2017年9月16日土曜日

本の評判など




  鶏頭とニラの花 9/11


 うたの時間 9/11 



 
  富山大橋通郵便局 9/11 


おたより(一部) 



鶏頭とニラの花 9/11
 911日(月)。デイ・ケアの日9時半、迎えのクルマで、200㍍ほどはなれた施設まで移動する。ここで入浴をすませ、やがて昼食。午後、かるい体操などをした後、オヤツをいただく。そして3時すぎ、クルマでホームへむかう。毎回こんな日程になっています。
 入浴とかるい体操だけでまる1日かかるということになると、なんとかしてもうすこし効率的なスケジュールが組めないものかという疑問もないわけではありません。ここで、「モノの見方、考え方」という問題が出てきます。
 ホームでは、住人の安全ともにプライバシー保護にも重点がおかれ、ややもすると孤独な生活になる恐れがあります。そこで、デイ・ケアでは、集団行動に重点をおき、社交性・社会性を回復・温存し、孤独化をさけるために、このようなシステムを採用したと解釈することもできます。介護施設としての浴場の設備や職員の配置などを考えれば、やはり現行のような方式になるのかもしれません。
 たとえば、部屋には五つのテ-ブルがおかれ、それぞれ4人の席が指定されています。座席指定は随時変更されることになっていますが、こうして毎回(2回)おなじテーブルで顔をつきあわせていると、ひとりでに親しみがわき、コトバをかわすようになります。
 また、窓ガラスや壁にイロガミでおった花やヒモがかざられていますが、これもみんなの共同作業によるものなので、仲間意識をはぐくむもとになっているようです。
 そして、この日も、テーブルの上の花瓶に鶏頭とニラの花がかざられていました(写真)。この花は、毎回仲間のuszさんが自宅の花壇からつみとってこられるのだそうです。

うたの時間 9/11
 通所者の中に9月生まれの方が三人おられ、出席者全員でHappy birthdayを歌ってお祝いしました。また、この誕生祝いの会にあわせて、「歌のお姉さん(?)」がこられ、虫の声」、「故郷の空」、「こきりこ節」、「夕やけこやけ」などの歌を、みんなでいっしょに歌いました。
 いつもだと、体操の一環として、スタッフの号令にしたがって「イチ・ニ・サン・シ・・・ハイ」で歌いはじめ、1曲終わると、一服する間もなく、号令一下、すぐにつぎの曲を歌いはじめることになります。それぞれの歌がもっている情緒をあじわっているヒマがありません。
そもそも、人の心をウツ[]ものウタ[歌・唄・唱]なんですから、まずは自分が歌の文句に心を打たれ、その流れでこんどは自分からまわりの人の心に打ちかかる(歌いかける)のがスヂだと思います。そして、自分と相手との心の交流を感じとることができれば、それこそが歌うことの楽しみであり、醍醐味だろうと考えるのですが、いかがでしょうか。

富山大橋通郵便局 9/11
 佐藤正樹さんからの紹介で、横澤康夫さんからやや専門的な書評がとどきました(くわしくは後述)。そのお礼のてがみに補足資料を同封して郵送するため、郵便局までいってきました。ホームから100㍍そこそこの近所ですが、帽子をかぶり、郵便物はカバンに入れて肩にかけ、2本のストックを使っての外出となりました。郵送料は380円だとわかりました。
 この郵便局のナマエが「富山大橋通郵便局」。「丸の内」というナマエは使われていません。なるほど、この道はすぐに「富山大橋」に通じるトオリ[]なんですね。
 丸の内のホームへ転居してから、ほぼ4カ月になりますが、自分の足で近所を散歩したことがほとんどありません。郵便局の手前に諏訪神社があり、には睡蓮(?)やガマの穂、さらにはカメの子が日向ぼっこしている姿も見えるのですが、ここは「防火用水池」として管理されてるとのことで、なんとも「フゼイがない」、「味もそっけもない」感じです。この日も素通りしてしまいました。
 それだったら、松川でも散歩したらということになりますが、連日のあつさで、まだいっぺんも松川まで足をのばしたことがありません。つまり、いまのところ、わたしの散歩道は、ホームからこの郵便局までということになります。

おたより、資料など
『コトダマの世界Ⅱ』について、電話・メール・はがき・てがみなどで、たくさんの声をよせていただきました。これまでのところ、はがき計25てがみ計17などとなっています。そのうちはがき数枚をえらんで、写真でご紹介しました。
そのほか、おりかえしご自分の作品を送ってくださった方もおられます。すでにブログでご紹介した小澤俊夫さんや佐藤正樹さんの作品がその例ですが、ご紹介したい作品はほかにもあります。

