富山新聞にも紹介記事 8/26
『ときを紡ぐ』(上)
富山新聞にも照会記事
8月23日付の北日本新聞に『コトダマの世界Ⅱ』の紹介記事がのっていたことについては、前回ご報告しましたが、それから3日おくれの26日、こんどは富山新聞が、ほぼおなじ要領で、紹介記事を組んでいました。
ほぼおなじといっても、くわしく見ると、やはりちがった点もあります。北日本新聞の記事を担当されたのは文化部のわかい女性の方で、記事全体として見ても、それだけ現代風の感覚に仕上がっているようです。それにくらべて、富山新聞の記事を書かれたのは、社会部の比較的年配の男性記者で、丸の内のホームまで来て、取材していただきました。特大の活字を使って「コトバ研究続け」、「97歳で集大成」、「『音が言語つくる自説、一冊に』」などの大見出しで読者にアピールするとともに、著者が中国語を学び、やがて日本語と中国語の音韻比較、さらに日漢英3言語の音韻比較をつづけ、象形言語説にたどりついた過程を、かなり正確に伝えています。たとえば、「北日」の記事では「満州の鉄道会社、華北交通へ入社」と表記されているのに対して、「富山」の記事では「南満州鉄道の流れをくむ国策会社『華北交通』へ入社」と表記されています。著者としては、より正確に報道していただく方がありがたいのですが、いまのわかい記者さんに「満州」と「華北」のちがいを認識するよう求めることがムリな時代になっているのかもしれません。
ついでに写真のことでいえば、「富山版」では、『コトダマの・・・』の本のわきに、漢語と英語の辞典(『学研・漢和大字典』と『アメリカの遺産、英語辞典』)を積みかさねてあるところがミソです。どちらもわたしがもっとも信頼し、愛用しているものですが、ながい年月のあいだに、ついつい机から落下させてしまうことがあり、もともと頑丈にできている装丁をいためたままになっている現状をさらけだしてしまいました。
言語観のズレ
こまかなことは別として、富山県全体をカバーする複数の新聞紙上でこれだけ報道されたということは、たいへんな光栄であり、ありがたいことです。ただし、これで一件落着と浮かれているわけにはまいりません。富山県という地域で、一つの問題をなげかけ、なんとか受けとってもらえそうなメ[目・芽]が出てきたという段階です。現実は、まだイズミの個人的な研究にすぎません。地域の国語学界・言語学界の承認も受けていません。
先日、佐藤芙美さんが電話で言っておられました。「この本を見せると、おもしろそうだと言ってくれます。でも、買ってくださいとお願いすると、そのあとサッパリなんです」と。現実はそんなものかと思います。
日本人は、国語や外国語について、それぞれ特定の言語観をもっています。おおくの場合、それは確信的なものであり、じぶんの言語観と日本語や外国語の実態とのあいだにズレがあるかどうかなど、考えてみたこともないようです。
「ひとりひとり、ちがった言語観をもっていても、問題ないじゃん」といわれるかもしれません。たしかに、そのとおりです。しかし、日本民族・日本国全体の問題として、もういちど考えてみてください。日本の文書の様式や表記法は、教科書から新聞・雑誌・単行本にいたるまで、ほぼ日本人(多数派)の言語観にしたがって決定されたと考えてよいでしょう。しかしわたしは、これまで日漢英3言語の音韻組織の比較作業をすすめてきた過程で、日本人の言語観と言語の実態とのあいだに、おおきなズレが起きていることに気づきました。そして、このズレがもとで、日本の文書の様式や表記法は、世界の水準にくらべて数十年もおくれたままになっていると考えています。
コトバの世界では、百年でも千年でもつづく伝統をだいじにします。だから、言語観が保守的なのは当然です。じぶんが毎日つかっているコトバの実態を見せつけられるとなれば、まるで自分自身がスッパダカにされるみたいで、危険な感じがする。とりあえずはエンリョしておこう。そんな心理状態かもしれません。
ここで、もういちど考えてみましょう。おなじく日本語といっても、『古事記』や『万葉集』が書かれた時代にくらべて、たくさんの漢語やカタカナ語をふくも現代日本語の実態は、あきらかにおおきな変化を見せています。言語の実態が変化しているのに、言語観を修正しないというのは、マチガイだと思います。そして、危険なことだと、わたしは考えています。みなさまはどうお考えでしょうか?
