2015年4月28日火曜日

サクラ からの 連想、幻想

 
 
『古事記』を 読む 会
 
 
豊栄稲荷神社の しだれ桜 
 
 
福光美術館 
 
 
愛染苑 
 
 
 

庄川峡(宿の窓から) 
 
 
ゆめつづりを 出発 
 
 
 

412日(日)午前、豊栄稲荷神社『古事記』を 読む会の 新年度 第1回の 輪読会が 開かれました。1年間 かけて 中巻、応神天皇 まで いちおう 輪読して きました ので、きょうは 下巻、仁徳天皇の くだりを 一気に 読みあげようと いう こと でした。「后妃・御子と 御名代」「吉備の 黒日売と 皇后の 嫉妬」「八田若郎女」「三色の 奇虫」「雁の卵」「枯野という 船」など、おもしろそうな 話題が つづきますが、さて そこから ナニを 読みとるか、それが 問題だと 思います。

 文学作品として 読むか、歴史資料として 読むか、読む人の 意欲に こたえて 無限の 資料を 提供して くれると 思います。『古事記』を 読む会 も、これまで いろいろ 手さぐりで やって 来た 感じ ですが、このへんで いちど「会の 目的・目標」や「輪読会の ありかた」などに ついて、あらためて 話しあって みたいとも 思います。たとえば 会員 ひとりひとりに ついて、「とりわけ 関心の ある 分野・テーマ」、「独自の 研究方法や 仮説」などの 実態が わかれば、今後の 会の 進め方を 考える 上で 参考に なると 思います。また、会員同士で 研究成果を 交換しやすく なり、学習の ムリ・ムダを はぶく ことができるでしょう。なにはともあれ、全会員に とって もっとも 効率の よい 学習方法を 採用したい もの です。具多的には、毎回 輪読会あとの 時間を あてる とか、アンケート方式での 回答を まとめて プリント、配布する などの 方法が 考えられます。

 わたし自身の ことを いえば、「古代日本語 研究資料」として 利用する 立場 です(ブログ「オオクニヌシと スクナビコナ」2014.6.19.参照)。ヤマトコトバと 漢語・英語の 音韻比較資料を 採集する ため です。

 輪読会が 終わった あと、神社境内の 「シダレザクラ」を ながめて、スマホに おさめました。

 

 413日(月)。伊藤夫妻のご厚意で、ことしも 一泊二日の 花見旅行に つれて 行って いただく ことに なりました。午前10時、伊藤さんの 愛車に 便乗して 砂町を 出発。途中 砺波市・南砺市の サクラを 見物、南砺市 法林寺 福光美術館や 分館の 愛染苑棟方志功の 作品や 資料などを見学。14時 すぎ、庄川温泉 ゆめつづりに 到着。

 ことしは サクラの 開花が すこし 早まわり、つよい 雨風も なかった こと から、いたち川の 遊歩道を 散歩する だけでも 十分 花見を 楽しむ ことが できました。そんな ことも あって、ことしは 花見は そこそこに して、棟方志功の 作品や 関連資料の 鑑賞にたっぷり 時間を かける 気分に なりました。それにしても、福光美術館近代的な 美術館として 整備されて いる こと、あわせて 分館の 愛染苑志功 生存当時の 生活環境を そのまま 保存して いる ことに おどろきました。わたし自身は もちろん 面識が ありませんが、見学した 資料の 中に、当時 志功と 交流が あり、応援していた 人たちの 寄せ書きが あり、そこに 岩倉政治さん たちの 署名が のって いました。岩倉政治さんと いえば、もと 呉西出身の 作家で、ながく 富山市に 住みつき、わかい人たちと きさくに 交流して いました。わたしが 仲間と いっしょに 文芸サークル「ちんぐるまの会」を はじめた とき にも、いろいろ 助言して いただきました。

思いがけない ところで、思いがけない 人との ツナガリ(宿縁)に 気づかされた 旅でした。

 

サクラ からの 連想、幻想
 それにしても、日本人は どうして これほど サクラが 好き なの でしょうか?

 「サクラの 花見と いう のは 名目で、本心は 花より 団子。酒を 飲んだり、ごちそうを 食べたり、歌を 歌ったり して 遊びたい んじゃ ないの」などの 意見も ある ようです。実態は どう なって いる でしょうか?

ウィキペディアに よれば、サクラの 原産地は ヒマラヤ近郊と され、ヨーロッパ・西シベリア・日本・中国・アメリカ・カナダ など、おもに 北半球の 温帯に、ひろく 分布して います。その中で、日本人と サクラとの 関係は、他の 地域と くらべて いささか 格別の 濃密さを もって いる ようです。そして その原因は、日本列島が イネ農耕の 地域 だから では ないかと、イズミは 考えて います。

日本の イネ農耕は 水田栽培 であり、大量の 水が 必要 です。川から タンボまで 水を 引く ため、長距離に わたる 用水路を 作ったり、大規模な タメイケ[溜池](ダム)を つくったり しました。用水路や 溜池の 建設や 維持管理には、高度な 土木技術や 大規模な 労働力が 必要です。そして、完成した 用水路や 池の 土手に、たくさんの サクラの 木が うえられ ました。サクラの 「花見」とは、「開花までの 経過を 観察する こと」であり、これを 参考に「イネ耕作の 作業日程を サグル(立案する) こと」であり、また「イネの 豊作を いのって マツル こと」でも ありました。

