2017年9月30日土曜日

お墓まいりと土なべぞうすい


カーテンの影もよう 9/25


墓まいり 9/2 


田園風景(立山町) 9/2 


ぞうすいの店 9/27 


土鍋ぞうすい 9/27  






カーテンの影もよう

 925日(月)。デイ・ケアの日。窓ぎわのテーブルに席がありました。この時期でも、午前中は日ざしがつよいので、カーテンで日ざしをよわめています。窓ガラスには、イロガミでつくった花やリボンがはりつけてありますのので、それが無地のカーテンにうつって、くっきりと影もようをつくります。影もようは、日ざしの変化につれて、微妙に変化します。午後になると、太陽の位置が変化し、影もようが消えます。カーテンも、無用となります。



老人ホームの話

926日(火)午前、mori夫妻来訪。わたしが老人ホームへ転居したり、本を出版したりしましたので、どんな生活をしているのか、心配になって、様子を見にこられたとのこと。ホームでの生活について、わたしから、こんなふうに報告しました;

  このホームは、老人用住居として最高の安全性・利便性を持っていると考えられること(三食付きで、パソコンも使えるなど)。

  毎週1回、内科検診を受ける(1階が桝谷内科医院)ほか、2回デイ・ケア施設に通っていること(入浴・昼食・リハビリなお)。また、週2回、ヘルパーさんに来てもらいること(掃除・洗濯など)。」

  経費の面から見て、年金生活者としてはゼイタクすぎる生活だが、このさきン十年生きているはずもなく、あと1年でも、ひと月でも、安全に生きのびることが信子の供養にもなる。また、まわりの人たちにも、それだけ安心していただけるはず。そう考えて、決断したこと。



タイム・スリップ、70

 よもやま話の中で、こんな話も聞かせていただきました。mori家に毎月こられるお寺の住職さんから、「あんたとこ、イズミ オキナガさんの親戚け?」とたずねられ、70年まえの思い出話をされたとのこと。その話とは;

戦後間もない1947年ころ(住職さんが西別院仏教青年会の世話役をしていた時)、会合の出席者の中にイズミ・オキナガと名乗る人物がいて、しきりに発言していたことを記憶している。先日の新聞で『コトダマの世界Ⅱ』の記事をよみ、すぐに当時の記憶がよみがえり、「こんどの本の中で、どんなことを発言しているのか、ぜひ1冊購入して、たしかめてみたい」と考えている。そんなお話でした。

 いわれてみると、わたし自身にも記憶があります。中國(張家口市)で敗戦をむかえ、翌年1946年)5月末帰国北海道まで帰る予定でしたが、信子の実家がある富山を素通りするわけにもゆかず、途中下車の感覚でたちよりました。信子の母や姉妹たちに引きとめられるまま、2~3日滞在の予定がずるずる伸びて、やがてそのまま定住にむかっていました。

 わたし自身、中国大陸で死を迎えることを覚悟していましたから、北海道でも、富山でも、なんとかして生きてゆくカクゴでしたが、いざ現実となると、やはりいろいろ問題がでてきます。中でもいちばんのナヤミは、富山の人たちと「会話」することのむつかしさでした。わたしはもともと北海道出身。中学校を卒業ししたあと、東京で4年、つづいて中国大陸で5年間生活。いずれも、日本各地出身の人たちのヨリアイ社会でしたから、相手の心のウラまでよみこんだ会話をしている余裕がありません。正面からずばりホンネで語りあうことで、ようやく会話が成立していました。

 ところが富山では、そういう言い方が通用ししないというか、きらわれるようです。自分が考えていることをそのまま発言した場合、相手がどんな感じでうけとるか、そこまで計算したうえで、コトバをえらんで発言するべきだということのようです。まだ20歳代だったわたしに、そこまでの計算はムリ。「ホンネで語ることの、どこがマチガイなのか?」となやんでいました。

 そのとき思いついたのが、「富山は浄土真宗王国」ということでした。自分が『歎異抄』の愛読者だったこともあり、浄土真宗の学習サークルに入れていただければ、富山の人たちと会話できる道が開けるかもしれないと考え、富山の西別院へ通ったことを、いまでもおぼえています。

 あのときお世話になったお寺さんが70年間をタイム・スリップして、イズミの名を思いだしていただいたとの話に感激、さっそくmoriさんをとおして、本を1冊謹呈させていただきました。そして、mori家から、多額のカンパをちょうだいしました。ほんとうにうれしく、ありがたい一日でした。



お墓まいり

927日(水)午前10時すぎ、長念寺さんをむかえて、信子の月命日のお経をあげていただきました。そのあとすぐ、mioriさんと二人で、立山町沢端のお墓へ向かいました。ほんとうは、23日の秋分の日あたりにと考えていましたが、mioriさんのつごうもあり、おくればせながら、なんとか墓参りが実現できました。この日は、すこしがあり、ローソクや線香が着火しにくかったのですが、がふらなかったので、たすかりました。



高齢化社会の典型

 かえりみち、五百石tsmtさんのお宅をたずねました。うまいこと、在宅でした。足腰がよわって、自分の足で立ち上がったり歩いたりすることができず、トイレへ行くにも、車いすを使ったり(店内の移動)、這いずったり(居室フロアでの移動)しておられました。

 それでも、毎日の生活様式は、ほぼむかしからそのままのようです。店のフロアのまん中に火鉢をすえ(炭ではなく、灯油)、ヤカンをかけてを沸かしてあります。来客があれば、茶わんに湯をそそぎ、しばらく冷ましてから急須に入れ、ゆっくり茶わんに移します。

