2018年6月27日水曜日

記念講演:「神岡での研究」など 


記念講演:「神岡での研究」6/16


サラリーマン川柳コンクール展    6/16 


脱水対策の勉強会 6/19 


三味線を聞く会  6/20 




臨時理容室で髪をカット

615日(金)午後、6Fで臨時理美容室開設。「髪や・金沢支部」(南砺市福光)から2名の女性理美容室師さんが毎月出張してこられ、ホームのみなさんが利用しておられます。わたしはカットだけしてもらいました。髪型の注文を聞かれ、「適当に」と答えたところ、坊主頭にちかい姿になってゆくことがカガミを見ていて分かりました。内心、「あれっ?」とも思いましたが、このさき「あつい夏日」がつづきますので、このほうがすこしでも「若くて、元気そう」に見えるかもしれない。そう考えて、ナットクしました。



講演会:「神岡での研究」

616日(土)、午後、富山国際会議場メインホールで冨山健教育会創立130周年を記念した講演会があり、東京大学宇宙線研究書所梶田隆章所長が「神岡での研究」と題して講演されました。わたし自身は、むかし中学校理科の時間に「分子・原子・電子」などの名前を教えられた程度の知識しかありません。せっかくスライドを使って「原子核・陽子・中性子・ニュートリノ・重力波」などについて解説していただきましたが、わたしの頭で理解できる限界をこえていました。おはずかしい話です。

理論的に、まともに理解することはできませんでしたが、それでもこの講演会に出席したことはムダでなかったと思っています。理屈は別として、講師梶田さんの人間性みたいなものを感じとることができたからです。

配布された「講演要旨」に、つぎのように書かれています。

 神岡でのニュートリノの研究が始まって既に30年以上が経ちます。この間の神岡での研究について振り返り、今後の展開を考えていきます。。また、近年進めている重力波の観測に向けた研究についても触れたいと思います。

全体を通して、現在の基礎科学研究の一端を紹介し、学校教育の今後を考えるうえで、何かヒントになる材料を提供できればと考えています。

物理学・文学・言語学など専門分野の区別をこえて、学問研究者としてののセナカ[背中]を見せていただいた感じです。うろおぼえの用語で表現すれば、「ある種のニュートリノが体内を通過した」みたいな感覚です。

なお、入場するまえ、会場受付の方に、『コトダマの世界Ⅱ1冊を富山県教育会へ寄贈させていただきたいと申しこみ、受理していただきました、。もともと自分の足で県教育会をおたずねして、寄贈の手続きをする予定にしていたのですが、いまの体調ではそれができません。失礼な点は、おわび申しあげます。



サラリーマン川柳コンクール展

この日、会議場1Fで、「サラリーマン川柳コンクール」の入選作品が展示されていたので、ついでにのぞいて見ました。、富山国際会議場主催、第一生命(株)協力。

  スポーツジム 車で行って チャリをこぐ

  「ちがうだろ」妻がいうなら そうだろう

  ノーメーク 会社入れぬ 顔認証

  効率化 進めて気づく 俺が無駄

  電子化に ついて行けず 紙対応

  父からは ライン見たかと 電話来る…(以下省略)

 現役をはなれて数十年のわたしとしては、たまにこうした作品とジックリつきあってみりのもよい「アタマの体操」になると思います。

入選作100点のなかで、わたしがいちばん共感でき、またさらに深く考えさせられたの

が、第4位とされる「効率化 進めて気づく 俺が無駄」という作品です。



言語習得の効率化とムダ

 ここで、しばらく話が脱線することをおゆるしください。わたしがとりあげたいのは、いま日本の小・中・高校で実施されている日本語・外国語の学習指導法が「どれだけ効率化され、どれだけムダをはぶいているか」という問題です。

文科省の「学習指導要領」の中には、「言語教育のムダをはぶき、効率化する」ための具体的な方法が示されていないようです。その点から見て、現行の「指導要領」それ自体がムダではないか、という問題がでてきます。まじめに効率化を考えれば、「オレがムダ」と気づくのが当然。もし気づかないとすれば、それこそ「まじめに効率化を考えていない」証拠だと思います。具体的に、言語学習指導の実態を観察してみましょう。

 日本語学習にかんしていえば、ふつう「国語」と呼ばれ、とりわけ小・中学校の段階では、「コトバの学習」というカンバンをかかげながら、じっさいは「漢字のヨミカキ練習」、つまり「モジの学習」に追われているだけです。小中学校の国語学習指導要領には、「コトバとはナニか?」、「日本語はどんな音韻感覚のコトバか?」など、生徒たちの自発的な言語活動をうながす場面の設定が示されていないようですから、学校の先生や生徒たちが、「オレがムダ」と気がつかないのもアタリマエなのかもしれません。