『ときを紡ぐ(上)』を読む
『コトダマの世界Ⅱ』出版にからんで、さまざまな方からお手紙や資料などをいただきました。その中から、まず『ときを紡ぐ(上)・・・昔話をもとめて』(小澤俊夫著。2017年5月、小澤昔話研究所刊)のことをご紹介させていただきます。「泉おきなが様、2017年7月15日,小澤俊夫」と署名入りで、佐藤芙美さんをとおしてちょうだいした本です。
小澤俊夫さんは征爾さんのお兄さんで、お父さんが小澤開策さん。つまり、わたしが東京外語の学生時代からいろいろお世話になった大恩人です。この本のなかに、北京市新開路の小澤公館や新民会東京事務所についての記述があり、自分自身の記憶と照らしあわせながら、くりかえし読んでいます。
以下、マエガキや本文の一部を、直接引用して紹介します(各項、はじめの数字は、本文掲載のページ数。また、*印以下は引用者の所見)。
戦場での手柄話
<まえがき> 小学校5年生の1学期まで、中国の北京でそだちました・・・中学時代、3年生の八月15日までは、戦争の最中でした…北京時代には、日本兵たちから、戦場での手柄話をたくさん聞きました。手柄話の内容は、言い換えれば全部、中国の庶民への残虐行為でした。日本国内にいるときには優しい父であり、息子であった人たちが、中国では鬼畜のような日本兵だったことを知ってしまいました。このことはほとんど知られていないことなので、どうしても書き残しておきたいと思ったのです。*このあと、本文の中でも、より具体的に、手柄話の内容が紹介されています。
「征爾」、命名の由来
(17)父は板垣征四郎、石原莞爾を尊敬し、石原のつくった東亜連盟の中央委員をしていた。そのころ生まれた三男には、ふたりの名前をもらって征爾と名づけた。
五族協和は言葉だけになった
(18)陸軍内では東条軍閥が覇権を握り、石原は退役し板垣は南方軍司令官に移された。五族協和の精神で創立された協和会も日本官僚の支配するところとなり、五族協和は言葉だけになり、じっさいには日本帝国による支配という姿がはっきり見えてきた。
新開路の小澤公館
(1936年秋、奉天から北京へ移住・・・東単牌路の新開路35号)
(32)新開路のわが家は大きな邸宅だった。小澤公館とよばれていた。両脇に狛犬のいる赤い門には金属の取手があり、来客はそれを叩いた。呼び鈴のようなものである。入ると見っ側に事務室、正面に小さい中庭があり、そのまん中には、応接間に通じる石の通路があった。左側にはボーイのいる部屋、その奥にボーイの家族棟、その奥に車庫。中央の応接間を抜けると広い中庭。その正面に大きな居間。居間の左側に畳の寝室。中庭の左のファンヅ[房子](いくつかの部屋からなる区画)は客人たちが泊まるいくつもの部屋、右側は食堂とお手伝いさんの部屋。食堂と中央の居間の間に台所や風呂場。この房子の配置は当時、北京の裕福な家の典型的な形である。*イズミが華北交通に入社後、セビロ姿で小澤公館の中庭で写した写真があり、ブログ「七ころび、八おき」でも紹介しました(2011年1月25日号)。
戦争のタテマエと現実
(42)(日本兵がヤンチョ代を踏み倒した話から)、今にして思うと、このギャップが。敗戦後になっても、日本人全体の、あの戦争にに対する認識の誤りとして、いつまでも尾を引くことになったのである。つまり、日本の建前としては、日本が大東亜共栄圏の盟主として、アジアの国々を欧米の支配から解放してやることが戦争の目的だった。しかし実際には、アジア人に対して鬼畜のような振る舞いをしていたのである。中国、韓国をはじめアジアの人たちは、今もってあの悪鬼のような日本人を責めているのである。ところが、日本国内では、建前としての戦争しか知らない。しかも、戦争で心ならずも命を失った日本軍人ばかりを、神として崇拝している。そればかりか、あの戦争を指導した軍や政治の指導者たちをも神として祀って、そこに首相が参拝しているのである。アジアの人たちがおこるのは当然と言わざるを得ない。
傷痍軍人たちの手柄話
(43)母は国防婦人会の活動としても、陸軍病院へたびたび慰問に行った。僕らもよくついていった。重賞出ない傷痍軍人たちは退屈しきっているので、ぼくらをつかまえては戦場の話をしてくれた。勝者として得意になって話すのだが、すべてなまなましい、血なまぐさい話だった。
軍隊が進軍していって、村に近づき、畑でおばあさんが働いていると、必ず射殺した。なぜなら、日本軍が近づいてきたことを中国軍に知らせるからだ。スパイをするからだと、当然のようにいっていた。村に入ると、にわとりや豚を食料として調達した。軍票(軍隊が発行するお金)で買うこともあったが、ほとんどの場合は奪ったということだった。それらのことを、日本の傷痍軍人たちが、ぼくら子どもに得意になって話していた。