そのお茶を飲んだときの、舌先でトロケル甘味、そしてノドゴシのなめらかさ。なつかしい味をごちそうになりました。

 tsmtさんの生活ぶりを見たり聞いたさせていただき、自分の場合ともくらべあわせ、これこそ高齢化社会の典型だと思いました。生活の安全性や利便性も大切です。地域社会との交流継続も大切です。ムジュン関係にある要求をどこまで調整できるか?むつかしい問題だとおもいます。



ぞうすいの店

 立山町から富山へ帰る途中、大島の「村田家」で昼食をとりました。わたしは「土鍋ぞうすい」、mioriさんは「餅入り土鍋ぞうすい」を注文。あつあつのぞうすいを食べ、mioriさんの餅も半分もらって、おなかがいっぱいになりました。
 「村田家」といえば、もと東町にお店があったころ、何回か連れて行ってもらったことがありますが、大島の店ははじめてです。昭和7年、「うどん、そば処」として創業、とりわけ「ぞうすいの店」として評判になっていましたが、そのご山室・古澤へ移転。そして今年425日に大島へ移転、新装開業したとのこと。大日橋のたもとに居を構えた村田家は、店内もひろびろとして、清潔な感じでした。天候がよければ、おおきな窓ガラスごしに、立山連峰のながめを楽しめるそうです。

2017年9月26日火曜日

地名の話など





コスモスの花 9/1


「地名は歴史を語る」講演会場 9/20  


日本海文化悠学会研修会 9/22 


花束 9/22 





住めばミヤコ(?)

918日(月)。デイ・ケアの日。いつものとおり窓ぎわで、日当たりのよいテーブルに、いつもどおりの4人がそろいました。wtbさん、uszさん、nktさんとわたし。そして、テーブルの上に、いつもの花瓶がおかれ、この日は、先日の鶏頭と交代して、コスモスの花(写真)が活けてありました。いつものとおり、uszさんのお宅の花壇からつみとって来られたそうです。

 デイ・ケアに来るのは周2回だけで、あとは毎日朝から晩までホームで暮らしているのですが、「自宅からデイ・ケアまで出かける」というよりは、「もう一つの自宅へもどってきた」みたいな感覚になっています。「住めばミヤコ」というコトワザがありますね。それとぴったりとはいいませんが、人間の意識は案外変化しやすいものだと気づかされました。

 そういえば、ホームでは、スタッフの人たちとは必要に応じていろいろ相談することがありますが、住人同士では、毎日39F食堂で顔をあわせ、「おはようございます」くらいのあいさつを交わしますが、中身のある会話をしたことがありません。それにくらべて、デイ・ケアでは、毎回午前10時まえから午後3時すぎまで(入浴時を除き)、ずっと同席したまま、食事・体操・唱歌・ゲームなどで時間を過ごします。あるいは、イロガミで花やリボンをつくるなどの共同作業をすることもあります。そんな中で、「こんにちは」、「おやすみ」だけでなく、もうすこしナカミのある会話がかわされるようになりました。

 テーブルにかざられた花の話から、それをもってこられたuszさんのご自宅での人間関係がちらっと見えてきました。nktさんのお話からは、ピッカピカの1年生とおばあちゃんとのツーショット姿が見えてきました。そして、ご子息が富山在勤の縁で、新潟から富山の老人ホームへ転居されたというwtbさんは、「新潟にくらべて、富山の空は高い」というコトバで、富山の自然環境や生活環境のよさをほめちぎっていました。こんな話、富山の県知事さんや市長さんが聞いたら、喜ばれるでしょうね。



ヒマつぶしに、まわりを「観察

デイ・ケアをするスタッフのみなさんはキリキリマイしておられるようですが、ケアされるがわのわたしどもにとっては「待ち時間」みたいな時間がかなりあります。自分ひとりで、なにをしてもよい、フリーな時間にはちがいありませんが、だからといって、ひとりだけ読書したり、テレビを見たりというわけにもゆきません。では、どうすればよいか?  

イネムリでもしていたら?それも、やってみました。しかし、あまりいい感じがしませんね。そこで、思いついたのが、まわりを「観察」することです。デイ・ケアの施設・設備、スケジュールの設定・運営など。自分でかってにモノサシをつくり、評価してみます。あるいは、通所者みなさんのカオブレを観察して、高齢化社会、男女別平均年齢、さらには日本の人口問題にまで推測をめぐらすことになります。「観察」とはいいましたが、じっさいはじぶんのアタマの中で、あれこれ考えているだけ。まわりの人の目には、「ボケーッとして座っている」姿にしか見えないでしょう。これなら、だれにもメイワクをかけないですみそうです。

 この「観察」をつづけてみて、一つ気づいたことがあります。それは、デイ・ケアに通っているあいだに、そこが「もう一つの自宅」と感じるようになっていた、その意識変化に気づいたこと。そしてまた、まわりを「観察」しているうちに、「観察」している自分の姿を発見したということです。ちょっとしたオドロキであり、フシギな感覚です。ひとりでに、佐藤正樹さんの、あの詩作スタイルを思いだしていました。



「地名は歴史を語る」講演会

 920日(水)午後、富山市西町キラリホールで冨山第一銀行共寿会の講演会があり、富山近代史研究会会長竹島慎二さんが「地名は歴史を語る」と題して講演されました。

 はじめに、アケビ[山女](魚津市)・サンヨシ[三女子](高岡市)・ノデワラ[勝木原]( 高岡市)・ヨメダン[鼠谷](富山市)などの難読地名や、コウベ・カンベ・コウド・ジンゴ(いずれも[神戸])などの同字異読などを紹介。つづいて、「古い地名の多くは自然地名[景観]」であり、「地名は弥生時代からの本格的な水稲農耕の普及によって急増」したことを指摘。そのうえで、古代(律令政府が統治のために地名を作成・・・好字二字令など)、中世(武家社会+荘園制・・・荘園、武士の生活、交通や流通機構の発達、神社・寺院などに関係する地名)、近世(城下町+新田開発・・・城下町の形成や検地・新田開発にちなむ地名など)にわたって、具体例をあげながら、理路整然、しかも分かりやすく解説されました。

