2019年11月20日水曜日

紅葉の五箇山など






数枝さん三回忌 11/4 



五箇山A、11/5 



五箇山、B11/5 



五箇山、ℂ  11/5 



音の会 11/6   



琴の会 11/9 



 カンジャンチ[鍛冶屋家] 11/11



50年のあゆみ』(共壽会) 11/13 



社会人大楽塾 11/14




『古事記』を読む会 

11月3日(月)10時半から茶屋町豊栄稲荷神社で開かれた「『古事記』を読む会」に出席しました。10月の研修会にひきつづき、「欠史八代」(綏靖天皇~開化天皇)の問題についていろいろ意見が交わされました。わたしは10月の研修会でも自分の考え方を提案しておきました。八代の天皇が実在しなかったことも重要ですが、その天皇たちが存在したとして、そのナマエ(諡号)が記録されたことも事実なので、そのナマエをヨミトクことによって、当時の人たちがもっていた「天皇像(どんな天皇であってほしいか)をさぐる資料にすることはできると思います。

 今回はもう一つ、日本語の音韻変化について追加提案しました。「こんにち」、「これ~です」などいうときの「(助詞)は、「もともとphaと発音されていたが、そのご音韻変化によって、waと発音されるようになった」と解説されているようですが、「歴史カナヅカイ」に対して「現代カナヅカイ」をなのりながらこの助詞のばあいだけ「」と書いて「」と読むのは、合理的といえません。まず国語教科書から、「こんにち」、「これ、~です」と訂正表記することを提案します。

 さまざまな情報資料がある中から、「歴史の真実」をつきとめるのが「歴史学」。情報資料を伝えるのは主としてコトバにたよるのが実態ですから、コトバ(音形)事物(の姿)との対応関係をたしかめながら議論することが必要です。

 助詞のハ音がワ音に変化したことにより、当然「ワ音の系譜」に合流することが考えられます。わたしはこれまで、「ヤ音の系譜」(弓矢にたよる生活の反映)と「ワ音の系譜」(ワ・ワナにたよる生活の反映)を追究してきましたので、そのこととの関連も考えてみたいと思います。



数枝さんの3回忌法要

114日(月)10時半から、針原町光慶寺で、故数枝さん(信子の姉)3回忌法要に出席。ひきつづき五万石で会食。はるばる千葉県から来られたEmikoさん(信子の妹)Satie(その長女)さんとともに婦中町羽根の「かんぽの宿」で一泊しました。



紅葉の五箇山へ

5日(火)。快晴。せっかくの機会なので、ついでに世界遺産・五箇山・相倉合掌造り集落まで足をのばすことになりました。「現に人が住んでいる、生きた世界遺産」ということで、外国からの観光客の姿も多数見かけました。背景の紅葉も、みごとでした。そして16時すぎ、ホームめぐみまで帰着しました。



k-k音語の連想

 ここでちょっと脱線しますが、わたしは五箇山へむかうクルマの中でも、合掌造りの見学中でも、「ゴカヤマ」や「ガッショウ・ヅクリ」などのコトバヅカイについて考えつづけていました。ゴカヤマは普通[五箇山]と書かれますが、これは「重箱読みといわれる読み方で、漢語とヤマトコトバとをチャンポンにした言い方です。ヤマトコトバならイツツヤマ、漢語ならゴカサンと読むべきでしょう。

 ここでわたしの解釈を提案しましょう。漢語・漢字が伝来するまえ、この地域はコカヤマ(ゴカヤマ)と呼ばれていたと推定されます。コカとは、(上代語)動詞コク[]の未然形兼名詞形で、コク・シゴク装置。イネ・ムギなどの穂を上下2枚の石・板などではさみ、そのミ[実‣身]をシゴキとるシカケと考えてよいでしょう。

