2012年9月8日土曜日

「散居村」から「金太郎伝説」まで

 
研修会スナップ 7/25
 
 
 「砺波平野の散村」
 
 
 研修会スナップ   8/31
 
 

 
おわび
ことしの夏はすこし異常だといわれていますが、わたし自身の体調や生活のリズムもいささか異常でした。体調については「年齢のことを考えれば、まあ仕方ないかな」と思ったり、「まだやりたいシゴトがある。ここでバンザイするわけにはいかない」と思ったり…。まわりのみなさんがつぎつぎ声をかけてくださったおかげで、なんとか元気そうなカオをしてすごしてきました。暑さに負けてグッタリとか、食欲がなくなるとかいうトラブルもありませんでした。
ということは、じつはあれやこれやテヌキしてきたからだとハンセイもしています。ブログにしても、はじめに予定していたことが実行できていません。とりわけ、公開講座「越のまほろば」や「日本海文化悠学会」については、わたしの不勉強で十分消化しきれない点もあり、ブログでの報告がおくれてしまいました。おわびいたします。
 
「砺波地方の信仰と民俗」
725日午後、富山市千代田町まる十で公開講座「越のまほろば」の例会が開かれ、砺波地方の進行と民俗」と題して尾田武雄さんが講演されました。尾田さんは、日本石仏協会理事で、富山県文化財保護指導委員。以下、その講演要旨をしるします。
 
砺波散居村の成立
庄川の流路の変遷にあわせて東大寺領荘園に比定された。
庄川扇状地の開発にともない町が成立…城端・福光・井波石動(山麓に位置)。
散居村の形態は、役人に対して、田んぼを少なく見せるための農民の知恵だった。
アズマダチと屋敷林100200メートル間隔で1軒の農家。まわりに耕地。白く大きな壁面をもつ建築。カイニョに囲まれる。屋敷林は西南に厚く、東側に薄い。
明治後期から増加。富国強兵政策と資本主義経済の浸透、新興地主の勃興。北海道移民、出稼ぎなど。
屋根換えカヤブキからカワラブキへ。ついでに母屋と付属の小屋を一つ屋根に。
報恩講ができる座敷やその什器を納めるをもつこと。それが願望だった。
この研修会の席で、つぎの資料もいただきました。
①「富山別院と振起する門信徒」尾田武雄。北陸石仏の会研究紀要第10(2011,7.)抜刷。
②「砺波平野の散村」(砺波市教育委員会発行リーフレット。2010.7.
 
「とやまの金太郎伝説」
831日、日本海文化悠学会例会が富山市豊坂稲荷神社図書室で開かれました。この日のテーマは「とやまの金太郎伝説」。講師は宮原利英さん。わたしが理解できた範囲で、講演要旨をしるします。
金太郎伝説」は、日本各地23か所にわたって分布している。
1997(H9)、南足柄氏で第1回金太郎ファミリーの集い開催。富山県大沢野町も参加。
1998(H10)、第2回。長野県八坂村。
2000(H12)、第3回。静岡県小山町。
2002(H14)、第4回。滋賀県長浜市で開催。
 
文獻に見る坂田金時の誕生経過
「坂田の金太郎」が始めて登場するのは、黒本「金時稚立剛士雑」(1763)。
「坂田金時」は、「今昔物語」(平安)、「大江山物語」(室町)の中で登場ずみ。
「前太平記」(1803)では、「坂田公時」と表記。
 
富山の金太郎」参考文献
①「喚起泉達録」野崎伝助(1731
②「越中立山下の金太郎ら」大沢野、杉下清一。「あしがら」第8号。南足柄市あしがら印刷。
③「金太郎、山姥伝説地探訪」金太郎、山姥伝承地調査研究会。1998,()教文社。
④「神通郷史談会活動日誌」杉下清一。
⑤「細入村史」1987(62).
⑥「大山村史」
 
伝説と史実との関係
富山で「金太郎」といえば、温泉か元県知事さんのアダナぐらいしか思い当たらなかったのですが、こんど「金太郎伝承地」が富山にも実在することを知り、びっくりしました。しかも、その「婦負郡細入村」はいま合併されて「富山市細入」となっているのです。
おかげで、「金太郎伝説」がいっぺんに身近なものに感じられてきました。
伝説と歴史的事実とは別ですから、富山の伝承地についても、いつ・どこで・どんな史実があり、それがいつ・どんな事情で・どんな伝説として成立したかたしかめることが必要で、伝説と史実を混同することは危険です。それはそれとして、伝説には、史実からはなれ、ひとり歩きして、人びとの心をゆり動かす威力があることも事実です。
 
金太郎と金時と公時
わたしはコトバが専攻なので、こんどもキンタロウ・キントキ・キミトキという人名が気になりました。ただ一人の人物が3とおりの名でよばれています。いちばん公式の、もったいぶった呼び名がキミトキ[公時]で、いちばん大衆的な呼び名がキンタロウ[金太郎]でしょう。キントキ[金時]は、音ヨミと訓ヨミの重箱ヨミになりますから、その点では公式の用字法としては非常識とされたかもしれません。
ただし、別の解釈も可能です。[]の日本漢字音はキンまたはコンですが、漢和辞典をよくみると、もとはキムまたはコムだったと解説されています。漢語音としては上古音kiemから(途中でkiem, tsien)現代音jinに変化したわけです。
キン[]は、キン[今・禁]などと同系のk-mタイプのコトバ。基本義は「カム・キム(キメル)・クム・コム」姿と考えてよいでしょう。キン[]は、「大地がカミコムもの」、「大地の奥にコモルもの」であり、キン[]は、「まわりに林(カキネ・カイニョウ)をめぐらせ(カマエ)、閉じコメル」姿です。つまり、日漢のk-m音語が共通の基本義をもっていることが分かります。
m音がn音に変化する現象は、ヤマトコトバでもしばしば見られます。たとえば、ミナ[]ニナメヒ[婦負] ネヒ
トキについても同様です。漢語ジ[]は、もとt-k音タイプでdhiegshiと変化したもの。「日+音符寺」の会意兼形声文字で、日が進行すること。ヤマトコトバでいえば、「ツカツカ・ツクツク・スクスク進む」姿。ヤマトコトバのトキ[]も、動詞トク[着・著]の連用形兼名詞形と考えることができます。太陽からツキ出た光線が宇宙空間をツキ進み、やがて地球へツク・トク・トドクことになります。ここでも、日漢のt-k音語は共通基本義をもっているようです。
キンタロウ・キントキという呼び名から、しばらく「ヤマトコトバと漢語が共通の音韻感覚でつながっている世界」をのぞき見る思いをさせてもらいました。
 

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