 おしまいに、「何故『越』、『富山』?」として、「越(古志)の国」=アイヌ語の「ク・シ」?(渡る)と解釈する例を紹介したり、「地名から地域の特色を推定」する方法(たとえばサワ[]がつく地名、沢新・沢端・野沢・前沢・米沢などから、もともと湿地帯だったと推定できる)を提案するなど、サービス満点の講義でした。むすびのコトバは、「地名とは、古代からの歴史遺産であり、歴史の生き証人(歴史の文化財)。」

 「しかし、それにしても・・・」と、わたしは考えます。地名表記にかぎったことではありませんが、「日本人は、漢字にたよりすぎ」ですね。モジというものがなかった当時の日本では、漢字はたしかに便利で役にたつ道具でした。話をした瞬間に消えてしまうコトバを記録にのこすことができ、空間・時間の制約をうけることなく、イツ・ドコででも再生できる。カミワザのような、ありがたい道具でした。しかし、ツゴウのよいことばかりではありません。フツゴウなこともあります。漢字は、もともと漢民族が漢語を記録するために考案したモジです。日本語(ヤマトコトバ)の音韻組織は漢語のそれとかなりちがいますから、漢字だけでは日本語を書き表わすのに不便なことがあります。そこで、ガタカナやひらがなが生まれました。ほんとうはこの方向でつっぱしればよかったかなと思いますが、現実はやはり「漢字だより」が主流の時代がつづきました。



「好字二字令」の功罪

その典型が「好字二字令」(『続日本紀』和銅652日条)だろうと思います。この[]によって、日本全国の地名表記法が泉→和泉、木→紀伊、粟→阿波、近淡海→近江、多邇麻→但馬などのように修正されました。なんでもかんでも、カッコいい漢字を2字ならべさえすれば、カラ[]ふうでハイカラなんだと考えたのでしょうが、じつはまったくのカンチガイで、ナンセンス、バカげた発想でした

 「好字二字令」は、漢語の文脈(音韻感覚)でこそ意味があります。漢語としての漢字は「1字=1音節」にきまっており、「前後」「左右」など、2字(=2音節)をならべることで「バランスがとれる」(安定感が生まれる)という美意識がいっぱんに定着しています。しかし、ヤマトコトバの文脈では、漢字1字1音節、2音節、3音節など、まちまちな音形に対応しています。漢字を2字ならべたからカッコいいというのは、ミセカケ(字形)だけの話。じっさいの中身(音形)が1音節、3音節など奇数のままでは、漢語ふうの(音韻面からの)安定感が生まれる道理がありません。

それだけではありません。漢詩や英文の詩の世界でだいじにされてきた「韻を踏む」(音形をそろえる)という作業が、日本の詩作の世界であまり重視されてこなかったという事実()とも関連する問題かと思います。詩作とは門外漢のわたしですが、あえて問題提起させていただきます。いかがでしょうか?



越中の7・8世紀金銅仏 

 922日(金)午後、茶屋町,豊栄稲荷神社日本海悠学会の研修会があり、富山考古学会会長西井龍儀さんが「越中の7・8世紀金銅仏、宮嶋村の白鳳仏」と題して講演されました(写真)。要約して、ご紹介します。

 これまでの調査で、78世紀の金銅仏として、①氷見洞窟(鞍骨)如来像、②千光寺観音菩薩像(砺波市芹谷)、③玉泉寺観音菩薩像(速星)、④本覚寺観音菩薩像(富山市富崎)の4体(いずれも銅製仏像で、国の重要文化財)が存在することが確認されていた。

 最近の調査で、元富山県宮島村(現小矢部市)から金沢市西光寺へ移された銅造菩薩立像が、鳥取県大山町の大山寺が所蔵する国の重要文化財「銅造十一面観音立像」とよく似ていることが分かり、「兄弟仏」の可能性もある。

 さて、「富山・石川両県で、五体目の重要文化財指定か」などの報道を聞くのは、たいへん楽しいことです。しかし、その報道を安心して信用できるのは、その内容の真実性考古学独特の客観的・多面的・合理的な調査・分析によって裏打ちされていると考えられるからです。

 

マキ[]も モク[]m-k音タイプ

たとえば、富山県の1か所で78世紀の金銅仏が発見されたという場合、世界史規模で宗教(神道・仏教)・農耕(焼き畑・イネ耕作)・牧畜・ヤキモノ(木炭・土器・陶磁器)・金属精錬(金・銀・銅・鉄)などについてチェックしてみることも必要でしょう。

金銅仏についてなんの関心も予備知識ももたない人にとっては、それこそ「ネコに小判」。その素材が木材でも金属でも、あるいはそれがいつ・どこで発見されようと、なんの意味もないことです。ぎゃくに、歴史家としては、まずそれら断片的な情報をよせあつめ、つきあわせたうえで、総合的な判断をくだします。そこで、さまざまな「断片的な情報」がおおきな意味をもつことになります。そして、その「情報」は、すべてコトバとして処理されているので、「情報」の真実性を議論するまえに、まずそのコトバ(用語」そのものについて議論し、共通理解してからでないと、そのあと議論がかみあわず、客観的・合理的な結論がでないおそれがあります。

その点で、これまで「わかりきった用語」として、あまり議論しないまま使ってきたものについて、ここでいちど読みなおしてみてはどうかと考え、提案いたします。たとえば、「カネ[金・鐘]とコム[]」、「カミ[上・髪・守]とカミ[]とカム[神・噛・醸]」「マキ[巻・牧]とモク[牧・目]など。