 コクkokの音形コク・シゴク姿を表わすのは、日本語だけの現象ではありません。漢語でも、たとえばコクモツのコク[]とタニマのコク[]とは、「固い岩・板などではさまれ、コキ・シゴカレル」姿という点から、[穀物][谷物]と表記する習慣が百年以上まえからつづいています。現代漢語教科書でも、[穀物]ではなく[谷物]と表記されています。

 日本語・漢語だけではありません。英語でも、「cocaine局所麻酔剤、cockオンドリ, cockpit操縦席, cockroachゴキブリ, cocktailカクテル, cocoaココア, coconutココナツなど、kok-音のコトバが多数あります。コカイン・ココア・ココナツは、「カタイ・カラでカコマレ、強そうな姿」の植物()ゴキブリは、おなじ姿の虫。コックピットは、「カタイ・カラでカコまれたクボミ」。オンドリは、「岩壁の強さをまねて、カシラ(コク・シゴク主役・大将)になることをめざすお兄さん」。カクテルは、文字どおり「オンドリのシッポ」で、ウイスキー、ブランデー、フルーツ・ジュースなどの強い混合酒。酒のアマサ・カラサ・ツヨサをキソウ[競]姿です。



気分転換

11月6日(水)。前夜は、ベッドに入ったのが11時。すこしおそくなりましたが、夜中に2回トイレにかよっただけ。たちまち6日朝をむかえました。これまで毎日、ヒマさえあればパソコンにむかい、ちいさな活字をおいかけるだけの生活を、2日間中断。富山から五箇山にかけて晩秋の紅葉をながめて過ごしていたことが、目を休め、気分転換の効果をもたらしたのかもしれません。



音の会

午後2時から、9fで開かれた「音の会」に参加しました。「始まりの歌」から「もみじ」「まっかな秋」「りんごのひとりごと」「りんごの唄」へとすすみ、オシマイは「売り声、いろいろ」。…「とう~ふう」「さお屋~さお竹」「金魚~え、金魚」「や~きいも~、いしや~きいも」など。いまでは、めったに耳にすることがなくなりましたが、この文句を読むだけで、モノウリの光景が目にうかび、ウリゴエが耳にきこえてくる気分になります。



琴の演奏会

119()午後、5fで「琴の演奏会」に出席。前回につづき、ホーム「めぐみ」の入居者見澤さんによる、2度目の演奏会です。「もみじ」「里の秋」「たきび」「赤とんぼ」「星影のワルツ」など、10曲余りを演奏。ふだんなれ親しんできた曲ばかりですが、という楽器の音色をとおして聞くことで、秋の日のフンイキをじっくり味わうことができたかと思います。



泉俊光さん死去

1110()午後、古川さんから電話で、泉俊光さん死去の知らせあり。Mioriさんへ連絡。       

1111日()10:30Mioriさんのクルマで、立山町の斎場へ向かいました。自分の体調から考えて、お通夜や葬式の席に長時間参加するのはムリなので、わざとこの時間帯をえらびました。おかげで、死に顔の俊光さんとゆっくり対面させていただくことができました。斎場から帰る途中、五百石商店街にある「泉商店」をたずね、スマホで1枚写真におさめました。俊光さんのお父さんがみずから鍜治場をかまえ、包丁やスキ・クワ・カマなどを製作したり修理したりしていた姿をいまでもはっきり覚えています。また、わたしが学生だったころ、あるいは敗戦後中国から引きあげてきて「配給簿」にたよっていたころ、さらには沢端にある「泉家墓地」を移転・改築したときなど、なにかにつけて「カンヂャンチ」(鍛冶屋の家)へ かよって、相談にのっていただきました。その「カンヂャンチ」のオモカゲをのこしたくて、スマホのカメラにおさめたわけです。そのとき偶然、長男の博之さんも自宅へ帰られたらしく、お母さんといっしょに姿を見せられたので、カメラにはいっていただきました。富山へ帰る途中、「大三元」で昼食をとりました。



50年のあゆみ』(第一銀行共壽会)

