2016年9月9日金曜日

芥川の「老いたる素盞鳴尊」を めぐって


豊栄稲荷神社


社務所 


「古事記を読む会」研修会 





「古事記を読む会」9月 研修会
 9月4日()午前、茶屋町 豊栄稲荷神社 社務所で、「古事記を読む会」の 研修会が 開かれました。この日の 講師は もと 富山県立図書館長 鷲本 義昌 さん。テーマは「芥川の『老いたる 素盞鳴尊』を めぐって」。


 当日 いただいた 資料には、つぎの 5項目が 示されていました;


◇「芥川龍之介大事典」より


 素盞鳴尊 すさのおのみこと


  小説。[初出]「大阪毎日新聞夕刊」大正9年三月三十日~六月六日。四十五回の連載。[収録] 『春服』(前半三十五回は単行本未収録。後半十回を「老いたる素盞鳴尊」と改題し収録。春陽堂、大正12年五月)。全集第六巻収録。


◇八雲立つ


◇炉辺の幸福


  「侮蔑と捨象の対象でしかなかった実人生が、ようやく生にかかわってもつ不可避の意味を作家に問いはじめた」(三好幸雄)


◇十風五雨


◇夏の終(わ)り  伊藤静雄


また、別紙として、小説「老いたる 素盞鳴尊」 全文(十回分)コピーが 配布 されました。


つまり、「日本最古の 古典『古事記』が、現代文学者たちに どんな 影響を あたえたか」、「例えば 芥川龍之介は、小説「老いたる 素盞鳴尊」の中で なにを いいたかった のか」考えて みようと いう こと でした。


 「大阪毎日(夕刊)」に 45回に わたって 連載しながら、後半 十回分だけを 老いたる素盞鳴尊」と 改題し 収録」と いう 事実経過の中に、小説家 芥川の 心情変化の 過程が 読みとれると いう わけです。


 スサノヲ命と いえば、すぐに 連想される ものの 一つに 「八雲 立つ…」の歌が あります。


   八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を


  この歌は、「スサノヲ命が 作った」と されて いますが、実は 当時 いっぱんに 歌われて いた 祝婚歌の 一つだと いう 説も あります。アシハラシコヲ[葦原色許男](大国主命)と スセリヒメ、あるいは その 応援団の 人たちが 歌っても よい わけです。


 「八雲立つ 出雲八重垣」とは「スゥイート ホーム」の こと であり、「ロバタ[炉辺]の生活を 楽しむ」姿 です。漢語で「十風 五雨」と いう のも、「十日に 一度 風が 吹き、五日に 一度 雨が 降る」という 現実生活の 楽しみを うたった コトバです。


 ただし、文学者・小説家とも なれば、『古事記』の 記事を ただ 現代語に 訳した だけでは どうにも なりません。なんとか して 独自の「小さな説」を 立てる 必要が あります。芥川が『古事記』の 「スサノヲ命」を 題材と して 小説を 書きはじめ、やがて 後半 十回分だけを 改題して 収録した ことは、さきほど 紹介した とおり ですが、そのことは 彼が それだけ 真剣に スサノヲと とりくみ、七転八倒 させられた ことを 示しています。


 小説「老いたる 素盞鳴尊」の 中で、作者の 目は スサノヲの 目と 同調して います。最愛の ひとり娘を もつ 父親が、娘の 恋人を 見る、その目です。娘の 恋人・アシハラシコヲを 「ハチの ムロ」,「オロチの ムロ」へ 閉じこめる。さらには 枯草に 火を はなち、その 炎と煙で 焼き殺そうと する。しかし、スサノヲと スセリヒメと アシハラシコヲとの 人間関係に、やがて 転機が おとずれる。若い男女の キズナが 父と娘の キズナを ふり切って、スサノヲの 家から 脱出計画を 実行する。   


