2017年9月10日日曜日

「佐藤正樹作品集」と「三輪山伝説」


佐藤正樹作品集」


『古事記』を読む会  9/3 


花かご 9/3 




「佐藤正樹作品集」をいただく

 こちらから『コトダマの世界Ⅱ』を送った見かえりに、佐藤正樹さんから「詩と紀行の作品集」が送られてきました。表紙のタイトルはすこし変わっていて、「こんにちは」、「小学校のある台地」、「春山日記・長靴の山」3行並べて表記されていました。

 佐藤さんは学生時代からの登山愛好者で、こんどいただいた本も、詩と紀行の雑誌2017年版といったところです。わたしは登山も詩作も門外漢ですが、佐藤さんが作詞されるときの視点に興味をひかれ、これまでもかってにブログで紹介したりしてきました。今回も、以下にすこし引用させていただきます。



こんにちは



公園

重そうに上半身を運ぶ人 ボールのように弾ませる人



TV前の人

 新聞を見ながらパンを噛んでいる 小動物のように



誕生日

 へえーいつの間にかこんな齢 といまだ幼いとしよりびと



保育園

 傍を通る オルガンの響きと子供の声の大きな入れ物



会話

 夕日に人と犬の後ろ姿 リードは見えないが人と犬の会話が見える



小学校帰り

 揃ったり離れたり自由に筆先のように歩いている



トイレ起き

 また闇夜に突き刺さって眠る 楽な向きを探し





小学校のある台地



空の色

 青い空白い雲ポプラの高木

 高原はミドリの波を抜ける電車

 盆地に下ると空はしらける

 山は遠のきかすんではるか



看板と着物姿

涼しげな顔と着物のポスター

―ポスターの足が少し動いた

日傘の女性が下半身にいた



足もとへ

ときどき躓き 引きずる

考えを変えてみた

20キロほどを背負って山道を移動する

すなわち走れない跳べない

すると妙に落ちついて歩いている



足の先から

山道歩きが裏町歩きになった

舗装わき 草の秋や吸い殻ごみを見て歩く



杖を

よその人への言葉にする

  ブレルカモシレナイ

倒レルカモシレナイ

こちらも車には立ち止まってよける

人さまには離れて通る



地面の上で

軽快な太い足

裸か足が大股

自由に子供足

どの足も苦も無く動いている

感心している杖の足



五尺のぼっか

急げない走れない

追い越される 自分になる

歩いている 自分の足で

下ろせない自分を背負って



足取り

なんと柔らか なんときれい

手をつなぐ大人も子供も

両手に荷物を持つ人も

一軒いっけん何か配っている足も

  杖突き人の今日の発見



春山日記について

 1985年、大学山岳部の春山に参加させてもらった。

 鉛筆書きの当時の日記。10×7センチの手のひらに載る小さいノートが見つかった。我ながら判読しにくい。何日かかけてパソコンに書き移してみた。ちゃんとした記録はリーダーの向一陽さんから発表されており、(「CHAALET 4号」、「記録-若き日の山」その他)、自分だけの私的な日記だ。食べ物飲物のメモが多いのには笑ってしまう。泊った場所がはっきりしないところもある。当時は宿泊場所は書き留めるまでもなく、自分にとっては明確だったのだろう。

 縦走後半は参加のみなさんの会話記録が多くなる。面白くて書きとめた記憶がある。





『古事記』を読む会

93日(日)10時から茶屋町豊栄稲荷神社『古事記』を読む会研修会藤田富士夫さんが「三輪山の祭祀をめぐって」と題して講議されました。藤田さんは、『古事記』(崇神)の「三輪山伝説」に対応する資料として、『日本書紀』の「箸墓伝説」を提示、また三輪山にかんする考古学上の基本的な資料(三輪山遠望写真、箸塚古墳などの形態図、この地域の大型古墳分布図、遺跡出土品、など)を提示・解説されました。

 いずれにしても、三輪山はもともと山全体がご神体であり、基本的に禁足地。絶対的な権威・威光をもつ山とされてきたようです。それでは、その権威・威光と呼ばれるものは、いったいいつ・どこで・なにが・どうなって生まれたのでしょうか?この日の研修会のおかげで、すこしだけ分かりかけた感じもしますが、まだまだすっきりしないところもあります。そのあと、わたしなりの流儀で、歴史学・考古学から見た事実と、ミワヤマという語音構造との対応関係について考えてみることにしました。