1113日()富山第一銀行xx支店長代理Ikhrさんが来訪。50年のあゆみ』(第一銀行共壽会編)をとどけていただきました。そのとき、いろんな話の中で、「有料老人ホームめぐみ」入居者としての感想をたずねられたりしました。Ikhrさんは銀行マンですから、有料老人ホームめぐみ」という物件に関心があり、入居者の評判(ホンネ)をききたいということだったかもしれません。わたしは『50年のあゆみ』をいただいたお礼として、『コトダマの世界Ⅱ』を1部お渡ししておきました。

 せっかくご持参いただいた本なので、ざっと目を通してみました。わたしの関心は「21世紀日本語の文書」として編集されているかどうかの問題です。理想としては「ヨコグミ」、「基本的にはひらがな・カタカナ・ローマ字・アラビア数字で文をつづり、訓よみの漢字はつかわない」、「ワカチガキをとりいれる」ことですが、いまの日本では、満点とれそうな本は見あたりません。義務教育の期間中に、1人前の國語能力を身につけさせなければならないはずなのに、その国語教科書に「ヨコグミ文がゼロ」という現状は、日本国文教総局の「怠慢!」というほかありません。

 そういった視点からみると、共壽会『50年のあゆみ』はかなり進歩的な感覚で編集された作品と感じました。全体としてヨコグミでないことは残念ですが、表紙の題字「共壽会だより」はヨコガキで、タヨリ[便] の部分もひらがなで書かれています。また、写真集の部や各種統計・一覧表のミダシや解説などの場でも、ヨコグミが採用されています。目録あとの凡例を見ると、「縦書きでありながら、数字はアラビア数字を採用した。年号の表記は、西暦を主とし、ところどころ補助的に元号表記を加えた」と書かれていました。さすがは元教師たちの集団による編集作品と感銘、敬意を表します。

 全面的にヨコグミとして編集すれば、英文や数式なども自由自在にとりこむことができるようになります。また、漢字をへらしてカナやローマ字つづりのコトバをふやしてゆけば、漢字の字形をおぼえるテマ・ヒマがハブケルことになり、それだけ「民主的・国際的な日本文」に変身できるわけです。

 ただし、カナモジがふえても、ベタガキではかえってヨミニクイという問題もあります。「漢字が点在することで、ワカチガキの役割をはたしてきた」といえるほどです。根本的な解決法は、全面的なワカチガキ実施しかありません。ところが、そのワカチガキ実施にさまざまな問題がからんできます。

 わたし自身、自分のブログの中で、ワカチガキを実行したいと考え、試行錯誤をくりかえしましたが、いまだに実現できていません。ワードでどうにか下書きを準備するところまではできましたが、いざこれをブログに転換しようとしたとたん、「半角あける」予定が「行かえ」になるなど、サンザンな目にあいました。

 ワカチガキをめぐっては、まず国の文教当局や国語学界などのあいだで「単語とはナニか」、「ワカチガキの原則(区切り方)および具体例」などについて議論し、その結論を全国民に知らせるべきだと思いますが、その作業がすすんでいません。また、日本の印刷業界でも、「ワカチガキの印刷技術が完成していない」のが実態のようです。

 印刷技術の完成には、巨額の研究・開発費が必用でしょう。しかし、それに十分見合うだけの新規需要が見こまれるとなれば、印刷業界のだれかが手を上げ、金融業界のだれかが応援することになる可能性があります。ひそかに期待しています。



社会人大楽塾 

 1114()。午後、9fで「社会人大楽塾」に参加。この日は「ひらかな唱歌」、「りんごの唄」、「もみじ」、「みちのく一人旅」などの曲がとりあげられました。とりわけ「ひらかな唱歌」作詞の着想がおもしろいと思ったので、その歌詞をメモしてみました。いっぺん読んだきりで、覚えてしまいそうですね。

あいうえ、かきくけ、さしすせそ

たちつて、なにぬね、はひふへほ

まみむめ、やいゆえ、らりるれろ

わいわい、わいわい、あいうえを



おわび

 都合により、「日本語の系譜」はお休みさせていただきます。


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