ふたりが 乗った 舟が 遠ざかる のを 見て、スサノヲは すぐ 弓に 矢を つがえて ひきしぼるが、矢は ついに 弦を はなれる ことが なかった。


 やがて 弓矢を おいた スサノヲが、二人に むかって 祝福の コトバを おくる。


「おれよりも もっと タチカラ[手力]を 養え」


「おれよりも もっと チエを 磨け」


「おれよりも もっと し合せに なれ」





 あれほど 憎み、痛めつけて きた 若者に むかって、ある日 とつぜん 祝福の エールをおくる。この 豹変ぶりを どう 解釈すれば よいか?むつかしく 考えれば、たしかに むつかしい 問題ですが、じっさいには、現代社会でも よく 見たり 聞いたり する 現象だとも いえそう です。最愛の 娘の ムコ殿に たいしては きびしい テストを する。そのテストに 合格したと なれば、一転して、応援に まわる。そう 解釈する 人も いるでしょう。また、どれほど 強い 人間でも、やがて 老人と なり、死の 日を むかえる。最愛の娘に 恋人が でき、親の手が とどかない ところへ 立ち去る 日が 来る。そう 考える人も いるでしょう。





 時間の 制約も あって、伊藤 さんの 講話では、さいごの 項目「夏の終り…伊藤静雄」に ついて、くわしい 解説を お聞き できません でした。あとで ネットで しらべて いると、こんな 記事が 見つかり ました。


 夏の 終り


夜来の 颱風に ひとり はぐれた 白い 雲が


気の とほくなる ほど 澄みに 澄んだ


かぐはしい 大気の 空を ながれて ゆく


太陽の 燃え かがやく 野の 景観に


それが おほきく 落す 静かな かげは


……さよなら……サヤうなら……


……さよなら……サヤうなら……


いちいち さう うなづく まなざしの やうに


一筋 ひかる 街道を よこぎり


あざやかな 暗緑の みずた[水田]の おもてを 移り


ちひさく 動く 行人を おひ越して


しづかに しづかに 村落の 屋根屋根や


樹上に かげり


……さよなら……サヤうなら……


……さよなら……サヤうなら……


ずっと この 会釈を つづけ ながら


やがて 優しく わが 視野から 遠ざかる


  *昭和21年(40歳)『文化展望』10月号、後に『反響』に 所蔵。


 この「夏の 終り」は、1946年 つまり 戦後 間もない頃の 作品で、伊藤静雄が 40歳の 時の もの である。24歳から 詩を書いて 発表し 始め…1945年には 発表作品は ない…1949年に 肺結核を 患い、そのまま 入院生活を 送り、1956年に この世を 去って いる。





  以上、『古事記』スサノヲ命 から、現代の 小説家 芥川 龍之介・詩人 伊藤 静雄に いたる まで、いっしょに 考えあわせて みると いう ことで、わたしと しては めったに できない 勉強を させて いただきました。





『古事記』の 読み方に ついて
 『古事記』の 読み方に ついては、さまざまな 読み方が あって よいと 思います。自分の すきな テーマを えらび、得意と する 研究方法に よって 研究を すすめ ながら、まったく 別の テーマや 方法に よる 研究者の 報告を 聞く ことで、意外な ヒントが 得られる ことも ある でしょう。


 わたしの ばあいは、やはり コトバの 音声面に こだわって、『古事記』を 読みつづけたいと 思います。たとえば「スサノヲ命・スセリ姫・アシハラシコヲ」などと いう ナマエの 意味を さぐりたいと 思います。アマテラス[天照](大神)や オホクニヌシ[大国主]()などは 現代語との 関連が つかめますが、スセリや シコヲと なると、「それ、日本人の ナマエ なの?」と たずねたい 感じに なったり します。


 現代日本語の 実態は、ヤマトコトバ・漢語・カタカナ語 などの チャンポン語 ですが、ヤマトコトバの 実態も「ヤマト地区の コトバを 中心に、日本列島 各地の コトバを とりこんだ チャンポン語」だったと 考えられます。


 人名・地名など には、命名当時の 貴重な 情報が こめられて いると されて います。「テル[] ものが テラ[]」と いう ヤマトコトバの 原則が 分かれば、アマテラス派(神道グループ)テラ派(仏教グループ)の テラと いう 語音を 禁句と した 理由も わかって きます。スサノヲ・スセリ・シコヲ などが ヤマトコトバだと すれば、ヤマトコトバの 中に 同源・同系・同族の コトバが ある はずです。テマ・ヒマの かかる 作業ですが、まず ヤマトコトバの 戸籍台帳を できるかぎり 整備する ことが 必用。これが できれば、やがて 日本語と 外国語との 音韻比較の 道も 開けて くる でしょう。

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