図書館などへの寄贈について
先日、富山県立図書館から『コトダマの世界Ⅱ』寄贈にたいする礼状(731日付はがき)がとどきました。公立図書館などへの寄贈は別ワクを予定していましたので、わたしは県立図書館へ発送した心当たりがなく、ハテナと思っていました。
912日(火)、仙石正三さんが「めぐみ」へ来訪され、ことの真相が分かりました。「悠学会」の席で贈呈された本を、仙石さんが県立図書館へ持って行って見せたところ、その場ですぐ寄贈資料としてとりあげられたということでした。これで、ナゾがとけました。わたしから仙石さんへ、あらためて1部贈呈して、一件落着。仙石さんには、ほんとにお世話になりました。
ここでもういちど、公立図書館などへの寄贈についてお伝えしておきたいと思います。もともと県下の公立図書館を中心に、100部ほどの別ワクで寄贈する予定でいました。ただ、富山市立図書館などでは、あらかじめ審査委員会で審査し、合格したものだけ受けつけるという話も聞きました。それくらいなら、ぎゃくに、寄贈してほしいといわれる図書館などへ優先的に寄贈するほうが、ムダな手数がはぶけて、よさそうだと考えています。
図書館でも、あるいは小中高の学校教育現場などでもかまいません。当事者でも、あるいはそのまわりの方でもけっこうです。あの図書館、あの学校へ寄贈してほしいとお考えでしたら、どうぞごえんりょなくお申しいでください。一人でもおおくの人にこの本を読んでいただくこと、そして「読んで、役に立った」と感じていただけること、それが著者としての願いです。
 なお、わたしはクルマも運転できませんし、こちらから本をおとどけする足がありません。恐縮ですが、丸の内のホーム「めぐみ」までおいでくださるようお願いします。
 また、個人で購入されたい方には、(店頭販売では消費税込み2700円となりますが)、12000円でおわたしします。郵送の場合は、送料(1300円)をご負担ください。


横澤さんからの書評
 さきに佐藤正樹さんあてにこんどの本をおお送りしたところ、「自分は専攻がちがうから」と、わざわざ中国語専攻の横澤康夫さんへ転送して、「書評」を依頼してくださいました。96日、その「書評」がとどきましたので、以下ご紹介させていただきます。なお、「書評」の中に、イズミへの質問なども含まれていますので、各項*印以下にイズミの文面を記述させていただきます。

泉興長様
初めまして、熊本市在住の横澤康夫と申します。
先日、先生旧知の佐藤正樹氏より、先生の御高著『コトダマの世界Ⅱ』が送られてきまして、書評を書いて先生に届けて欲しいとの依頼がありました。佐藤氏と私は大学時代一緒に山に登っていた仲で、私が中国語を学んでいたものですから、何か気の利いたモノが書けるのではないかと期待して依頼を寄せたものと思います。
 しかし、御著書を一読、大変興味深い内容でしたが、私は音韻論など先生の研究対象とされている方面については全く門外漢であることを思い知らされました。先生のお役に立つような話はとてもできません。ただ、いくつか感想を書き連ねて責を果たす?ことに致します。
*「音韻論など…全く門外漢」とおっしゃいますが、著者自身、もともと「まったくの門外漢」だったものが、かってに「象形言語説」(仮説)をたてただけのこと。学会・学界で公認されたものはなに一つありません。横澤さんのこの「書評」が中国語専門家からの書評第1です。貴重な資料として、拝読させていただきます。

先ず、先生と私の間に若干のすれ違いのご縁があると感じたことが2点。私は1961年の東京外語中国語の卒業で先生の遥か後輩に当たります。次に御著書の中に199810月に熊本大学で開催された中国語学会の年次大会で発表されたとの記述がありますが、当時私は当番校・熊本学園大学の外国語学部長をしておりました。ただ学会当日は種々の雑務に追われていまして先生のご発表を聞くことはありませんでした。いささか残念です。
以上は御著書の内容とは関係のない話です。
*熊本学園大学では、たしか「日漢英のk-r音比較資料」について報告させていただきました。こんどの本では、4章「クルマ=サイクルのカラクリ」にあたります。横澤さんとのご縁は「袖すれ合うも、多生の縁」といったところでしょうか。