南京攻略に参戦した兵隊がいて、てこずったときには、毒ガスを使ったと、これも得意になって話してくれた。ぼくらも、こわいと思いながら好奇心に駆られて聞き入ったものだ。
日本官僚を批判
(50)アジア諸民族の協和という理想を掲げて、満洲国が建設されたが、それは瞬く間に日本から来た官僚たちによって支配され始めた。その中でも最も悪質だったのが岸伸介だったと、父はくり返しいっていた。「あいつは私利私欲のかたまりだ」
「満州国」から「華北」へ
(51)満州国が日本官僚によって、いわば占拠されてしまったとき、かって石原莞爾の指導のもと東亜連盟に結集した人たちは、要職からはずされ、満州で理想を追求することは不可能になった。そこで、次には中国において民族協和の実践をしなければならないと考えた。父は東亜連盟の人たち、おそらく、石原に次ぐ指導者だった山口重次の指示によって、中国へ赴き、まずその足場を作ることになったのである。*大日本帝国敗戦のあと、日本人はどこまで国家観・世界観を修正・再生できたでしょうか?昔のままでは、また失敗をくりかえすだけ。自信喪失では、自滅するだけ。「満州国」で失敗したら、「華北」で 理想実現をめざす。「七ころび、八おき」、したたかな生命力をもちつづけたいものです。
『華北評論』で、日本軍部を批判
(53)1940年。ヒトラーが政権をとってから7年。ユダヤ人迫害を強め、ポーランドなどへの侵攻を始めていた危険な年だった・・・父は、その2年前ごろから、『華北評論』という政治評論雑誌を発行していた。父は、当時、政治に関わる人間のふつうの道として、天皇を崇拝し、お国のために働くことを国民の義務として疑わなかった。だからこそ、日本の軍部が中国人を搾取し、横暴を極めることが許せなかった。それで、この『華北評論』で、日本軍部批判の論陣を張ったのだった。・・・雑誌は、創刊号から軍部の厳しい検閲を受けた。そして、発酵された雑誌のあちこちが、墨塗りを命じられた。僕は、山と積まれた新刊の雑誌を、編集員たちの手伝いをして、墨塗りしたことをおぼえている。*最近北朝鮮の動きが過激で不可解などといわれていますが、日本でも東条内閣時代の動きとくらべてみると、よくにていることがわかってくるように思います。
「日本はこの戦争に勝てない」
(58)日本中が皇紀二千六百年に沸いていたころから、父は「日本はこの戦争に勝てない」といいだした。その根拠は、第一に日本が中国民衆を敵にまわしてしまったからだという。各地に散らばって中国人との最前線で働いてきた日本の若者たちの報告を聞いたり、中国農民の直訴を聞いたりして、父には、日本が中国の民衆を敵にまわしてしまったことがわかっていたのだろう。第二は、そういう状況にいたってもなお、日本の軍人や官僚は事態の深刻さに気づかないばかりか、ますますその横暴、官僚主義が募っていく状況が変わらなかったからであろう。*イズミは1941年、華北交通へ入社、大同駅貨物助役のころ、本社企画の論文募集に応募。その中で、「大陸鉄道建設には、現地従業員の全面的な協力が必用。それには、日本人中心の人事制度をあらため、現地人の給与を改善するなどの配慮が絶対条件」と強調しました。そして、論文の最期をつぎのような文句で締めくくりました。
「これしきの深謀なくしては、大陸鉄道建設のゆめはかなわず、これしきの遠慮なくしては、日本国かならず滅びん」
林房雄と小林秀雄が居候
(61)父が北京で独り暮らしをしているとき、小説家の林房雄と評論家の小林秀雄が、約2週間、うちに居候していたことがあるそうだ。・・・従軍記者として派遣されて・・・3人の世話をしたのはぼくの従兄、高橋司典で、彼はぼくらが北京にいたころから父の書生のような立場ですみこんでいた。*高橋司典さんと佐門さんという名前だけは記憶にのこっていましたが、この本を読んで、やっと小澤家とのつながりが見えてきました。
東条英機が内閣総理大臣に
(66)(1941年)国民の間に天皇の絶対性がゆるぎなくなり、戦争への気概が高まったとき、文民内閣が倒れ、東条英機陸軍大将が内閣総理大臣になった。この発表があった日、母方の従兄、高橋佐門がうちに来ていた。彼はぼくより10歳年長で、父と時局についてよく話をしていたが、この日は、軍人内閣の危険性を、たまたま帰国していた父と話していたのをおぼえている。*この記述から見て、イズミが中国旅行を計画し、新民会東京事務所を訪ねたとき対応されたのは、高橋佐門さんだったかと思われます。
0 件のコメント:
コメントを投稿