西井さんも、「古代遺物は未確認ながら、屋波牧原牧などの牧地名がどこまでさかのぼるか注意すべき所」と指摘しています。ついでにいえば、マキ[]は日本コトバとされていますが、日本漢字音モク・ボク、上古漢語音miuek、現代漢語音muヤマトコトバのマキ[]は、動詞マク[巻・枕・娶](四段)の連用形兼名詞形で、①巻く。まといつける。からみつける。②妻として抱く。めとる、などの意味を表わしています。漢語モク・ボク[]の字形も、もともと「牛の繁殖を示す」ものであり、「モ・ボ[]、マイ・バイ[](なこうど)と同系」とされています。

ヤマトコトバのマキ[]も 、漢語のモク[]も、おなじくm-k音タイプ。それぞれ同系の単語家族をかかえ、いわば単語家族まるごとの対応関係を見せています。単なる偶然の一致と見すごしてよいでしょうか?

     

花束
 7月の悠学会研修会で、会員のみなさんへ『コトダマの世界Ⅱ』を1部ずつ贈呈させていただきましたところ(8月は夏休み)9月研修会のこの席で、みなさんからお礼の花束をちょうだいいたしました(写真)。ありがとうございます

2017年9月16日土曜日

本の評判など


  鶏頭とニラの花 9/11


 うたの時間 9/11 


富山大橋通郵便局 9/11 


おたより(一部) 



鶏頭とニラ 9/11

 911日(月)。デイ・ケアの日9時半、迎えのクルマで、200㍍ほどはなれた施設まで移動する。ここで入浴をすませ、やがて昼食。午後、かるい体操などをした後、オヤツをいただく。そして3時すぎ、クルマでホームへむかう。毎回こんな日程になっています。

 入浴とかるい体操だけでまる1日かかるということになると、なんとかしてもうすこし効率的なスケジュールが組めないものかという疑問もないわけではありません。ここで、「モノの見方、考え方」という問題が出てきます。

 ホームでは、住人の安全ともにプライバシー保護にも重点がおかれ、ややもすると孤独な生活になる恐れがあります。そこで、デイ・ケアでは、集団行動に重点をおき、社交性・社会性を回復・温存し、孤独化をさけるために、このようなシステムを採用したと解釈することもできます。介護施設としての浴場の設備や職員の配置などを考えれば、やはり現行のような方式になるのかもしれません。

 たとえば、部屋には五つのテ-ブルがおかれ、それぞれ4人の席が指定されています。座席指定は随時変更されることになっていますが、こうして毎回(2回)おなじテーブルで顔をつきあわせていると、ひとりでに親しみがわき、コトバをかわすようになります。

 また、窓ガラスや壁にイロガミでおった花やヒモがかざられていますが、これもみんなの共同作業によるものなので、仲間意識をはぐくむもとになっているようです。

 そして、この日も、テーブルの上の花瓶に鶏頭とニラの花がかざられていました(写真)。この花は、毎回仲間のuszさんが自宅の花壇からつみとってこられるのだそうです。



うたの時間 9/11

 通所者の中に9月生まれの方が三人おられ、出席者全員でHappy birthdayを歌ってお祝いしました。また、この誕生祝いの会にあわせて、「歌のお姉さん(?)」がこられ、虫の声」、「故郷の空」、「こきりこ節」、「夕やけこやけ」などの歌を、みんなでいっしょに歌いました。

 いつもだと、体操の一環として、スタッフの号令にしたがって「イチ・ニ・サン・シ・・・ハイ」で歌いはじめ、1曲終わると、一服する間もなく、号令一下、すぐにつぎの曲を歌いはじめることになります。それぞれの歌がもっている情緒をあじわっているヒマがありません。

そもそも、人の心をウツ[]ものウタ[歌・唄・唱]なんですから、まずは自分が歌の文句に心を打たれ、その流れでこんどは自分からまわりの人の心に打ちかかる(歌いかける)のがスヂだと思います。そして、自分と相手との心の交流を感じとることができれば、それこそが歌うことの楽しみであり、醍醐味だろうと考えるのですが、いかがでしょうか。



富山大橋通郵便局 9/11

 佐藤正樹さんからの紹介で、横澤康夫さんからやや専門的な書評がとどきました(くわしくは後述)。そのお礼のてがみに補足資料を同封して郵送するため、郵便局までいってきました。ホームから100㍍そこそこの近所ですが、帽子をかぶり、郵便物はカバンに入れて肩にかけ、2本のストックを使っての外出となりました。郵送料は380円だとわかりました。

 この郵便局のナマエが「富山大橋通郵便局」。「丸の内」というナマエは使われていません。なるほど、この道はすぐに「富山大橋」に通じるトオリ[]なんですね。

 丸の内のホームへ転居してから、ほぼ4カ月になりますが、自分の足で近所を散歩したことがほとんどありません。郵便局の手前に諏訪神社があり、には睡蓮(?)やガマの穂、さらにはカメの子が日向ぼっこしている姿も見えるのですが、ここは「防火用水池」として管理されてるとのことで、なんとも「フゼイがない」、「味もそっけもない」感じです。この日も素通りしてしまいました。

 それだったら、松川でも散歩したらということになりますが、連日のあつさで、まだいっぺんも松川まで足をのばしたことがありません。つまり、いまのところ、わたしの散歩道は、ホームからこの郵便局までということになります。



おたより、資料など

『コトダマの世界Ⅱ』について、電話・メール・はがき・てがみなどで、たくさんの声をよせていただきました。これまでのところ、はがき計25てがみ計17などとなっています。そのうちはがき数枚をえらんで、写真でご紹介しました。

そのほか、おりかえしご自分の作品を送ってくださった方もおられます。すでにブログでご紹介した小澤俊夫さんや佐藤正樹さんの作品がその例ですが、ご紹介したい作品はほかにもあります。



