落ちる ので、世間一般には「通常」の スケジュール でも、高齢者 には「過密」と 感じられる こと。第2.たとえば、週2回 デイケアに 通う のは、もともと「フロに はいったり、マッサージを 受けたり」、ノンビリした 気分に なる 時間の はず ですが、ぎゃくに「週2回 通所と 規制された」と 感じとる こと。

 わたしに とって、とりわけ この 8月は スケジュールが こんで いる 感じ です。「日文悠」も 「古事記を読む会」も 8月は お休み ですが、「日文悠 懇談会」(3日)、「墓 まいり」(13日)、「親戚 来訪」(17日)、「NHKから 来訪 取材」(23日)、「『教育・文芸 とやま』応募原稿 シメキリ」(25日)などの スケジュールが つまって います。「周2回 デイケア」との 調整も 必要で、96歳 老人に とっては やはり 「かなり つまった 感じ」です。ただし、文芸誌への 応募原稿 作成も、TV局からの 取材に 応じる のも、自分が すき好んで している こと、「生きている ことの アカシ」と して やっている こと ばかりです。マイナスの イメージは なく、「充実した スケジュール」と いった 感じです。



コンビニを 見なおす

  一昨年、となりに コンビニが できましたが、「コンビニは、若い人たちが 利用する もの」「老人には 縁がない」と 考えて いました。しかし、最近 すこし コンビニを 見なおすように なりました。万が一、非常事態の ばあい、老人は クルマの 運転も できず、パニック状態に なりがち です。でも、すぐ となりに コンビニが あれば、食品が 手にはいり、イノチを ツナグ ことが できそう です。費用の 面に ついても、食の 細い 小人数の 世帯では「食材ロス」、「ナマゴミ発生」が おおく なる ので、かなりの ムダヅカイを している わけです。体力・気力の ことや 調理の 時間の ことを 考えれば、コンビニで 間にあう ものは、なるべく コンビニ利用に 切りかえた ほうが、かえって 安あがりに なるのではと 考えて います。

 ただ 問題は、人には それぞれ スキキライが あり、どれだけ 栄養価が あっても、「食べる気に なれない」、「ムリに 食べようと しても、体質的に 受け入れ ない」などの 例も あります。わたし 自身は、ビンボー 一家の 4人兄弟の 一員と して きたえられた(?)おかげで、魚でも、肉でも、野菜でも、「どうしても キライ」な 食品は なさそう です。先日も コンビニで「コーン ポタージュ」などを 買って、味噌汁 がわりに 味わって みました。和風・洋風など、いろいろな 食習慣が ある よう ですが、いまの わたしには 「イキル こと」、「イノチを つなぐ こと」が 最優先の 課題です。コンビニや 近所の 食品店に、信子が「食欲を 感じる」だけでなく、「現実に 消化・吸収できる」食品が、どれくらい あるか、いろいろ テストして みる つもりです。



墓まいり
いろいろ 日程を 調整した あげく、13日(土)に 墓まいりと いう ことに なりました。

 お墓に そなえる 線香と ロウソクは 仏壇の ヒキダシ から、お花は となりの コンビニで 用意 できました。11時半、タクシーを 呼んで 出発。

 空は 快晴。カンカン照りの 猛暑 ですが、雨降り よりは マシと いった ところ。

常願寺川 大日橋(日置の橋)を わたり、立山町 五百石 商店街で イトコの Tsm さんにごあいさつ。そのあと、地鉄 田添駅西の 墓地に むかい ました。用水の 水を 汲んで、墓を 洗い、花を 生ける ツボに そそぎ ました。ローソクや 線香を 立て、マッチで 火を 灯そうと しましたが。風が つよい ので あきらめました。すること 為すこと、すべて 子供の ママゴト みたいな こと しか できませんが、この年齢で ここまで 足を はこんだ 気持ちだけは くみ取って いただけたらと 思っています。正直な ところ、来年の お盆に、また 墓参りに 来る ことが できるか どうか、あまり 自信が ありません。

  お墓まいりを すませた あと、沢新Mskに 向かい ました。沢新は、わたしの 母ヤイ(八重)の 出身地で、いまも もとの 場所に、イトコの Stk さん 一家が 暮らして います。わたしが 東京外語の 学生時代、冬休みや 春休みに なると、「沢新の おじいちゃん」の うちへ ころがりこんで、さんざん お世話に なったと いう「思い出」が あります。
 家に帰って、「ヤレヤレ」と つぶやいた とき、時計は 13時を まわって いました。

2016年8月7日日曜日

地蔵祭りの 季節



いたち川遊歩道 7/24    


石倉町延命地蔵尊 7/24 


ムクゲの花 7/2 


志田延義先生を偲ぶ会 7/24 




地蔵祭りの 季節

 724()、朝の 散歩で、雪見橋の 上流、石倉町・泉町上流の 遊歩道を 歩きました。ちょうど 地蔵祭りの 季節で、「南無 延命地蔵尊」と 染めぬいた ノボリの 赤い 色が 木の ミドリと 対照的 でした。この日 夜には、恒例の 灯篭流しも 行われる との ことで、石倉町の 地蔵尊堂では、世話役の 人たちが 祭りの 準備を して おられました。対岸の 泉町でも 同様 でした。

