2017年9月30日土曜日

お墓まいりと土なべぞうすい


カーテンの影もよう 9/25


墓まいり 9/2 


田園風景(立山町) 9/2 


ぞうすいの店 9/27 


土鍋ぞうすい 9/27  






カーテンの影もよう

 925日(月)。デイ・ケアの日。窓ぎわのテーブルに席がありました。この時期でも、午前中は日ざしがつよいので、カーテンで日ざしをよわめています。窓ガラスには、イロガミでつくった花やリボンがはりつけてありますのので、それが無地のカーテンにうつって、くっきりと影もようをつくります。影もようは、日ざしの変化につれて、微妙に変化します。午後になると、太陽の位置が変化し、影もようが消えます。カーテンも、無用となります。



老人ホームの話

926日(火)午前、mori夫妻来訪。わたしが老人ホームへ転居したり、本を出版したりしましたので、どんな生活をしているのか、心配になって、様子を見にこられたとのこと。ホームでの生活について、わたしから、こんなふうに報告しました;

  このホームは、老人用住居として最高の安全性・利便性を持っていると考えられること(三食付きで、パソコンも使えるなど)。

  毎週1回、内科検診を受ける(1階が桝谷内科医院)ほか、2回デイ・ケア施設に通っていること(入浴・昼食・リハビリなお)。また、週2回、ヘルパーさんに来てもらいること(掃除・洗濯など)。」

  経費の面から見て、年金生活者としてはゼイタクすぎる生活だが、このさきン十年生きているはずもなく、あと1年でも、ひと月でも、安全に生きのびることが信子の供養にもなる。また、まわりの人たちにも、それだけ安心していただけるはず。そう考えて、決断したこと。



タイム・スリップ、70

 よもやま話の中で、こんな話も聞かせていただきました。mori家に毎月こられるお寺の住職さんから、「あんたとこ、イズミ オキナガさんの親戚け?」とたずねられ、70年まえの思い出話をされたとのこと。その話とは;

戦後間もない1947年ころ(住職さんが西別院仏教青年会の世話役をしていた時)、会合の出席者の中にイズミ・オキナガと名乗る人物がいて、しきりに発言していたことを記憶している。先日の新聞で『コトダマの世界Ⅱ』の記事をよみ、すぐに当時の記憶がよみがえり、「こんどの本の中で、どんなことを発言しているのか、ぜひ1冊購入して、たしかめてみたい」と考えている。そんなお話でした。

 いわれてみると、わたし自身にも記憶があります。中國(張家口市)で敗戦をむかえ、翌年1946年)5月末帰国北海道まで帰る予定でしたが、信子の実家がある富山を素通りするわけにもゆかず、途中下車の感覚でたちよりました。信子の母や姉妹たちに引きとめられるまま、2~3日滞在の予定がずるずる伸びて、やがてそのまま定住にむかっていました。

 わたし自身、中国大陸で死を迎えることを覚悟していましたから、北海道でも、富山でも、なんとかして生きてゆくカクゴでしたが、いざ現実となると、やはりいろいろ問題がでてきます。中でもいちばんのナヤミは、富山の人たちと「会話」することのむつかしさでした。わたしはもともと北海道出身。中学校を卒業ししたあと、東京で4年、つづいて中国大陸で5年間生活。いずれも、日本各地出身の人たちのヨリアイ社会でしたから、相手の心のウラまでよみこんだ会話をしている余裕がありません。正面からずばりホンネで語りあうことで、ようやく会話が成立していました。

 ところが富山では、そういう言い方が通用ししないというか、きらわれるようです。自分が考えていることをそのまま発言した場合、相手がどんな感じでうけとるか、そこまで計算したうえで、コトバをえらんで発言するべきだということのようです。まだ20歳代だったわたしに、そこまでの計算はムリ。「ホンネで語ることの、どこがマチガイなのか?」となやんでいました。

 そのとき思いついたのが、「富山は浄土真宗王国」ということでした。自分が『歎異抄』の愛読者だったこともあり、浄土真宗の学習サークルに入れていただければ、富山の人たちと会話できる道が開けるかもしれないと考え、富山の西別院へ通ったことを、いまでもおぼえています。

 あのときお世話になったお寺さんが70年間をタイム・スリップして、イズミの名を思いだしていただいたとの話に感激、さっそくmoriさんをとおして、本を1冊謹呈させていただきました。そして、mori家から、多額のカンパをちょうだいしました。ほんとうにうれしく、ありがたい一日でした。



お墓まいり

927日(水)午前10時すぎ、長念寺さんをむかえて、信子の月命日のお経をあげていただきました。そのあとすぐ、mioriさんと二人で、立山町沢端のお墓へ向かいました。ほんとうは、23日の秋分の日あたりにと考えていましたが、mioriさんのつごうもあり、おくればせながら、なんとか墓参りが実現できました。この日は、すこしがあり、ローソクや線香が着火しにくかったのですが、がふらなかったので、たすかりました。



高齢化社会の典型

 かえりみち、五百石tsmtさんのお宅をたずねました。うまいこと、在宅でした。足腰がよわって、自分の足で立ち上がったり歩いたりすることができず、トイレへ行くにも、車いすを使ったり(店内の移動)、這いずったり(居室フロアでの移動)しておられました。

 それでも、毎日の生活様式は、ほぼむかしからそのままのようです。店のフロアのまん中に火鉢をすえ(炭ではなく、灯油)、ヤカンをかけてを沸かしてあります。来客があれば、茶わんに湯をそそぎ、しばらく冷ましてから急須に入れ、ゆっくり茶わんに移します。

そのお茶を飲んだときの、舌先でトロケル甘味、そしてノドゴシのなめらかさ。なつかしい味をごちそうになりました。

 tsmtさんの生活ぶりを見たり聞いたさせていただき、自分の場合ともくらべあわせ、これこそ高齢化社会の典型だと思いました。生活の安全性や利便性も大切です。地域社会との交流継続も大切です。ムジュン関係にある要求をどこまで調整できるか?むつかしい問題だとおもいます。



ぞうすいの店

 立山町から富山へ帰る途中、大島の「村田家」で昼食をとりました。わたしは「土鍋ぞうすい」、mioriさんは「餅入り土鍋ぞうすい」を注文。あつあつのぞうすいを食べ、mioriさんの餅も半分もらって、おなかがいっぱいになりました。
 「村田家」といえば、もと東町にお店があったころ、何回か連れて行ってもらったことがありますが、大島の店ははじめてです。昭和7年、「うどん、そば処」として創業、とりわけ「ぞうすいの店」として評判になっていましたが、そのご山室・古澤へ移転。そして今年425日に大島へ移転、新装開業したとのこと。大日橋のたもとに居を構えた村田家は、店内もひろびろとして、清潔な感じでした。天候がよければ、おおきな窓ガラスごしに、立山連峰のながめを楽しめるそうです。

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