  サクラと いう コトバは、『古事記』や『萬葉集』にも 出て きます。日本の 歴史は「イネ農耕に よる 列島改造」の 歴史で あり、いいかえれば、「イネ農耕用の 水路や 溜池を建設して きた」歴史です。その結果、日本列島 いたるところに「○○千本桜」と よばれる サクラの 名所が 出現して います。

 中国大陸では、敵対する 民族の 侵入を 防ぐ ために「万里の 長城」が 築かれました。日本では、河川の 氾濫から 農民を まもり、イネ農耕(水田)の 用水を 確保する ために、「川の 流れを ツツミコム(包囲する)作戦が とられ ました。それが ツツミ[包・堤]、つまり 川や 用水路、池などの ドテ[土手]です。この ツツミ[包・堤]で 囲まれた 内側が「水流の シロ[城・代]」ですが、その 外側も また「住民たちが 安心して イネ耕作 できる シロ[城・代]」だった わけです。

  万里の 長城が「農耕民族と 遊牧民族との 交渉」の中で 生まれた 世界規模の 文化遺産だと すれば、日本全国に 分布する「○○ツツミ[]」も また、「農耕民族と 自然(とりわけ 水)との ツキアイ」の 中で 生まれた 文化遺産だと 考えて よさそうです。用水の 取り入れ口や 途中の ツツミ[](土手)など には、高度な 土木技術が 用いられ、サクラを めぐって、西行法師(平安・鎌倉時代) はじめ、文学や 宗教の 分野でも 深い 関係が 見られます。

 「サクラと ツツミ[]や シロ[]と、なんの 関係も なかろう」と いわれる かも しれませんが、じつは 「おおいに 関係あり」です。日本語の サクラは、「動詞 サク+複数の ラ」などと 解釈されて いる ようですが、もともと「サ+ク+ラ」「サク+ラ」「サ+クラ」、いずれとも 解釈できる コトバです。いずれにしても、ヤマトコトバの 音韻感覚として、「サ=ヤ[箭・矢]」、「ク=[]」。サクは、「()が 來る]姿 だから、サク[裂・割・咲] 姿を あらわす ことに なる のです。サクラは、動詞 サクの 派生語 サクル[]の 名詞形と 解釈する ほうが 分かりやすいと 思われます。サクルサケル[裂・避]・サカル[]などと おなじs-k音語で、サクラの木をツエとして地面をツキサクル姿です。
手もとの 国語辞典には 「地面を くりぬいて 水を 流す。サク[]からの 派生か」と 解説されて います。やがて、サグル[探・捜]サガス[]にも 通じる 語音です。つまり、「サクラツツミ[] シロ[]は、「三位一体」という わけです。

2015年4月10日金曜日

サクラ サク、花ザカリ 

 
 
日本海文化悠学会総会
 
 
 新幹線拝見(金沢駅)
 
 
みやげもの店(金沢駅) 
 
 
『朴魯禅談集』 
 
 
雪見橋から 
 
 
赤いボート 
 
 
遊歩道 
 
 
 
 

日本海文化悠学会総会      
 327()、豊栄稲荷神社会議室で 日本海文化悠学会総会が 開かれました。会が 組織されて から 3年 すぎた この 時期に、これまでの 経過を ふりかえり、この先 どうするか 考えて みようと いう こと でしたが、みなさん やる気 満々で、いまの 体制で 続行と いう ことに なりました。かねがね、3周年を 期に 会誌発行計画が 進められて おり、この 日が いちおう 原稿提出日と されて いました。そんな しだいで、総会あとの 編集会議で いろいろ 議論が かわされました。

おくればせ ながら、この日 ようやく 会誌の 名称が 正式に「悠学」と 決定しました。

また、会誌発行の 費用負担 などに ついても、最終的な 方向が 出ました。これまで 計画の 途中で、①全額を 会および 会員の 負担と する、②外部団体 など から 補助を 受ける、③出版社と 相談する、などの 案が 出て いましたが、将来の 計画は 別として、すでに 原稿提出期限を むかえた 今回の 会誌に ついては、やはり ①の線が 無難だ という ことに なりました。

この日 わたしが 提出した 原稿の タイトルは「スミノエ神はMr. Smithだった(仮説)」。1995年に『スミ・シム・SMITH』を 発表して 以来、一貫して 主張して いる 持論です。この「仮説」が 世間一般の「常識」と なる 日を めざして、これからも 手を かえ 品をかえ、主張し つづける つもりです。

 

北陸新幹線 ためしのり      
 331()、晴。おいっこの Dtsさん から 電話が あり、「今から 花見に いかん まいか」との こと。まもなく、母親の Kzeさんを 車いす ごと クルマに のせ、妹の Hkmさんも 便乗して、イズミ宅 まで むかえに きて くれました。

