2014年8月20日水曜日

敗戦 前後の 思い出

 
 
北京、小沢公館で、1941
 
 
万寿山で、1945 
 
 
青年隊舎で菅原医師、1945 
 
 
居庸関あと、1981 
 
 
八達嶺周辺、1981 
 
 
 

画像に ついて
敗戦当時の 画像資料を かかげたいと 考えましたが、これはと 思う ような 資料が 見あたりません。とどの つまり、二番煎じ ですが、ブログ七ころび、八おき」の「華北交通の ころ」で 使用した ものを 再度 ごらんに いただく ことに しました。

 

  北京、小沢公館で、1941
東京外語(現東京外国語大学)3年生の 夏休みを 利用して 中国旅行を こころみ、北京市三条胡同小沢公館で はじめて 小沢開策さんに お会い しました。1941年 春、華北交通に 入社した ときも、まっさきに 小沢公館を たずねました。「四合院」と よばれる 典型的な 中国風 建築様式で、政治・経済・文化 各方面の 人たちが 出入りして いました。当時、小沢さんは「新民会(旧「満州国」の「協和会」と 同系)の 世話役で、雑誌「華北評論」を 発行して おられました。

ごく 最近に なって、世界的な 音楽指揮者 小沢征爾さんが 開策さんの 息子さんで、俳優の 征悦さんが お孫さんに あたると 分かって びっくり しました。なお、わたしの記憶では「開策」ですが、最近 ネットで 見た 資料では「開作」と 表記されて いました。

 

  万寿山で、1945
19452月、張家口鉄路局文書科に 勤務して いた わたしは、結婚の ため 一時帰国 しました。富山(信子の実家)・松島湾(船舶兵として 召集された 弟ナガヨシ[長義]と 面会)、北海道上富良野(両親に 結婚報告)各地を かけまわり、すぐ 任地へ 引きかえしました。写真は、帰任途中 北京で 万寿山を たずねた ときの もの です。

 

  青年隊舎 まえで、菅原医師、1945
張家口では、会社の 寮、青年隊舎に 住みこみ、信子は「寮母」の 辞令を いただきました。青年隊舎の 住人は 独身、単身の 男子 ばかり。中には、2交替・3交替 勤務の 青年たちも いて、寮母室は 昼も 夜も にぎやかでした。

張家口鉄路医院 内科医師菅原恒有さんも 青年隊舎 幹事の 一人で、「青年隊舎の 居住環境」を調べあげ、「改善策」を 提案する など していました。写真は、青年隊舎 まえでうつした もの です(戦後は 郷里 岩手県庁に はいられ、厚生部長 まで つとめられました)。

 

  居庸関あと、1981
いまでも 中国旅行と いえば、まず 首都の 北京市を 訪問します。天安門・故宮・万寿山なども 訪問しますが、すこし 時間が あれば 八達嶺 まで でかけて、「居庸関あと」を 見学したり、「万里の 長城」を 散歩したり される でしょう。

わたしの ばあい、格別な オモイデが あります。その第1は、1945821、いっぱん 在留邦人の 張家口脱出を すませた あと、華北交通 従業員 にも 撤退命令が 出て、さいごの 列車(無蓋貨物車)に 乗車、北京へ 向かいましたが、途中 この辺(八達嶺~青竜橋)線路が 八路軍の 手で 破壊されて いて、いつもなら 数時間で 到着できる ところを45日 かかって しまった こと(この項、中公文庫、梅棹忠夫『行為と妄想…わたしの履歴書』を参照)。

2は、張家口を 脱出した あと 天津で 帰国船を まって いた のですが、「日本国再建の 道を さぐる には、アメリカ路線 だけで なく ソ連・中共路線に ついても 研究することが 必要」との 議論が あり、もと 青竜橋 地区 保線 担当の さん(軍と 連絡の上、線路の 安全に ついて 八路軍と 交渉の 実績あり)に さそわれ、張家口ㇸ もどる ことを 決意した こと。10月 なかば居庸関の 検問所では、無条件降伏した はずの 日本軍兵士(全員 幹部候補生)が 銃剣を かまえて、通行する 中国人の 身体検査を して いました。わたしは さんの お供を して この 駐屯隊を たずねた ことも あり、単独で 中国人に 変装し、日本兵の 検問を うけて 八路軍地区に はいった ことも あります。まだ25歳という 若さと、「日本国 再建の 道を さぐる ため」という 妄想に かられての 行動でしたが、いま 思いだしても フシギな 感じです。

この 写真は、1981年に 旅行した ときに 写した もの です。すっかり 観光地化して いて、むかしの おもかげは ありません でした。

 

  八達嶺 周辺、1981
居庸関あとや 付近の 長城線 あたりは たしかに 観光客で いっぱい でしたが、おなじ八達嶺の 北がわに 目を うつすと、そこは むかしながらの ながめ でした。「ここの 検問所を すりぬけて、あそこの 山かげに さしかかった ところで、たちまち 八路軍の 民兵に つかまった」など、なんべん 見ても たちまち 当時の 光景が 目に うかんで きます

 

<付記>
このあと、「敗戦記念日に 思う こと」の 項を 予定して いましたが、時間的に 間にあい ません。とりあえず きょうは ここまでと します。

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