まずはミワヤマという語音を音節段階ミ・ワ・ヤ・マまで分解し、それぞれの音節が表わす基本義をたしかめたうえで、あらためてミワ・ヤマという2音節語の意味構造を考えるという方法です。この場合、[多音節語の意味]=[(構成要素としての)各音節がもつ意味の総合]というのが基本原則です。



ミが表わす意味

上代日本語のミ音には甲乙の区別があり、ミ[水・神・三・見]などは甲類ミ[実・身]などは乙類とされています。音形として具体的にどれだけのチガイがあるのか、分かりにくいようですが、イズミは単純に解釈しています。ウミダス姿が甲で、。ウマレル(ウミダサレル)姿が乙です。動詞ム[産]の連用形兼名詞形がミ(甲)と考えてもよいでしょう。

ミ[水]は、「どんなせまい」スキマでも、シミワタリ、ミタス[]存在。

ミ[神]は、万物をウミ[生・産]ダス根源的な存在。また、ウミだしたもののどこかにスミつき、カミつき、カブリつき、その運命を支配する存在。

ミ[三]は、はじめにヒトツの線があり、それにフタをする姿でフタ[]をする姿から、やがて数詞フタ[二]が生まれ、さらにその上下二線のスキマにミツ[]・ミタス[]姿から、数詞ミツ[三](初期は漠然多数の意)が生まれたと考えられます。

[]は、動詞ミル[見]の連用形兼名詞形で、まわりのスミズミまで視線をめぐらせ、エモノをミトメル・ミツケダス姿。野生の動物・植物・果実・鉱物などをミツケルことは、そのまま財貨をウム[生・産]ことにつながります。


ワが表わす意味

発声するとき、口の形はかならず[]の姿になります。したがって、ワという語音をきいただけで、ワ[]の姿を連想することができます。一種の擬態語と考えると、分かりやすいでしょう。

ワという語音は、母音ウからアに移行するときに生まれるものであり、ワ行音はヤ行音とならんで、一種の拗音と考えることもできます。ア行音にくらべて、やや複雑な構造をもつ語音ということで、それだけ複雑で独特の意味を表わすことになります。

発声するとき、クチ・クチビルがみごとな[]の姿になります。このワ[]は、イキ・コエ・コトバがワキデルところです。たとえばワク[湧]は、ワク[分](まわりをオシワケテ浮かび出る)姿であり、ワカ[]・ワケ[分・別・訳]と同系です。本体からワカレタものは、それだけワカイというワケです。また、ワラ[]・ワリ[]・ワル[]・ワレ[]なども、ワ[輪](ワレて中がカラッポ)の姿を表わしています。



ミワが表わす意味

 ミワは「ミ+ワ」の構造。ミワが表わす意味は、「ミ音が表わす意味とワ音が表わす意味の総合」。そこで、結論はこうなります。

 ミワは、「ミのワ」。おなじくワといっても、「ワレて、中がカラッポ」のワ[輪]ではなく、ワ(=ワク)の中にたくさんのミ[実・身](動植物・鉱物資源)がミチていることをミ[見]とどけ、やがてその資源をウミ[生・産]ダス作業をふくめてミワとよんだものと考えるべきでしょう。

ミワヤマの姿をワ[輪]の姿と見たのは、さまざまな意味をこめてのことかと思われます。三輪山は、平地からながめて見てもワ[輪]の姿に見えないことはありませんが、それよりも、山の頂上から、もしくはさらに上空からながめたほうが「輪を積みかさねた姿」として実感できるだろうと思います(たとえば、等高線で描いた地図など)。ちょうどハニワ[埴輪]をつくるときのように、土で作った輪をいくつも積みかさねた結果として、三輪山ができあがったという感覚です。

 なお、ついでにヤマ[山]の語音構造についても分析すべきところかと思いますが、ヤ・ヤマ・ヤマトなどについては、『コトダマの世界Ⅱ』の最終章「ヤ[矢・屋・谷・哉]の系譜」の中でかなり突っこんだ議論をしたあとなので、ここでは省略させていただきます。



花かごをいただく
 このまえ日本海文化悠学会(7/28)のときと同様、『古事記』を読む会でも、研修会のあと、出席のみなさまへ『コトダマの世界Ⅱ』を1部づつ贈呈させていただきました。そして、そのお返しとして、みごとな花かご(写真)をいただきました。ありがたくちょうだいして、ホームまで持ちかえりましたが、さてどこにかざろうかとマゴマゴしました。お花のナマエも、おぼえているのはユリとカーネーションくらいで、あとはサッパリ。お花さん、ゴメンアサイ。

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