2013年12月10日火曜日

第10回「 越のまほろば」公開講座

 
 
「越のまほろば」公開講座
 
 
 
岩瀬湊地形図 
 
 
 
 「北陸萬葉集研究」創刊号
 
 
 

「岩瀬湊を 考える」
124日、千代田町の 丸十さんで 10回「 越のまほろば」公開講座 が ひらかれ、富山市 埋蔵文化センター所長古川知明さんが「岩瀬湊を 考える」と 題して 講演されました。お話を 聞いて いて、「富山に 住んで いながら、富山の 土地がらに ついて 不勉強だった」ことを 思い知らされました。

いただいた 資料を たよりに、岩瀬湊の 歴史を まとめて みます。

江戸時代、岩瀬港と よばれた 港が 二つ あった。神通川右岸に 設けられた 東岩瀬港と神通川左岸部の 西岩瀬港。

東岩瀬港は、北前船寄港地として 近世末 まで 発展を 遂げ、近代以降は 富山港として 富山市周辺の 物資輸送基地と なって いる。

西岩瀬港は、別名 八重津港・梅津港とも よばれた。この港も 近世前期に おける 北前船寄港地と して 知られ、18世紀に おける「大港十三港」の 一つ「八重津西岩瀬湊」とよばれたが、いまは 存在しない。その位置は、東岩瀬港 から 約2km西方。「神通古川」と よばれる 神通川旧流路の 河口部分。その左岸に 港が 設けられたと みられる。

神通川は、天生8年(1580)から 万治3年(1659)まで、洪水を くりかえした 結果、神通古川 から 現神通川に 流路を 変えた。これ以後 西岩瀬港は 砂の堆積で 港湾機能が おとろえ(東岩瀬へ 機能 移転)、しばらく 小規模な 漁港として 存続したが、海岸浸食などで 消滅した。いまは、浸食を 食い止める テトラポット群と 整備された 海浜公園となって いる。

 

岩瀬地域の地形図
いただいた 資料の 中から「岩瀬地域の 地形図」(この標題は 引用者)を 画像として 借用させて いただきました。近年に なって、中世 岩瀬湊 調査研究 グループの 手で 海底を 探査し、港湾の 位置を 復元する 作業が 進められて いる との ことで、この 地形図には、現神通川 流水路  延長線上に「神通 海底谷」、古古川 流水路の 延長線上に「四方 海底谷」が 記入されて います。これらの 海底谷と 陸地がわの「現神通川」「神通古川」「古古川」あるいは「東岩瀬」「西岩瀬」「四方」などの 地形や 配置を 対照しながら ながめて いると、むかし 北前船寄港地と して さかえた 岩瀬湊の 姿が 目に 浮かんで くる よう です 。

 

イワセ・ヨカタという地名
「目から ウロコ」という 思いの 研修会 でした。コトバの 語音に こだわる わたし としては、この日も イワセ・ヨカタ という 地名の由来 について 妄想を めぐらして いました。イワセ「岩瀬」地域は むかし から 海岸を 侵食されて きた 地質の はず なのに、どうして イワセ[岩瀬]と よばれる ように なった ので しょうか? フシギです。どなたか、分かって いたら教えて ください。ヨカタ[四方]に ついては、『角川・日本地名大辞典』(富山県)に 「…神通川左岸に あたって いた 土地が 漸次崩壊して その形を 失し 4つの潟を なした ので 四潟と 称した」との 説が 紹介されて いました。そんな ところ かな と ナットクして います。

 

「萬葉集研究会」の思い出
公開講座の あと、夕方 から「越の まほろば」の 忘年会が あり、ゲスト として 木本秀樹さん(安田城跡 管理人)も 参加され ました。木本さんと おあいする のは ン十年ぶり。むかし 藤井一二さんを 中心に「萬葉集研究会」が できた ころの ことを 思い出しました。197912月に「北陸萬葉集研究」創刊号を 発行。藤井さんが「『平城宮木簡』と 遣渤海使」(覚書)、木本さんが「八・九世紀の 伊吉氏に ついて」(論考)を 発表して おられます。わたしも「たかヒカル 日の御子fk 子音連続の 意味を さぐる」という 小論を のせて いただきました。

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