図書館などへの寄贈について

先日、富山県立図書館から『コトダマの世界Ⅱ』寄贈にたいする礼状(731日付はがき)がとどきました。公立図書館などへの寄贈は別ワクを予定していましたので、わたしは県立図書館へ発送した心当たりがなく、ハテナと思っていました。

912日(火)、仙石正三さんが「めぐみ」へ来訪され、ことの真相が分かりました。「悠学会」の席で贈呈された本を、仙石さんが県立図書館へ持って行って見せたところ、その場ですぐ寄贈資料としてとりあげられたということでした。これで、ナゾがとけました。わたしから仙石さんへ、あらためて1部贈呈して、一件落着。仙石さんには、ほんとにお世話になりました。

ここでもういちど、公立図書館などへの寄贈についてお伝えしておきたいと思います。もともと県下の公立図書館を中心に、100部ほどの別ワクで寄贈する予定でいました。ただ、富山市立図書館などでは、あらかじめ審査委員会で審査し、合格したものだけ受けつけるという話も聞きました。それくらいなら、ぎゃくに、寄贈してほしいといわれる図書館などへ優先的に寄贈するほうが、ムダな手数がはぶけて、よさそうだと考えています。

図書館でも、あるいは小中高の学校教育現場などでもかまいません。当事者でも、あるいはそのまわりの方でもけっこうです。あの図書館、あの学校へ寄贈してほしいとお考えでしたら、どうぞごえんりょなくお申しいでください。一人でもおおくの人にこの本を読んでいただくこと、そして「読んで、役に立った」と感じていただけること、それが著者としての願いです。

 なお、わたしはクルマも運転できませんし、こちらから本をおとどけする足がありません。恐縮ですが、丸の内のホーム「めぐみ」までおいでくださるようお願いします。

 また、個人で購入されたい方には、(店頭販売では消費税込み2700円となりますが)、12000円でおわたしします。郵送の場合は、送料(1300円)をご負担ください。





横澤さんからの書評

 さきに佐藤正樹さんあてにこんどの本をおお送りしたところ、「自分は専攻がちがうから」と、わざわざ中国語専攻の横澤康夫さんへ転送して、「書評」を依頼してくださいました。96日、その「書評」がとどきましたので、以下ご紹介させていただきます。なお、「書評」の中に、イズミへの質問なども含まれていますので、各項*印以下にイズミの文面を記述させていただきます。



泉興長様

初めまして、熊本市在住の横澤康夫と申します。

先日、先生旧知の佐藤正樹氏より、先生の御高著『コトダマの世界Ⅱ』が送られてきまして、書評を書いて先生に届けて欲しいとの依頼がありました。佐藤氏と私は大学時代一緒に山に登っていた仲で、私が中国語を学んでいたものですから、何か気の利いたモノが書けるのではないかと期待して依頼を寄せたものと思います。

 しかし、御著書を一読、大変興味深い内容でしたが、私は音韻論など先生の研究対象とされている方面については全く門外漢であることを思い知らされました。先生のお役に立つような話はとてもできません。ただ、いくつか感想を書き連ねて責を果たす?ことに致します。

*「音韻論など…全く門外漢」とおっしゃいますが、著者自身、もともと「まったくの門外漢」だったものが、かってに「象形言語説」(仮説)をたてただけのこと。学会・学界で公認されたものはなに一つありません。横澤さんのこの「書評」が中国語専門家からの書評第1です。貴重な資料として、拝読させていただきます。



先ず、先生と私の間に若干のすれ違いのご縁があると感じたことが2点。私は1961年の東京外語中国語の卒業で先生の遥か後輩に当たります。次に御著書の中に199810月に熊本大学で開催された中国語学会の年次大会で発表されたとの記述がありますが、当時私は当番校・熊本学園大学の外国語学部長をしておりました。ただ学会当日は種々の雑務に追われていまして先生のご発表を聞くことはありませんでした。いささか残念です。

以上は御著書の内容とは関係のない話です。

*熊本学園大学では、たしか「日漢英のk-r音比較資料」について報告させていただきました。こんどの本では、4章「クルマ=サイクルのカラクリ」にあたります。横澤さんとのご縁は「袖すれ合うも、多生の縁」といったところでしょうか。



さて私が先生の御著書を読んでいて、最も強い印象を受けたのは、日・漢・英を含め、各民族語は人類語の一方言に過ぎないというご指摘です。そのことは、御著書の中で音韻面などから詳述されているところです。そのことについて、私は当否を述べる知識も資格もありませんが、感覚的には納得できる話でした。それでふと思いついたのは、旧約聖書の創世記に記されている「バベルの塔」の物語です。人類共通の言語がここでばらばらにされたということですが、旧約聖書の言う通りなら、人類は過去に共通の言語を持っていたことになります。。

 先生のご研究はそれを復元する作業にもなるのではないかとも思いました。いかがでしょうか。

*いまの段階で「日・漢・英を含め、各民族語は人類語の一方言に過ぎない」というのは、あくまでも「推定」にとどまり、「断定」はできません。「断定」するまえに、やるべき作業手続きがのこっているからです。人類語の中で、インド・ヨーロッパ語については、インドをふくめて各地の民族語について、相互の位置関係などが分かってきています。しかし、日本語や漢語とまわりの民族語との関係はとなると、言語比較の方法さえ準備できていません。この地域の住民は、数千年にわたって、漢字という表意モジの便利さにおぼれ、「モジはコトバをしるす道具にすぎないこと」、「コトバは、もともと音声信号であること」をわすれてしまいました。

 どうすればよいか?インド・ヨーロッパ語の研究者がやったように、日本語や漢語の戸籍調べ(単語家族の研究)をすすめ、適確な比較資料(単語や単語家族)をそろえたうえで、比較してみることです。共通の土俵で、共通のルールで比較することによって、合理的・客観的で説得力のある結果や結論がえられるわけです。