さて私が先生の御著書を読んでいて、最も強い印象を受けたのは、日・漢・英を含め、各民族語は人類語の一方言に過ぎないというご指摘です。そのことは、御著書の中で音韻面などから詳述されているところです。そのことについて、私は当否を述べる知識も資格もありませんが、感覚的には納得できる話でした。それでふと思いついたのは、旧約聖書の創世記に記されている「バベルの塔」の物語です。人類共通の言語がここでばらばらにされたということですが、旧約聖書の言う通りなら、人類は過去に共通の言語を持っていたことになります。。
 先生のご研究はそれを復元する作業にもなるのではないかとも思いました。いかがでしょうか。
*いまの段階で「日・漢・英を含め、各民族語は人類語の一方言に過ぎない」というのは、あくまでも「推定」にとどまり、「断定」はできません。「断定」するまえに、やるべき作業手続きがのこっているからです。人類語の中で、インド・ヨーロッパ語については、インドをふくめて各地の民族語について、相互の位置関係などが分かってきています。しかし、日本語や漢語とまわりの民族語との関係はとなると、言語比較の方法さえ準備できていません。この地域の住民は、数千年にわたって、漢字という表意モジの便利さにおぼれ、「モジはコトバをしるす道具にすぎないこと」、「コトバは、もともと音声信号であること」をわすれてしまいました。
 どうすればよいか?インド・ヨーロッパ語の研究者がやったように、日本語や漢語の戸籍調べ(単語家族の研究)をすすめ、適確な比較資料(単語や単語家族)をそろえたうえで、比較してみることです。共通の土俵で、共通のルールで比較することによって、合理的・客観的で説得力のある結果や結論がえられるわけです。
 インド・ヨーロッパ語の実態が明らかにされたのは、200年ほどまえとされています。いいかえれば、日本語と外国語との音韻比較研究は、世界水準にくらべて200年ほどおくれていることになります。しかし、音韻比較研究の方法についてはちゃんと前例があるのですから、やる気になりさえすれば、5年か10年のあいだにかなりの成果があがることも期待できます。
 旧約聖書の「バベルの塔」などについては、わたしはキリスト教徒ではなく、十分理解できていませんので、発言する資格がありません。

 次に三巴紋の話も興味深く読みました。御著書では世界各地に見られる三巴紋の例が挙げられており、それにはそれぞれの社会の生命観、世界観、宇宙観、理想社会へのイノリがこめられていたとのご見解です。三巴紋は日本の庶民生活の中にもでんでん太鼓の模様や家紋などにもよく見られるようです。また韓国の太極旗の模様は二巴紋です。こうした事象についてこれからも先生の「ボチボチの歩み」の中でいずれご説明があるものと期待します。
 *三巴紋にのめりこんだころのことを思うと、「若かったな」と感慨シキリです。その後、日本語の単語家族研究に集中してしまいましたので、巴紋の実態把握はアトマワシになってしまいました。いまの「ボチボチの歩み」では、「見果てぬユメ」に終わりそうですが、どなたか若い方々に、ぜひ正面からチャレンジしてほしいテーマです。

 韓国の話を出したついでですが、先生のご研究では日・漢・英にしぼっておられますが、日中の間にある韓国語・朝鮮語については今後研究の対象にはならないのでしょうか。研究対象外ということであれば、それにはなにか理由がおありでしょうか。関係のない話かも知れませんが、韓国ではごく一部を除き漢字を排除し、ハングル中心の表記が使われています。北朝鮮では全く漢字を使用していません。同じ漢字圏でもベトナムでは中國語源の言葉をベトナム固有の言葉に置き換える政策がとられていると理解しています。一方中国では毛沢東の指導で、一時漢字を廃止し、ローマ字表記のみにする試みも行われましたが失敗に終わっています。漢字という特異なモジを使用する日本語の世界戦略と関連してですが、私は各国語の将来は時の政治、政権、あるいはあるいはナショナリズムなどにより決定づけられる運命が強いという思いを持っていました。先生のご研究とはあまり関係のない話とは思いましたが、感想を言わせていただきました。
*「象形言語説」の立場からいっても、漢語・英語にかぎらず、アイヌ語・琉球語・韓国語(朝鮮語)・モンゴル語などとの音韻比較を進めることが必要です。わたしがこれまで日漢英の3言語にしぼって音韻比較を進めてきたのは、わたしの語学力ではこれで精いっぱいだったからです。この種の研究では、個人の能力には限界がありますから、できるだけおおくの研究者が協力し、責任分担をきめて作業をすすめるのが効率的です。
 韓国・北朝鮮・中国などのモジ改革の流れも、重要な研究テ-マの一つです。この面で見ても、いまの日本文科省のモジ政策は、世界のながれから数十年もの時代おくれだといわなければなりません。
 なお、中国のモジ改革についていえば、1958年に中国語表音表記(中国式ローマ字つづり)を制定、小学校でまっさきにこのローマ字つづりを習得し、これをたよりに漢字の発音を習得できるようにしました。その結果、いまでは中国全土、どこでも共通語(北京語)が通用するようになっています。