 ここから「一行5人さま」で サクラ見物に 出かける はず だった のですが、いたち川べりの サクラ見物は そこそこに して、「ついでに、北陸新幹線 開通で 改装された 富山駅を 見に ゆこう」と いう ことに なりました。

新幹線 乗り場が 高架に なった ため、市内電車が 駅の 下まで 乗りいれる ことが できる ように なって いました。また、富山駅を 利用する 人たちの 数が 以前より おおくなった ようにも 見えました。それに しても、年寄りには やはり つかれ ますね。もうすこし、ベンチ ぐらいは ほしい です。

そんな ことを 考えて いる うちに、こんどは 「せっかく だから、新幹線に 乗って みよう」と いう ことに なりました。終着駅 金沢 まで 20。あっという間でした。スマホで 写真を とる チャンスが なかった わけでは ありませんが、わたしの 運動神経ではなかなか 対応でき そうに ありません。車内 から 外の 景色を うつそうと して いると、たちまち 防音壁に 変わったり、トンネルに はいったり します。金沢駅に到着してから、ようやく 新幹線の 機関車の姿を カメラに おさめました。

金沢へ 来たのも ひさしぶり。ちかくの みやげもの店 などを 見て まわりました。どの店も 品ぞろえが 豊富で、おおぜいの 客で にぎわって いました。新幹線開通を まちかまえて 加賀百万石を 日本全国へ 売りこもう とする 意気ごみ みたいな ものを 感じました。くらべて みると、富山の お店屋さんの ほうが おとなし すぎる 感じ です。       

 ちょうど おひる すぎの 時刻 だった ので、車いすの まま はいれる 店を さがして、ソバを 食べました。

別に 用事が あって 金沢まで 来た わけ では ないので、おりかえし 新幹線で 富山へ かえっ てきました。これにて、903名さまの ための 花見と 北陸新幹線の 旅は 無事終了。出たとこ 勝負で 予定が 変更される ため、老人 として は いささか 疲れ ましたが、天候にも めぐまれ、いい 思い出に なりました。

それに しても、要介護5の 母親を 車いす ごと クルマに のせて 運転し、富山駅で 車いすを おろし、 クルマを 駐車場に あずけて きて から、エレベーターを 利用して 車いすを 新幹線乗り場 まで おして ゆく…たいへんな 労働と 気づかい です。妹の Hkmさん ともども、いまどき めったに 見られない 孝行もの だと 思います。

 

『朴魯禅談集』          
 41()Usmさん から「朴魯禅談集」と いう 本を いただき ました。「知人の堀辺朴魯氏がこのたび出版した禅談集です」との こと でした。文芸社 セレクション(文庫版)63ページの 小冊子。表紙 カバーの 帯に、こう解説してあります。

 参禅、修行して知った「禅」について古今の天才禅師たちの教えや行状を織り交ぜて縦横に語る「禅の噺」

わたしは 自称「親鸞の弟子」で、『歎異抄』などは 読みましたが、禅に ついては まったくの 門外漢 です。しかし、せっかくUsmさん からの プレゼントでも あり、ポケット版の 小冊子で 読みやす そう だった ので、さっそく 読ませて いただき ました。

読みはじめると、気どりの ない 文章で、途中の リクツを 省略し、結論だけを ズバッと 述べる…そんな 感じ でした。ところどころ、「はてな?」と 思う ところも ありましたが、「なるほど」「そのとおり」と 共感できる ところも あり、なんと なく 「禅」に 親近感を おぼえ ました。

はじめに 目次を ざっと ながめて いた のですが、とりわけ「真の呼吸」「抜苦与楽」「神道は迷わぬ道、仏教は迷った後に悟る道」「出雲の大国主の大神少彦名の大神」「孔子」などの ミダシに 興味を ひかれ ました。ここ では、とりあえず「真の呼吸」の 項から、はじめの 数行だけを 紹介させて いただきます。

 真の呼吸というのは、鍛錬に鍛錬を重ねた結果の末に到達した呼吸という人為的な呼吸ではなく、宇宙一体に広がるとんでもない、それはそれは継ぎ目のない、じつにきれいな呼吸であって、自分のものではない、産まれる以前の世界の呼吸。ダルマの顕現というか、とんでもないものがあるのだ。

こんな 調子で、6ページに わたる 呼吸論議が はじまります。ただし、「真の呼吸 とは、どんな ものか」という 初心者むけの 解説は いっさい 出て きません。「只管打坐」「見性成仏」「見性(悟り)などの コトバは 出て くる のですが…このへんの ところが いかにも「禅問答」らしい ところ なの かも しれません。

 そこで、わたしも これに コキュウ[呼吸]を あわせて、イズミ流の 問答を 考えて みました。おもしろいと 思ったら、おおいに わらって ください。

Q: コキュウ[呼吸]とは、なんの こと?

: コキュウ[呼吸]漢語ヤマトコトバで いえば イキ[](を する こと)。コ[]は、イキを 吐きだす 姿。キュウ[]は、イキを 吸いこむ 姿。

Q: そもそも、イキと いう 語音が どうして[息・呼吸]の 意味を 表わす ように なった のか?