 英語など外国語学習の実態はどうなっているでしょうか?これまで、小学校でも、国語の時間にローマ字を学習することになっていますが、じっさいはきわめて不十分。中学校でもういちど基本から学習しなおすことになります、ここにもおおきなムダがあります。

 言語学習の基本は、その言語の音韻感覚を習得することであり、日本語と英語ではそれぞれ独特の音韻感覚になっていることは事実ですが、その反面、おなじく人類語の一つとして、共通の感覚をもっていることも事実です。生徒が母語として日本語を習得する過程で身につけた音韻感覚のうち、英語と共通する部分についてはそのまま通用させ、相違する部分、日本人がニガテとする語音に重点をおいて練習することによって、効率化することができるわけです。このことは、日本人が第一外国語として英語を習得したあと、さらに第二外国語として中国語などを習得しようとする場合、さらにいっそうの効率化が期待できることを示しています。ただし、そのためには、国語学習と外国語学習ともども、「コトバは音声言語が基本。モジはコトバを記録するための道具」という言語観が一貫していなければなりません。

ここで、もう一つちがった視点から、この問題を考えてみましょう。そもそも日本語とはどんな言語かという問題です。いま「ムダをはぶいて、効率化」が求められているのは、現代日本語についてであり、『古事記』『萬葉集』時代の日本語についてではありません。

『古事記』『萬葉集』時代の日本語は、ほとんどすべてヤマトコトバだけで構成され、漢語などの外来語はほんのわずかでした。それにくらべて、21世紀の現代日本語は、ヤマトコトバの音韻感覚を中心におきながら、漢語・英語など大量の外来語をとりこむことによって、ゆたかな語彙体系をもつ言語になっています。「ゆたかな語彙体系」という点でではすばらしいことですが、そのために「おおきなムジュン」をかかえこんでしまい、どうしたらよいか、こまっています。たとえば、同音異義の漢語が多すぎること。コウエン[講演・香煙・公園・公演・後援・好演・高遠]など、漢語の世界ではそれぞれちがった音形なので区別して聞きとれますが、日本漢字音ではすべて同一の音形コウエンとなり、耳で聞いただけでは区別がつきません。同音異義のコトバは、コトバの伝達回路の途中で脱線や衝突などの事故をおこす恐れがあり、公式のコトバとしては失格とすべきです。漢字の正確な字形をおぼえていないでも、機械がかってに漢字に転換してくれるので便利だとおもっていたら、転換ミスで同音異語に転換され、ミスにきづかれないまま、文書として送達される、という事故が多発しています。漢字という表意モジにたよっているかぎり、この種の事故をなくすることはむつかいいようです。

 ここまで来ると、「効率化」どころのさわぎではありません。ここで「オレがムダ」と気づかないようなら、あとはレッドカードを切るほかないでしょう。

 現代日本語のなかに、これだけ大量の外来語をかかえこんだ以上、いわゆるヤマトコトバの音韻感覚を習得するだけで、現代日本語の音韻感覚を習得できる道理がありません。ヤマトコトバだけでなく、外来語それぞれの音韻感覚についても、「どの点で、日本語の感覚とちがうか」など、ひととおりわかってからでないと、現代日本語をマスターできるわけがありません。ところが、「学習指導要領」にその「要領」が示されていない。「オレがムダ」の見本みたいなものになっています。



脱水対策の勉強会

619日(火)午後、9Fで「脱水対策の勉強会」が開かれました。講師として、大塚製薬工場の方が見えられ、「夏の熱中症対策」、「熱中症予防のための体調チェック」などについて解説されました。「脱水症状の発見方法」なども、よい勉強になりました。熱中症については、先月なかばの一件でこりこりごりなので、よくよく気をつけて、無事この夏をすごしたいと考えています。



三味線を聞く会

 620日(水)。午後、9Fで「三味線を聞く会」。今回はお一人で登場。沖縄民謡「安里屋ゆんた」、「」からはじまって、東北の民謡や北海道の「ソーラン節」、最後は富山の「こきりこ節」、「八尾おわら節」まで、「三味線の音」をじっくり楽しませていただきました。   

あとでネットでしらべてみると、三味線の皮としてヘビ・ネコ・イヌなどの皮が使用されており、動物愛護運動の人たちから「ネコのイノチをうばわないで」と抗議の声が上がっているとのことでした。ナルホドとも思いますが、むつかしい問題です。「ネコはダメ」というなら、「イヌやヘビもダメ」といわなければ、話のスジミチがとおりません。「イノチをうばう」という点では、「精進料理」なども「植物のイノチをうばう」点で同類です。この問題を解決するには、なによりまず「自分ひとりの力では生きてゆけない。まわりのイキモノのイノチをいただく、そのおかげで生きてゆける。つまり、生かされているだけ」という「真実」を自覚することが基本課題だと考えていますが、どうでしょうか?


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