 インド・ヨーロッパ語の実態が明らかにされたのは、200年ほどまえとされています。いいかえれば、日本語と外国語との音韻比較研究は、世界水準にくらべて200年ほどおくれていることになります。しかし、音韻比較研究の方法についてはちゃんと前例があるのですから、やる気になりさえすれば、5年か10年のあいだにかなりの成果があがることも期待できます。

 旧約聖書の「バベルの塔」などについては、わたしはキリスト教徒ではなく、十分理解できていませんので、発言する資格がありません。



 次に三巴紋の話も興味深く読みました。御著書では世界各地に見られる三巴紋の例が挙げられており、それにはそれぞれの社会の生命観、世界観、宇宙観、理想社会へのイノリがこめられていたとのご見解です。三巴紋は日本の庶民生活の中にもでんでん太鼓の模様や家紋などにもよく見られるようです。また韓国の太極旗の模様は二巴紋です。こうした事象についてこれからも先生の「ボチボチの歩み」の中でいずれご説明があるものと期待します。

 *三巴紋にのめりこんだころのことを思うと、「若かったな」と感慨シキリです。その後、日本語の単語家族研究に集中してしまいましたので、巴紋の実態把握はアトマワシになってしまいました。いまの「ボチボチの歩み」では、「見果てぬユメ」に終わりそうですが、どなたか若い方々に、ぜひ正面からチャレンジしてほしいテーマです。



 韓国の話を出したついでですが、先生のご研究では日・漢・英にしぼっておられますが、日中の間にある韓国語・朝鮮語については今後研究の対象にはならないのでしょうか。研究対象外ということであれば、それにはなにか理由がおありでしょうか。関係のない話かも知れませんが、韓国ではごく一部を除き漢字を排除し、ハングル中心の表記が使われています。北朝鮮では全く漢字を使用していません。同じ漢字圏でもベトナムでは中國語源の言葉をベトナム固有の言葉に置き換える政策がとられていると理解しています。一方中国では毛沢東の指導で、一時漢字を廃止し、ローマ字表記のみにする試みも行われましたが失敗に終わっています。漢字という特異なモジを使用する日本語の世界戦略と関連してですが、私は各国語の将来は時の政治、政権、あるいはあるいはナショナリズムなどにより決定づけられる運命が強いという思いを持っていました。先生のご研究とはあまり関係のない話とは思いましたが、感想を言わせていただきました。

*「象形言語説」の立場からいっても、漢語・英語にかぎらず、アイヌ語・琉球語・韓国語(朝鮮語)・モンゴル語などとの音韻比較を進めることが必要です。わたしがこれまで日漢英の3言語にしぼって音韻比較を進めてきたのは、わたしの語学力ではこれで精いっぱいだったからです。この種の研究では、個人の能力には限界がありますから、できるだけおおくの研究者が協力し、責任分担をきめて作業をすすめるのが効率的です。

 韓国・北朝鮮・中国などのモジ改革の流れも、重要な研究テ-マの一つです。この面で見ても、いまの日本文科省のモジ政策は、世界のながれから数十年もの時代おくれだといわなければなりません。

 なお、中国のモジ改革についていえば、1958年に中国語表音表記(中国式ローマ字つづり)を制定、小学校でまっさきにこのローマ字つづりを習得し、これをたよりに漢字の発音を習得できるようにしました。その結果、いまでは中国全土、どこでも共通語(北京語)が通用するようになっています。



 さて、五十音図、六十四音図の話です。まず五十音図をローマ字表記にして考えることは、日本語の理解を促進する上で効果が大であることは先生のおっしゃる通りです。私が家庭教師をしていた時の経験ですが、国語のできがあまりよくまかった中学生にローマ字表記で五十音図を教えたところ、国語の成績がなぜかみるみる上がったということがありました。現物は見ておりませんが、六十四音図を使えばチャンポン語の日本語がいっそう理解しやすくなり、言われているように日本語が外国人にとってもさして難しい言語ではなくなるのではないかとうことがおぼろげに理解できました。ただ、ちゃんぽん語で同音異義の多い日本語がどこまで理解しやすいものになれるのか、いささか疑問にも思えました。

*おなじく日本語といっても、いわゆるヤマトコトバが主流で、漢語その他の外来語がすくなかった時代には、日本語の音韻組織を理解するのに、「五十音図」が大変役に立ちました。しかし、現代日本語では、漢語やカタカナ語などがおおすぎて、「五十音図」では説明しきれない、つまり役に立たないようになりました。ナゼか?「五十音図」はふつうカナ(カタカナ・ひらがな)で表記されます。カナは表音モジではありますが、音節モジであって、音素モジではありません。ヤマトコトバと外来語ではもともと音韻感覚がちがうので、やはりいちど音素段階まで分解したうえで、あらためてコトバの音形や意味を再構成するような方法が、そのコトバの実態をとらえることにつながると思います。

 『64音図』というのは、「五十音図」の21世紀版をめざし、また(日本人の)漢語(中国語)・英語の習得(入門期)にも利用できるようにと考えた試案です。もちろん,なんの権威も、実績もありません。ただ、これをきっかけに、おおくの音図(試案)が提案され、議論されることを期待しています。

 いまの日本語がかかえている問題の中でも、漢語による同音異義のコトバがおおいことは深刻な問題です。ただし、たとえばコウエン[公園・公演・講演・好演・後援・高遠・口演・広遠・香煙]などは、現代漢語でもそれぞれちがった音形で発音されていますから、中国内では同音異義の問題は発生しません。それを日本語にとりいれたとき、ヤマトコトバの音韻組織にあわせて(もとの音形のチガイを無視して)、ゴタマゼにして、コウエンという音形で呼ぶことにしたために、これほど大量の同音異義のコトバが発生したわけです。漢語自体に、なんの責任もありません。漢語を無制限にとりいれた日本人の責任であり、できるだけ早く解決すべき問題です。