: ヤマトコトバの 組織原則 から 見て、イカ・イキ・イケ などの 語形は 動詞 イクから 派生した コトバと 解釈すると 分かり やすい。イク・ユク[行・往]は、もともとイク[射來]で、「が イク・ユク」姿。イク[生・活]は、生物・動物が イキを したり、自力で 移動(イク[])する 姿。矢の ように すばやく イク ものが イカ[烏賊]・イカダ[]。動詞 イクの 連用形 兼 名詞形が イキ[生・活・息]。イキつづける 意の 動詞が イキル[]。自動詞 イク[生・活](動四。生きる)に たいする 他動詞が イク[](動下二。生かす)。その 連用形 兼 名詞形が イケ[活・池]。つまるところ、「一生をどうイキルか」とは、「いつ・どこで・どんな イキ(息・呼吸)の 仕方を するか」の 問題。

   さて、みなさま わらって いただけ ました でしょうか?

 

サクラ サク、花ザカリ
 春と いえば、やはり サクラ です。いたち川べりの サクラは、ことしも みごとに 咲いて くれました。はじめに 書いた とおり、3月末には 開花。途中 雨が ふったり 風がふいたり しましたが、きょう410に なっても、まだ なんとか 持ちこたえて います。ここに 掲載した のは、44日に 散歩の おり うつした もの。「雪見橋 から」「遊歩道」など、毎度 おなじ 地点の 映像 ばかりで、いささか 気が ひけますが、これも 体力の 限界を しめす もの。一期一会。来年 また おなじ 光景を カメラに おさめる ことが できる という 保証は ありません ので。
サクラの や、花見用の ボンボリは 毎年 見なれた 姿 ですが、いたち川に うかぶ 「赤い ボート」は、こんど はじめて 見た 光景です。

2015年3月27日金曜日

春の いぶき 

 
 
いたち川
 
 
水仙 
 
 
白梅   
 
 
カモ きょうだい 
 
 
姚 さん からの メール(第3号) 
 
 
「こしのみちのなか」公開講座  
 
 
 

ひさしぶりの散歩
冬は どうしても 家の中に とじこもり がちに なります。

毎朝、顔を あらった あと、2030分 かけて、首・腕・腰・脚 などの 体操を します。自己流の ストレッチ という やつ です。

そのあと、「いたち川散歩」に でかける ことに して いる のですが、その 習慣が だんだん あやしく なって きました。冬に なって、足場が わるく なって くる たびに、そう 感じます。

「きょうは 雪が ふった から」、「すべって、ころんだり したら、タイヘンだ」とか なんとか いって、とりあえず 朝の散歩を サボリます。23日 サボルと、こんどは それが そのまま 習慣に なって しまい、やがて 運動不足と なります。ときどき 便秘がちに なるのも、運動不足で シリまわりの 筋肉などの ハタラキが よわって きた ため かも しれません。天罰 テキメン。身から 出た サビと いった ところ でしょうか。

そんな しだいで、この ブログでも しばらく「いたち川 散歩」の 画面が 登場しませんでした。ひとつには、ケータイ電話を スマホに かえた ので、ハイカラ すぎて カメラとして つかい こなせ なかった ことも あります。

しかし、毎日 家に こもって いると、ぎゃくに 散歩に 出たいと 思う ことも あります。きょうは、3月に はいって から 散歩に でた とき(7日、15) 目にした 風物を 画像でご紹介させて いただきました。

雪見橋 から ながめた いたち川は、まだまだ 春には とおい 感じでした。

土手や 遊歩道わき には、たしかに 水仙の カブが いくつも 見られますが、花 そのものは ここに 1輪、あそこに 1輪と いった ていど。それでも、せいいっぱい がんばって花を さかせて いる よう でした。

雪見橋わきの 白梅は、ことしも たくさんの 花を さかせて いました。ただ、かなりの 老木で、花も 小さくて 白色 なので、あまり 目立ち ません。クルマの ドライバーは もちろん、歩行者 でも、うっかり 気づかない まま 通りすぎて しまうかも しれません。

雪見橋下流で 見かける カモ きょうだいは、あいかわらず 健在 でした。と いっても、これは わたしが かってに 命名した だけの もの ですが、6羽の 生態 から 見て、親子づれ では なく、兄弟姉妹と いって よい でしょう。冬の 川面に うかんで、いつまでもあそんでいる 姿を ながめて いると、こっちまで なんとなく 春の イブキを 感じて しまいます。

 

姚 さん からの メール(第3号) 15.03.14.
姚 さん からの質問に答えて、3月13日にメールで返信したところ、14日にさっそく姚さんからメール(第3号)がとどきました。その内容を要約してご紹介します。

私がおたずねした問題は、いずれもたいへん回答しにくいものばかりだということが分かりました。「歴史にかかわった人たち」がだんだんすくなくなってきた、その今、あなたのブログを発見して、たいへん喜んでいるところです。ブログの内容は、ひきつづきくわしく読ませていただきます…