 さて、五十音図、六十四音図の話です。まず五十音図をローマ字表記にして考えることは、日本語の理解を促進する上で効果が大であることは先生のおっしゃる通りです。私が家庭教師をしていた時の経験ですが、国語のできがあまりよくまかった中学生にローマ字表記で五十音図を教えたところ、国語の成績がなぜかみるみる上がったということがありました。現物は見ておりませんが、六十四音図を使えばチャンポン語の日本語がいっそう理解しやすくなり、言われているように日本語が外国人にとってもさして難しい言語ではなくなるのではないかとうことがおぼろげに理解できました。ただ、ちゃんぽん語で同音異義の多い日本語がどこまで理解しやすいものになれるのか、いささか疑問にも思えました。
*おなじく日本語といっても、いわゆるヤマトコトバが主流で、漢語その他の外来語がすくなかった時代には、日本語の音韻組織を理解するのに、「五十音図」が大変役に立ちました。しかし、現代日本語では、漢語やカタカナ語などがおおすぎて、「五十音図」では説明しきれない、つまり役に立たないようになりました。ナゼか?「五十音図」はふつうカナ(カタカナ・ひらがな)で表記されます。カナは表音モジではありますが、音節モジであって、音素モジではありません。ヤマトコトバと外来語ではもともと音韻感覚がちがうので、やはりいちど音素段階まで分解したうえで、あらためてコトバの音形や意味を再構成するような方法が、そのコトバの実態をとらえることにつながると思います。
 『64音図』というのは、「五十音図」の21世紀版をめざし、また(日本人の)漢語(中国語)・英語の習得(入門期)にも利用できるようにと考えた試案です。もちろん,なんの権威も、実績もありません。ただ、これをきっかけに、おおくの音図(試案)が提案され、議論されることを期待しています。
 いまの日本語がかかえている問題の中でも、漢語による同音異義のコトバがおおいことは深刻な問題です。ただし、たとえばコウエン[公園・公演・講演・好演・後援・高遠・口演・広遠・香煙]などは、現代漢語でもそれぞれちがった音形で発音されていますから、中国内では同音異義の問題は発生しません。それを日本語にとりいれたとき、ヤマトコトバの音韻組織にあわせて(もとの音形のチガイを無視して)、ゴタマゼにして、コウエンという音形で呼ぶことにしたために、これほど大量の同音異義のコトバが発生したわけです。漢語自体に、なんの責任もありません。漢語を無制限にとりいれた日本人の責任であり、できるだけ早く解決すべき問題です。

 先生は日本語の現代化、国際化にとって、最も基本的な課題は、文書の横書き化が徹底されていないことだとのべられています。国語教科書を初め新聞、雑誌、文芸作品もいまだにタテガキだと慨嘆しておられます。。先生は日本語辞典についても同じことを考えておられると思います。確かに日本語辞典は縦書きのままですが、私の知る限りではただ一つ集英社の国語辞典には横組み版があります。助動詞、動詞の活用表だけはタテグミですが、ご参考になれば幸いです。
*「集英社の国語辞典には横組み版がある」ことを教えていただき、ありがとうございました。日本語辞典の現代化、国際化という点では横組みとすべきはもちろんですが、「時代別にみた音形の変化」や「単語家族研究資料(語根と派生語の関係など)」など、客観的な判断資料を充実すべきだと考えています。

 最後に先生のこれからのご研究への期待を申し上げます。かってエスペラントが一部知識人の中で世界語として流行した時期がありました。先生のご研究が深まり、いろいろ述べられている仮説が定説になる時が来れば、日本語の将来を更に乗り越え、新たな世界語いや人類語につながる成果が拝観できるのではと期待がふくらみました。そうなればこのぎくしゃくした世界がもっと融和にみちた新しい世界に変化するのではないかとも考えました。(以下省略)
*このあと、日本語が人類語の一員として、どのような役割をはたすことができるか、なかなか予測がつきません。しかし、これまで日漢英の3言語の音韻比較作業をすすめてきた中でも、純粋なヤマトコトバと考えられてきた語音の中に、漢語や英語の語音とみごとな対応関係をしめす事例が多数見つかったことも事実です。このさき、さらにおおぜいの研究者たちが、またさらにおおくの民族言語との比較研究をすすめるようになれば、それだけ日本語(ヤマトコトバ)の実態(人類語の中での位置や役割など)も次第に明らかになることでしょう。
 「あの国(民族)は人類の敵だ」ときめつけると、あとは戦争へとつっぱしることになります。「人殺し競争」というバカなマネだけは止めましょう。「盗人にも三分の理」というコトワザもあります。まずは先入観念をすて、おたがいナットクゆくまで話しあうことが必要です。よくよく念をおさないと、あとで「あの時は、力で押しきられた」、「協定の見直しを要求する」などといわれることになりかねません。

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