 先生は日本語の現代化、国際化にとって、最も基本的な課題は、文書の横書き化が徹底されていないことだとのべられています。国語教科書を初め新聞、雑誌、文芸作品もいまだにタテガキだと慨嘆しておられます。。先生は日本語辞典についても同じことを考えておられると思います。確かに日本語辞典は縦書きのままですが、私の知る限りではただ一つ集英社の国語辞典には横組み版があります。助動詞、動詞の活用表だけはタテグミですが、ご参考になれば幸いです。

*「集英社の国語辞典には横組み版がある」ことを教えていただき、ありがとうございました。日本語辞典の現代化、国際化という点では横組みとすべきはもちろんですが、「時代別にみた音形の変化」や「単語家族研究資料(語根と派生語の関係など)」など、客観的な判断資料を充実すべきだと考えています。



 最後に先生のこれからのご研究への期待を申し上げます。かってエスペラントが一部知識人の中で世界語として流行した時期がありました。先生のご研究が深まり、いろいろ述べられている仮説が定説になる時が来れば、日本語の将来を更に乗り越え、新たな世界語いや人類語につながる成果が拝観できるのではと期待がふくらみました。そうなればこのぎくしゃくした世界がもっと融和にみちた新しい世界に変化するのではないかとも考えました。(以下省略)

*このあと、日本語が人類語の一員として、どのような役割をはたすことができるか、なかなか予測がつきません。しかし、これまで日漢英の3言語の音韻比較作業をすすめてきた中でも、純粋なヤマトコトバと考えられてきた語音の中に、漢語や英語の語音とみごとな対応関係をしめす事例が多数見つかったことも事実です。このさき、さらにおおぜいの研究者たちが、またさらにおおくの民族言語との比較研究をすすめるようになれば、それだけ日本語(ヤマトコトバ)の実態(人類語の中での位置や役割など)も次第に明らかになることでしょう。
 「あの国(民族)は人類の敵だ」ときめつけると、あとは戦争へとつっぱしることになります。「人殺し競争」というバカなマネだけは止めましょう。「盗人にも三分の理」というコトワザもあります。まずは先入観念をすて、おたがいナットクゆくまで話しあうことが必要です。よくよく念をおさないと、あとで「あの時は、力で押しきられた」、「協定の見直しを要求する」などといわれることになりかねません。





本の評判など



2017年9月10日日曜日

「佐藤正樹作品集」と「三輪山伝説」


佐藤正樹作品集」


『古事記』を読む会  9/3 


花かご 9/3 




「佐藤正樹作品集」をいただく

 こちらから『コトダマの世界Ⅱ』を送った見かえりに、佐藤正樹さんから「詩と紀行の作品集」が送られてきました。表紙のタイトルはすこし変わっていて、「こんにちは」、「小学校のある台地」、「春山日記・長靴の山」3行並べて表記されていました。

 佐藤さんは学生時代からの登山愛好者で、こんどいただいた本も、詩と紀行の雑誌2017年版といったところです。わたしは登山も詩作も門外漢ですが、佐藤さんが作詞されるときの視点に興味をひかれ、これまでもかってにブログで紹介したりしてきました。今回も、以下にすこし引用させていただきます。



こんにちは



公園

重そうに上半身を運ぶ人 ボールのように弾ませる人



TV前の人

 新聞を見ながらパンを噛んでいる 小動物のように



誕生日

 へえーいつの間にかこんな齢 といまだ幼いとしよりびと



保育園

 傍を通る オルガンの響きと子供の声の大きな入れ物



会話

 夕日に人と犬の後ろ姿 リードは見えないが人と犬の会話が見える



小学校帰り

 揃ったり離れたり自由に筆先のように歩いている



トイレ起き

 また闇夜に突き刺さって眠る 楽な向きを探し





小学校のある台地



空の色

 青い空白い雲ポプラの高木

 高原はミドリの波を抜ける電車

 盆地に下ると空はしらける

 山は遠のきかすんではるか



看板と着物姿

涼しげな顔と着物のポスター

―ポスターの足が少し動いた

日傘の女性が下半身にいた



足もとへ

ときどき躓き 引きずる

考えを変えてみた

20キロほどを背負って山道を移動する

すなわち走れない跳べない

すると妙に落ちついて歩いている



足の先から

山道歩きが裏町歩きになった

舗装わき 草の秋や吸い殻ごみを見て歩く



杖を

よその人への言葉にする

  ブレルカモシレナイ

倒レルカモシレナイ

こちらも車には立ち止まってよける

人さまには離れて通る



地面の上で

軽快な太い足

裸か足が大股

自由に子供足

どの足も苦も無く動いている

感心している杖の足



五尺のぼっか

急げない走れない

追い越される 自分になる

歩いている 自分の足で

下ろせない自分を背負って



足取り

なんと柔らか なんときれい

手をつなぐ大人も子供も

両手に荷物を持つ人も

一軒いっけん何か配っている足も

  杖突き人の今日の発見



春山日記について

 1985年、大学山岳部の春山に参加させてもらった。

 鉛筆書きの当時の日記。10×7センチの手のひらに載る小さいノートが見つかった。我ながら判読しにくい。何日かかけてパソコンに書き移してみた。ちゃんとした記録はリーダーの向一陽さんから発表されており、(「CHAALET 4号」、「記録-若き日の山」その他)、自分だけの私的な日記だ。食べ物飲物のメモが多いのには笑ってしまう。泊った場所がはっきりしないところもある。当時は宿泊場所は書き留めるまでもなく、自分にとっては明確だったのだろう。