日本の国民も中国の国民も、戦争でおおきな苦痛を受けました。歴史という洪水の中では、平凡な人の人生こそが最も感動的な存在となります。わたしはブログ「七ころび、八おき」をよんで感動し、あなたの現在の幸福な生活と考えあわせて、さらに感動しました。中国人として、私は当時日本にいた中国人の中国語の先生たちがどんなふうに考えていたかを知りたいのですが、いまのところ探し出すことができた材料はほんのわずかしかありません。彼らは二つの国家がいずれもあまり関心をよせない無名の人であり、中には死亡した日さえ分からない人もいます。日記や手紙などはなおさらです。いま、わたしもまた日本で働いている中国語教師であり、彼らは私にとってすばらしい先輩たちなので、ぜひ彼らのことを理解したいと願っています。そして、あなたは彼らと直に接触したことがある方ですから、あなたの思い出話は私にとって極めて重要な研究材料となるわけです。

このまえのメールのとおり、私は3月26日に任期満了、帰国します。日本で3年という任期は終了しましたが、まだ完成していない研究はたくさんあり、帰国してからも継続したいと願っています。さいわいなことに、いまはインターネットがたいへん便利です。そのおかげで、あなたとはいちどもお会いしていないまま、あなたのブログやメールで交流することができました。これからも、なにか問題がおこったときには、これまでどおりご教示いただけるよう、お願いいたします!あわせて、お体を大切に、いつまでも健康でおられますように!

 

「こしのみちのなか」公開講座 
3月18日()午後、千代田町の まる十 2階で、「こしの みちの なか」第18回 公開講座が 開かれ、富山市埋蔵文化財センターの 学芸員 鹿島 昌也 さんが「水橋荒町・辻ケ堂遺跡に 見る 日本海文化」と 題して 報告されました。鹿島 さんは、とりわけ この 遺跡 から「坂井」と 書かれた 墨書土器が 出土した ことに 注目し、人名 または 地名と推定。ただ、古代越中の 地名・人名に「坂井」の 記録が 見あたら ない こと から、越前國 坂井郡 越後國 磐船郡 坂井郷との 関連に ついても 調査中との こと です。

考古学・歴史学に 門外漢の わたしは、ただ 感心して 拝聴して いた だけ ですが、サカヰという コトバを 聞いた とき、すぐ「ナルホド」と 感じて いました。サカヰの どこが どうして「ナルホド」なのか?もし よろしければ、わたしの 推論を おきき ください。

サカヰは、サカ[]+[]の 構造ですが、サカも また、①サ[箭・矢]の カ[]、②動詞サク[裂・](サ[]が クル[])の 名詞形(サク ところ)などの ように 分析できます。

ヤマトコトバ(漢語が はいって 來る 以前の 日本語)の サカ には、サカ[酒・逆・境・界・冠・尺・積]なども ありますが、音韻の面 からは 同根の コトバです。たとえば、サカ[坂・境・界]は「サカレル[被裂]、サケル」地形。サカ[]は「穀物の 実が サカレル、サケル、発酵(細胞分裂)する」姿。サカ[尺・積]は、「サキ[裂・割] ワケ[]た もの」の 分量、という わけです。

イズミの 私見 では、サカ・サキ・サケ などは 動詞 サク[裂・割・咲]の 名詞形と 解釈されます。さらに いえば、この 動詞 サクは 同類の 動詞 シク[敷・布・如]・スク[鋤・好・透・空]・セク[塞・堰・急・咳]・ソク[退・除]と ともに、s-k音 グルーグ(単語家族)の カナメと なって います。そして、このs-k音 グルーグは、ヤマトコトバの 音韻組織の 中で 重要な 役割を はたして います。

問題の 墨書土器は 8世紀後半の 須恵器だ との こと。つまり、大伴家持が 越中国守をつとめた(746〰751)直後 くらいに 当たります。大化の 改新(645)の あと、奈良に 都が 移され(710)、大和政権は 鉄利器 スキ[]に よる 列島改造を めざして 進軍。大伴家持も その 最前線 司令官と して 越中国へ 派遣され ました。

この 時期、大和政権は スキ[]で 田を スク[] 産業革命を すすめ、政権の 基礎を かためると ともに、コトバの 面でも 日本列島 共通語と しての ヤマトコトバを 育て あげました。

大国主神の 別名 八千矛神 とは、「大量の 武器」を ほこる ナノリ ですが、その 国づくりを 助けた のが スクナビコナ神。スクナは「スク[] []」、つまり スキ[]の こと。スクナ神の 伝承は、海外 から「スキで 田を スク」先進技術が もたらされた ことの 証言です。

建内宿禰の スクネや 蘇我氏の ソガ なども、やはり この s-k音 グループの コトバです。

 

「八紘一宇」論議 
3月18日の 北日本新聞に <八紘一宇「大切な価値観」>と いう ミダシの 記事が のって いました。

自民党の三原じゅん子参院議員は16日の参院予算委員会で、日中戦争から第2次世界大戦にかけて、当時の政府が用いた「八紘一宇」を「日本が建国以来、大切にしてきた価値観だ」と訴え、今後の日本のあるべき姿として紹介した。17日付のブログでも、重ねて言及した…