<追記>25北日本新聞紙上に「いたち川の 川面を 幻想的に 照らす 灯篭24日夜)」の 写真が のって いました。



志田延義 先生を 偲ぶ 会

24() 午後2時から、市内 長柄新町の 長念寺で、「志田延義 先生を 偲ぶ 会」が 開催され、前 日本歌謡学会 会長(第1回 志田賞 受賞者)真鍋昌弘 先生の 記念講演が ありました。タイトルは「志田 歌謡史を 基盤として 『閑吟集』と 『田植え草紙』を 読む

 わたし 自身、歌謡学会の 会員では ありませんが、志田延義 先生に たいへん お世話に なりました ので、「偲ぶ 会」には できるだけ 出席させて いただいて います。わたしが とりくんで いる テーマが「日漢英の 音韻比較」なので、『古事記』や『萬葉集』などの 歌謡は 比較的 ナジミが ありますが、平安以後の 歌謡までは なかなか 手が 出ません でした。数年 まえ、たまたま「偲ぶ会」に 出席した ご縁で、書家の 藤原彰子 さん から 著作『閑吟集を 書く』、『梁塵秘抄を 書く』を いただく ことに なり、目から ウロコが 落ちる 思いが した ことを おぼえて います。

 真鍋 先生は、この日の 講演の ために B413枚に およぶ 資料を 用意し、出席者に配布 されました。その目次を ご紹介します。

1. 閑吟集』を 読む』、

1.1.肩書き「吟」173番・209番を 読む(吟=吟詩句、小=小歌)

1.2.酒宴歌謡

1.3.「うそ」を突く

2. 『田植え草紙』を読む

2.1. 鹿の歌

2.2.のうた

 当日の 講演では、真鍋 先生 一行が 平成209月、中国河北省 邯鄲市の 重要文化財、黄梁夢呂仙紫祠を 訪問した ときの 思い出から はじまり、まずは 『閑吟集』「吟」173に たどりつきます。

世事邯鄲枕、人情灩澦灘(セイジ[世事] 邯鄲の 枕、ジンセイ[人情] エンヨ[灩澦]の ナダ[])

  「邯鄲の 枕」とは、趙国の 邯鄲で 蜀国の 盧生が、導士(仙人)呂翁の 不思議な 枕で 眠り、人生の はかなさを 悟る 話。灩澦灘は、長江ク[-]塘峡に ある 巨石の 名。灩澦堆とも。1958年、航路整備の ため 取り除かれた。この地区に 残る 船曳を 収録して、「船頭や 牽引夫の 労働・俗信・生活」を 調査した との ことです。

 ついでに 209

鶏声茅店月、人迹板橋霜(鶏声茅店の 月、人迹板橋の 霜)

[口語訳] にわとりの 声を 聞きながら、寒々とした 空に 残る 冬の月を ながめて、田舎の 宿を 出立した。ふと 見ると こんな 早朝にも かかわらず、板橋の 上に 置いた 霜の 上には、だれかが、すでに 通って いった ので あろう、足跡が ある。

さらに もう 一つ、210番 小歌。

帰るを知らるるは、人迹板橋の霜のゆへ()

[口語訳] わたしが 帰って ゆくのを、人に 知られる のは、霜の上の 足跡の せいだよね。

 途中 省略して、『田植え草紙』鹿の 歌へ。

朝霧にさしこめられて小牡鹿が

  ゆくかたのふては和歌をよむ

さしやこめられ小歌もよまれぬ

鹿の腹毛をぬいては筆に結われた

筆に結ふてはみな法華経をかかれた(6)

資料・『万葉集ホカヒビト[乞食者]のウタ[]

…シシ[鹿]待つと わが居る時に さを鹿の 来立ち歎かく、タチマチ[]に われは死ぬべし 大君に われは仕へむ わが角は 御笠のはやし わが耳は 御墨のツボ[] わが目らは 真澄の鏡 わが爪は お弓のユハズ[弓弭] わが毛らは 御フミテ[]はやし わが皮は 御箱の皮に わがシシ[]は 御ナマス[]はやし わが肝も 御ナマス[]はやし わがミゲ[]は 御塩のはやし 老いたる奴 わが身一つに 七重花咲く 八重花咲くと 申しハヤ[]さね 申しハヤ[]さね(万3885

<参考>

峰に起き伏す鹿だにも、仏に成ることいと易し

己れが上毛を整へ筆に結ひ、一乗妙法書いたんなる功徳に(梁塵秘抄239) 
  この日、真鍋 先生の 解説を うかがった おかげで、上代の 『古事記』『萬葉集』から 中世の 『閑吟集』『田植え草紙』を 経て 現代歌謡に いたる までの 流れが、すこしだけ 目に見えて きた 感じが します。それは、日本列島の 住民たちの 生活が、狩猟中心から イネ農耕 中心に 変化した こと、ヤオヨロズの神の 時代から アマテラス 中心、さらにはテラ[](屋根瓦で 周囲を テラス堂塔)を もつ 仏教信仰の 時代へと、しだいに 変化して きた ことの 反映と いっても よい でしょう。まさに、「歌は 世に つれ、世は 歌につれ」ですね。