 縦走後半は参加のみなさんの会話記録が多くなる。面白くて書きとめた記憶がある。





『古事記』を読む会

93日(日)10時から茶屋町豊栄稲荷神社『古事記』を読む会研修会藤田富士夫さんが「三輪山の祭祀をめぐって」と題して講議されました。藤田さんは、『古事記』(崇神)の「三輪山伝説」に対応する資料として、『日本書紀』の「箸墓伝説」を提示、また三輪山にかんする考古学上の基本的な資料(三輪山遠望写真、箸塚古墳などの形態図、この地域の大型古墳分布図、遺跡出土品、など)を提示・解説されました。

 いずれにしても、三輪山はもともと山全体がご神体であり、基本的に禁足地。絶対的な権威・威光をもつ山とされてきたようです。それでは、その権威・威光と呼ばれるものは、いったいいつ・どこで・なにが・どうなって生まれたのでしょうか?この日の研修会のおかげで、すこしだけ分かりかけた感じもしますが、まだまだすっきりしないところもあります。そのあと、わたしなりの流儀で、歴史学・考古学から見た事実と、ミワヤマという語音構造との対応関係について考えてみることにしました。

まずはミワヤマという語音を音節段階ミ・ワ・ヤ・マまで分解し、それぞれの音節が表わす基本義をたしかめたうえで、あらためてミワ・ヤマという2音節語の意味構造を考えるという方法です。この場合、[多音節語の意味]=[(構成要素としての)各音節がもつ意味の総合]というのが基本原則です。



ミが表わす意味

上代日本語のミ音には甲乙の区別があり、ミ[水・神・三・見]などは甲類ミ[実・身]などは乙類とされています。音形として具体的にどれだけのチガイがあるのか、分かりにくいようですが、イズミは単純に解釈しています。ウミダス姿が甲で、。ウマレル(ウミダサレル)姿が乙です。動詞ム[産]の連用形兼名詞形がミ(甲)と考えてもよいでしょう。

ミ[水]は、「どんなせまい」スキマでも、シミワタリ、ミタス[]存在。

ミ[神]は、万物をウミ[生・産]ダス根源的な存在。また、ウミだしたもののどこかにスミつき、カミつき、カブリつき、その運命を支配する存在。

ミ[三]は、はじめにヒトツの線があり、それにフタをする姿でフタ[]をする姿から、やがて数詞フタ[二]が生まれ、さらにその上下二線のスキマにミツ[]・ミタス[]姿から、数詞ミツ[三](初期は漠然多数の意)が生まれたと考えられます。

[]は、動詞ミル[見]の連用形兼名詞形で、まわりのスミズミまで視線をめぐらせ、エモノをミトメル・ミツケダス姿。野生の動物・植物・果実・鉱物などをミツケルことは、そのまま財貨をウム[生・産]ことにつながります。


ワが表わす意味

発声するとき、口の形はかならず[]の姿になります。したがって、ワという語音をきいただけで、ワ[]の姿を連想することができます。一種の擬態語と考えると、分かりやすいでしょう。

ワという語音は、母音ウからアに移行するときに生まれるものであり、ワ行音はヤ行音とならんで、一種の拗音と考えることもできます。ア行音にくらべて、やや複雑な構造をもつ語音ということで、それだけ複雑で独特の意味を表わすことになります。

発声するとき、クチ・クチビルがみごとな[]の姿になります。このワ[]は、イキ・コエ・コトバがワキデルところです。たとえばワク[湧]は、ワク[分](まわりをオシワケテ浮かび出る)姿であり、ワカ[]・ワケ[分・別・訳]と同系です。本体からワカレタものは、それだけワカイというワケです。また、ワラ[]・ワリ[]・ワル[]・ワレ[]なども、ワ[輪](ワレて中がカラッポ)の姿を表わしています。



ミワが表わす意味

 ミワは「ミ+ワ」の構造。ミワが表わす意味は、「ミ音が表わす意味とワ音が表わす意味の総合」。そこで、結論はこうなります。

 ミワは、「ミのワ」。おなじくワといっても、「ワレて、中がカラッポ」のワ[輪]ではなく、ワ(=ワク)の中にたくさんのミ[実・身](動植物・鉱物資源)がミチていることをミ[見]とどけ、やがてその資源をウミ[生・産]ダス作業をふくめてミワとよんだものと考えるべきでしょう。

ミワヤマの姿をワ[輪]の姿と見たのは、さまざまな意味をこめてのことかと思われます。三輪山は、平地からながめて見てもワ[輪]の姿に見えないことはありませんが、それよりも、山の頂上から、もしくはさらに上空からながめたほうが「輪を積みかさねた姿」として実感できるだろうと思います(たとえば、等高線で描いた地図など)。ちょうどハニワ[埴輪]をつくるときのように、土で作った輪をいくつも積みかさねた結果として、三輪山ができあがったという感覚です。

 なお、ついでにヤマ[山]の語音構造についても分析すべきところかと思いますが、ヤ・ヤマ・ヤマトなどについては、『コトダマの世界Ⅱ』の最終章「ヤ[矢・屋・谷・哉]の系譜」の中でかなり突っこんだ議論をしたあとなので、ここでは省略させていただきます。



花かごをいただく
 このまえ日本海文化悠学会(7/28)のときと同様、『古事記』を読む会でも、研修会のあと、出席のみなさまへ『コトダマの世界Ⅱ』を1部づつ贈呈させていただきました。そして、そのお返しとして、みごとな花かご(写真)をいただきました。ありがたくちょうだいして、ホームまで持ちかえりましたが、さてどこにかざろうかとマゴマゴしました。お花のナマエも、おぼえているのはユリとカーネーションくらいで、あとはサッパリ。お花さん、ゴメンアサイ。