八紘一宇には「世界を一つの家とする」という意味がある。戦前・戦中には、天皇を中心とした日本の海外進出を正当化するスローガンとされた経緯がある…

三原氏は「現在の国際秩序は弱肉強食だ」と指摘。その上で「八紘一宇の理念の下、世界が一つの家族のようにむつみあい、助け合えるような経済、税の仕組みを運用していくことを確認する政治的合意文書のようなものを、阿部首相がイニシアチブを取り、世界中に提案していくべきだ」と持論を展開した。

質問された麻生太郎副総理兼財務相は「(戦前・戦中の)メーンストリーム(主流)の考え方だったと思うが、三原さんの世代にこうした考え方をもつ人がいることに正直、驚いた」と感想を述べた。

わたしも この記事には ビックリ しました。わたし 自身、東京外語 在学の ころ、里見岸雄(田中智学の 三男)さんの 講義を 聞く ため、神田の 明治大学講堂(?)まで 通った 記憶が あります。華北交通()に 就職して からも、石原寛治の『東亜連盟論』に 共鳴して いました。

その 点で、「八紘一宇」は わたしに とって ナツカシイ 感じの する コトバです。同時に また、「大日本帝国 敗戦」を もたらした スローガンと して 禁断の コトバ でも あります。
敗戦 から 70年。おくればせ ながら、「世界の 中で 日本人は どう 生きるか」と いう もっとも 基本的な 問題に ついて、おたがい ナットク ゆく まで 討論を つくす べき では ないで しょうか?国会の 場 だけ でなく、茶の間や イドバタ 会議の 場でも。

2015年3月13日金曜日

姚 偉嘉 さん からの 質問

 
 
姚 さん からの メール(2)




姚 さん からの 質問
おそく なりましたが、前回の お話の つづき です。216日、姚 さん から とどいた メール(2)の 要旨は つぎの ような もの でした。

あなたが 柴垣 芳太郎 さんと 同期生 だった とは 意外 でした。あなたと 知りあえて 光栄 です。

また、わたしの 研究に たいして 激励と 協力の おことばを いただき、ありがとう ございます。

日本で 勤務する ように なって、もう 3年。すこし ばかり、日本人 学生への 教育経験を 積みかさねる ことも できました。とりわけ 孔子学院では、わたしが もっぱら中国語を使って 授業を すすめる ように 求めて います (いわゆる【直接法】の 授業)。最初は うまく ゆかなかった のですが、現在では 基本的に 学生たちの 承認を 得て います。こうした 中国語の 授業を 通して、わたしは たくさんの ことを 学び とる ことが できました。研究を すすめるに つれて、明治・大正・昭和時代の 中国人 教師たちも、やはり このように して いた ことが 分かり、彼らの 授業ぶりに とても 興味を もって います。いま でしたら、画像や ビデオ などの 補助教材を 利用する ことが でき、学生たちも 電子辞典を もって いたり、ネットで 資料を しらべる など、いろんな 媒体手段が あり、学習指導に 役だって います。100年前の 日本 では、こうした 学習条件が 一つも なかった のです。そんな 時代 でも、高い 水準の 中国語 学生を 多数 養成する ことが できた とは!当時の 老師たちに 心から 敬服して います!

あなたが はじめて 中国へ 行かれた とき、日本で 学んだ 中国語が 日常生活の 中でもしごく 実用的だと 感じた ことが おあり でしょうか?(『急就篇』の 学習が あなたの 中国での 生活に 役だった でしょうか?)

もし よろしければ、当時 どうして 中国語 学習を えらんだ のか、お聞かせ いただけ ない でしょうか?また、包先生 など 中国人 教師が 教室で、もしくは 私的な 場で、あなたたちと 中日関係に ついて 話しあった ことは ありますか?

わたしは いまの 学生たちに 学習目的を たずねた ことが あります。年配の 人たちは、中国の 伝統文化を 理解する ため、中国旅行を する ため。わかい 人たちは、より よい職業に つきたい ため。大学生の 大部分は、単位を とる ため(漢字は、見れば 分かるので)。中には 少数 ながら、中国に 興味が あり、中国を 正しく理解し、中国人に むかって 中国語で 日本の ことを 紹介したい という 学生も いました。彼らの 話を 聞いて、たいへん 感動しました。これで、日中友好の 前途は 楽観できると 自信が もてました。しかし、歴史を 見ると、1940年代 日本の「中国語 熱」が こうした 目的 から 生まれた もの でない ことは 明らか です。当時の 中国人 教師たちは、この 点に 気づいて いた ので しょうか?彼らの 学生たちの 大多数が やがて 中国の 戦場へ 向かおう と して いました。その 学生たちも、この点に ついて どう 考えて いた ので しょうか?これが、このところ ずっと 私を 悩ませて いる 難題 です。あなたの 視点 から 見て どう なるか、いくらか でも お聞かせ いただければ と ぞんじます。

長々と 書きつらね ました ので、読む だけで おつかれの ことと おわび 申しあげます。寒い おりから、どうぞ お体を たいせつに!

 

問題点の 整理
ごらんの とおり、姚 さんは1940年代 日本の「中国語 熱」を 中心に、日本に おける 中国語学習の 実態を 追求して おられる ようです。そこで、たまたま 包老師の 学生 だった イズミに まで 中国語学習の 経過に ついて 質問を よせられた のでしょう。

できるだけ 正確に、ていねいに お答え したいと 思いますが、そのまえに まず、姚 さんが 提起した 問題点を、つぎの ように 整理させて いただきます。

  中国語教師 たちが 採用した 学習指導法[直接法]を どう 評価するか?

  1940年代 日本に おける 中国語学習の 実態(教師や 学生の 意識 など)を どう 考えるか?

  1937年に 東京外語に 入学した イズミは、そもそも どんな 目的で 中国語を えらび、そのご どこで、どんな 生活の 中で、 中国語と どんな 関係を もって きたか?

 

まず、①の[直接法]に ついては、214日 イズミ から 姚 さん あて メールで 返信した とおりです(前号ブログ参照)。

むつかしい のは、②と ③です。まさに 日本人 としての 歴史認識を 問われる 問題 だと 思います。いま ここで 思いついた ことを 数行の コトバで まとめる という 方法がある かも しれません。しかし、姚 さんが 求めて いるのは 抽象的な 表現では なくて、客観的な 裏づけの ある 真実 だろうと 思います。

その 意味では、わたしの ブログ「七ころび、八おき」を ごらん いただいた ほうが よろしいかと 思います。この ブログは サブタイトルを「わたしの リレキ書。イキザマ90年の 記録」と しました(梅棹 忠夫 さんの 著作『行為と妄想…わたしの履歴書』(中公文庫)を まねた ネーミング です)

イキル[] とは,イキ[]を する こと。イキは 空気の 流れ。また、雰囲気 です。どんな 時代、どんな 環境で、どんな イキの 吸い方を するか。それが その 人の イキザマです。旭川中学校・東京外語・華北交通、そして「大日本帝国 敗戦」。八路軍管理下で 半年。帰国後、富山市に 定住。中学・高校教員 として 英語・中国語を 担当。そのご、富山外国語専門学校で 中国語 非常勤講師 として 16年間。

北海道(旭川)~東京~中国(天津・唐山・大同・張家口)~富山。行く先々で、さまざまな人に めぐりあい ました(水上 勇太郎 先生。小沢 開策 さん=小沢 征爾 さんの 父。菅原恒有 医師。青竜橋 工務段の Y さん。唐山の 程 站長。八路軍の 朱 隊長、など)

いま ふりかえって みると、「若気の 至り」、「妄想と 妄動」の たぐいが おおく、失敗の 連続 だった とも いえます。しかし、その おかげで すこし ずつ 人間 として 成長できた とも 感じて います。

わたしの 人生 から 中国と 中国語を とりさったら、ほとんど カラッポに なる でしょう。ただし、わたしが じっさいに 中国語に どっぷり つかって 生活できた のは、帰国後 富山外專での16年間 でした。日間英の 音韻比較を 思いたち、「仮説・象形言語説」、「スミノエ神は Mr. Smithだった」、「現代日本語音図」(日漢英共通64音図) などを 発表できた のも この 時期です。

 

「孔子学院」に ついて, おたずね
姚 さん からの 質問に お答え した ついでに といっては 失礼に なりますが、わたし からも 姚 さんに おたずね したい ことが あります。よろしければ お答え ください。

それは、「孔子学院」および 姚 さん ご自身に ついて です。

富山に 住んで いると 情報不足で、真偽の ほどは よく 分から ない のですが、ネット などで みて いると、「孔子学院」の 設立目的や 運営方針 などに ついて いろいろ 評判に なって いる よう ですね。

姚 さん ご自身は どんな ふうに 考えて おられますか?

*「孔子学院」設立の 目的は?…「共産主義」「社会主義」と「孔子」(儒教)との 関係は どんな風に 解釈しておられますか?

*学問研究と 政治との 関係は?…「アメリカの 大学 では、学問の 自由に 反する との理由で、孔子学院との 契約を 解除する 動きが みられる」などの 報道が ありますが、姚 さんの 見方では どう なりますか?
3月には 帰国 という ことで、いそがしい 毎日を 過ごして おられる こと でしょう。この ブログが 姚 さんの 目に はいるか どうかも わかり ませんが、せっかくの ご縁が この あとも 長く つづく ことを 願って います。

2015年2月5日木曜日

夜光 NIGHT LIGHT

 
 
 
『夜光』表紙
 
 
東京都大田区西蒲田 
 
 
大阪市中央区道頓堀(部分) 
 
 
  佐藤正樹文集 
 
 
 
もう 一つの 宿題
遺伝子と 宇宙子』を 読む と いう 宿題の ほかに、もう 一つの 宿題が ありました。それは、新年 そうそう 佐藤 正樹 さん から おくられてきた 1冊の 写真集を 読む こと です。同封された 手紙に、こう 書かれて いました。
…私共の長男の写真集です。受取って下さい。ご覧いただければ幸いです。ご返事などのお心遣いはご無用にお願いいたします…
 
写真集『夜光』
佐藤 信太郎 著。201411月、青幻社から 発行。
この 写真集を 制作した 趣旨に ついて、著者自身の 解説を 読んでみます。
この本に収録されている写真は、1997年から99年にかけて東京と大阪で撮影された。主として繁華街と呼ばれる場所で撮影している。美しさとは縁遠いような猥雑な場所がもつ特有の美しさや雰囲気を捉えたいと思った…
撮影にあたり、街そのものを引き出すために、人影は消し去った。多くの人でにぎわう街角も、数秒だけ人波が途切れることがある。その間だけレンズを開ける。人が来た時にまたレンズの前を黒い紙で隠す…いわば人のいない瞬間の多重露光である…
…通りから人の姿を取り除くと、街は普段目にすることのない姿を現す…ネオンの過剰な色彩や光は、人を引きつけるという本来の役割を失ったように見える…人間が消滅し、人の制御を離れても永久に活動し続ける有機体を思わせる。
15年の歳月が過ぎ去り…今から振り返ると、世紀末の街は…小奇麗になっていく今の街より魅力的だったように思う。しかし、表層がどんなに変化していっても、根底に流れる、地霊(spirit of the place)ともいうべき、場所の持つ猥雑な美しさと固有の雰囲気は、街の歴史の奥底に残り続けていると感じている。
 
風変わりな 写真集
わたしは 音楽や 美術に かんする 教養が とぼしい ので、作品の 芸術性に ついて 批評する 能力は ありません。ただ、これまで 佐藤 正樹 さん から 作品文集を いただいており、それが わたしの よい 勉強に なって います。こんどは その ご子息の 作品 という こと なので、「なにか 新発見が ある かも しれない」という 期待 みたいな ものはありました。
この本の 表紙を 見た ときの 第一印象は、「風変わりな 本」という こと でした。まず、どっちが 表紙なのか、裏表紙 なのか、判断が つきません。ギラギラした 色づかいの カンバン文字が 目に せまって くる だけで、本の タイトルが 見あたり ません。じっと 目を こらして、さがす こと 数秒。ようやく「夜光 NIGHT LIGHT」と 読みとる ことが できました。
そのあと 著者自身の 解説(前記)を 読んで みて、「なるほど…ワカル」と 共感する きもちに なりました。 それと 同時に、「この 世界、この 風景、この 感覚」が わたしに とって 初体験では ない ように 思われて きました。そして、やがて、「風変わりな 文集」の 著者 と「風変わりな 写真集」の 著者が 父子関係に ある ことを 再認識し、あらためて「なるほど…ワカッタ」と 感じました。
 
佐藤 父子の DNA (遺伝子)
佐藤 正樹 さん とは ふしぎな ご縁で、これまで 「泰山木…その時の山…房総丘陵歩き…山行記録(1997) から 「ヌーベス・雲…歩いて日々…山野歩きの記録」(2014年)まで 計6冊の 文集を いただいて います。
「風変わり」という 点 では、この 文集の ほうが いっそう 「風変わり」といえる かもしれません。たとえば、本の タイトル6冊 とも 34行 ならべて 書かれて います。いっぱんの 単行本 では めったに 見られ ない 形式 です。ただし、この ばあいは アマチュアの 文集 です から、だれに 気がねする ことも なく、じぶんで ナットクできる 方法で、自由に 表現すれば よいと 思います。「風変わり」と 見るか、「個性的」と 見るかは、これ また 読む人の 自由という ことに なります。
文集の 内容は 詩作品が 主流 ですが、「山歩き、野歩き」などの 紀行文も ふくまれて います。その 詩作品紀行文 とも 一貫して いる ものが 「まわりの ものを 見る 目」です。詩作品は、自由詩という ので しょうか。どちらか というと、俳句を つくる 人たちの 「コトバで 写生する」姿勢が 基本に なって いる よう です。しかし、それが ただの 写生で 終わっては いません。コツコツ 写生する のは、その さきに 人間や 自然や宇宙の イノチを 感じとる ための 手段 なの でしょう。
たとえば、「幹から直接顔を出す桜の小花」を観察しながら、かたわらの「赤ん坊」に むかって、「お前のようだね」と 呼びかけて います。つまり、「桜の小花」と「赤ん坊」の姿 から 遺伝子か 宇宙子の はたらきを 感じとる ことが できた から でしょう。
コトバ (もともと 音声信号)を ならべるか、写真(視覚信号)を ならべるか、手段は ちがいますが、そこに 一つの 世界を えがきだし、その 奥 から イノチの はたらきを あぶりだす、その 手法は おなじ と いえます。
文集と 写真集とを よみくらべて、佐藤 父子の DNA (遺伝子)を 見せつけ られる 思いがしました。
それに しても、『遺伝子と宇宙子』に つづいて 『夜光』、よい 勉強に なりました。ありがとう ございました。
 
<参考>
佐藤 正樹 さんの 文集内容に ついては、この ブログ 記事「新緑の 季節…佐藤正樹詩集」(2014.5.5.6)を あわせて ご参照 ください。